第20話 彼の怒った姿を初めて見た
それから夕方までユラの家で話をしていたらどんっと扉が叩きつけられるように開かれた。びっくりして振り返れば眉を寄せて怖い顔をしたラルフがそこに立っていた。それにはシェリルも、ユラも驚いて声も出ない。
ぎろりと見られた瞳と目が合い、シェリルがびくりと肩を震わせるとラルフはわずかに眉を下げた。それからシェリルの側まで行くと彼女の手を取ってぐいっと力強く引かれる。
そこではっと我に返ったユラが「リミィは!」と声を上げた。ラルフはまた眉を寄せたが「外で叱られている」と不機嫌そうに返す。そんな彼に腕を引かれながら外に出てみれば、リミィが長に叱られていた。
「お前はなんてことをしているのだ! バカたれが! そんなことが許されるだけの仲ではないだろう! そもそも相手に失礼なことをしている自覚はあるのか!」
長にガミガミと激しく叱られてかリミィは泣きながら謝っていた、そこまで怒られると思っていなかったようだ。
家から出てきたラルフに気づいてか、ヴィルスが「お前も結構、言ったらしいな」と片眉を下げた。
「彼女、泣かせたんだろ」
「俺が怒らないと思っているのか、ヴィルス」
怖い顔から変わらない彼の様子にヴィルスはだろうなと頷く。シェリルはもしかして、リミィは何か酷いことを言われたのだろうかと心配になった。
「あの、何か酷いことを言ったり……」
「……俺はただ、お前に興味もなければ好きだとも思わない。勝手なことをするなと言っただけだ」
お前のことはただの長の孫娘ぐらいの認識であり、興味もなければ好きにもならない。それに雇うかどうかは俺が決めることであって、お前が決めることではない。お前は自身が失礼なことをしている自覚があるのかと言っただけだとラルフは淡々と語る。
ラルフの言い分も分からなくはない。言い方も少しきつい部分はあるけれど、リミィのような子に通じるにはそれぐらいはっきりと言うべきだろう。それは分かっているのだが、きっとその怖い顔で低い声で言ったのだと思うと泣きたくなる気持ちもわからなくもなかった。
お前がリミィの心配をする必要はないだろうとラルフは眉を寄せる。勝手に追い出された身なのだから、シェリルは被害者だと言われるのだが心配しないわけにもいかなかった。
「私ももう少し説得すればよかったなと……」
「あれは強引だから無理だっただろう」
ラルフの指摘に確かにとシェリルは一連の流れを思い出す。あれは強引であったし、自分のやっていることは正しいと疑わない目をしていた。そんな相手を説得できたかどうかは怪しいものだ。
「シェリルがヴィルスを頼ってくれてよかった」
安堵の息をラルフはついた。彼は心配していたらしく、急いで此処まで来たのだという。それは申し訳ないことをしたなとシェリルは俯いた。
「まぁ、その……ほかに行くあてもなかったので……」
いきなり追い出されても困る、新しい働き口を探そうにもまず情報がないと探せない。最初の頃のように何もわからず、とりあえずで行って失敗はしたくないのだ。
ヴィルスたちに聞けば情報がもらえるかもしれないと思ったのだと返せば、ラルフはまた眉を寄せた。
「お前は他の場所へ行く気だったのか」
「えっと、ラルフさんが誰を選ぶかは分からないですけれど、私はその……お邪魔はしたくないですし……」
ラルフが誰を選ぶかは本人次第なのでわからないけれど、相手ができたのならば自身は邪魔になるかもしれない。家政婦とはいえ若い女が側にいるのは相手も不安に思うだろう。そう考えれば離れるというのは選択に入る、幸せを台無しにはしたくないのだから。
シェリルは思ったままを言ったのだが、ラルフはまた怖い顔をしていた。何か自分は悪いことを言っただろうかと考えてみるも、間違ったことを言ったとは思わない。不思議そうにしていれば彼は諦めたように小さく息を吐いた。
「あぁ、ラルフ。本当に申し訳ない」
リミィの説教が終わったのか、長は慌ててラルフに駆け寄ると頭を深く下げた。その焦り具合に少しだけひっかかりを覚えるもシェリルは黙って話を聞く。
「なんとお詫びをしたら……」
「いや、もう気にしていない。シェリルが戻ってくれば問題はない」
「なんで、そんな女なのよ」
ぼそりとリミィが呟き、涙を拭いながら彼女はシェリルを睨んいる。それに長が「口の利き方がなっていない!」と怒鳴り上げるとそれをラルフが止めた。
「ら、ラルフ……」
「何処がいいと言ったな」
ラルフは冷めた瞳をリミィに向けた。それは氷のように冷ややかで、リミィだけでなくシェリルも肩を跳ね上げる。
「お前のように自分勝手なことはしないし、他人に迷惑をかけるようなことも失礼なこともしない」
「それは……」
「誰かを想う気持ちがある。今のお前にそれがあると言うのか?」
誰かを想い、叱り、優しくし、思い出に泣く、そんな心がお前にあるのか。ラルフの言葉にリミィは何も言えない、言ったところで今の状態では説得力など皆無だ。ただ、黙って聞いて涙を流すしかない。
「そもそも、謝罪が先なのではないのか。お前は彼女に酷いことをしたのだぞ」
「…………」
「別にいいですよ」
唇を噛むリミィにシェリルは言う、謝罪しなくともいいと。それにはラルフも周囲にいた彼らも何故といったふうな視線を向けてきたので、シェリルは「もう気にしていないので」と答えた。
「別にもう気にしていないの。それに謝ったからって許されるとは限らないでしょう? 私はそうではないけれど。アナタは悔しさを持っている、謝りたくもないと。なら、無理して言わなくていいわ」
無理して心にも思っていない謝罪を受け取るのは気持ちの良いものではない。もう同じようなことを他の誰かにしないければそれでいいとシェリルが言えばリミィはまた涙を流す。
彼女には何をやっても敵わない、リミィは感じた。どんなに突っかかろうと、反抗しようとシェリルにはなんの攻撃にもならないのだと。
***
家へと再び戻ったシェリルは荷物を置いて食卓の方へと向かうと、ラルフがテーブルに頬杖をついて座っていた。何か考えてるような、そうでないような。もう怖い顔はしていないので怒ってはいないようではある。調理場へと向かいシェリルは紅茶を淹れてそれをそっとラルフに差し出すと目を細めた。
「お前は帰れるとしたら、帰りたいか?」
ぽつりと問われた。もし、帰れるとしたら国へ帰りたいのかという問いにシェリルは微妙な顔をする。
仮に帰れたとしても王子に婚約破棄された公爵令嬢という肩書は切り離せないだろう。他の令嬢たちに影で笑われるだけだ。別に笑われるのは構わないが嫁の貰い手というのは少ないだろうし、そもそも選ぶ権利もないに等しい。
フィランダー公爵のような男の元へと行かないといけなくなるのは想像ができた。それを踏まえた上で帰りたいかと問われれば、帰りたくはないという選択肢しかない。
「帰りたくはないですね」
だから、素直にそう伝えることにした。それを聞いたラルフはそうかと返事をして安堵の息をつく。どうして彼はそんなふうに安心するのだろうか、シェリルには分からなかった。
自分がいなくもと彼ならばやっていけると思う、代わりをやりたいという人も探せばすぐに見つかりそうなものだというのに。
「あの、どうしたのですか?」
「……いや、お前にはずっと此処に居てほしいと思っただけだ」
最初に出会った時は不安でいっぱいだった表情が今は和らいで、笑みを見せれるほどになっている。もし、戻ればまたその顔は不安で溢れるのだろうか。そう考えると此処に居て、落ち着いて暮らしてほしいとそう思った。ラルフはそう言って紅茶に口をつける、どうやら心配してくれているようだった。
「戻りたくないのなら、戻らなくていい。ずっと此処にいればいい。俺はお前を邪魔だと思ったことは一度もない」
「でも……」
「俺がいいと言っている。まぁ、男の世話など面倒かもしれないがな」
「そんなことはないですけども」
家政婦なのだからどんな相手であろうと任された家事をこなすべきだ。これは仕事なのだから我儘を言ってはいられない。何か酷い仕打ちをされた訳でもないので、シェリルはラルフの元で家政婦をするのは特に不満もなかった。
だから、これまで通りに働いてくれと言われればその通りにするし、今の自分にとっては有り難いことだから断ることもしない。
「あの、私でいいのですか?」
ほかにもっとできる人はいると思うのは確かなのでそう問うと、「構わない」と返された。
「お前がいい」
彼はふっと微笑んだ、それはシェリルを安心させるような笑みで。
「お前が嫌なら考えるが」
「嫌ではないですよ! 有り難いです!」
安堵している自分がいた、此処にいていいとそう言ってくれたことが嬉しかった。シェリルが「嫌だなんて思ったことはないです!」と前のめりでそう言えば、ラルフは「そうか」と優しく目を細める。
「それならいい。何度も聞いてすまない」
確認しておきたかっただけなんだ、無理矢理やらせるほど非道ではないからと。そう言うラルフは優しいなとシェリルは改めて実感した。彼はこんな自分のことを考えてくれているその優しさが温かかった。
けれど、その優しさに甘えてばかりではいけないとも思った。だから、いつでも出ていけるようにはしておこうと決めておく。口に出せば心配をかけてしまうだろうから言わない。
「もうやってこないとは思うが、次に何かされても出てはいくな」
「わかりました」
流石にあれだけ叱られれば問題も起こさないと思うが一応のためとラルフは言う。長も勝手なことをしないように注意すると言っていたので、大丈夫だろうとは思うが気をつけようとシェリルは頷いた。
「城下まで行って帰ってきたばかりで大変でしたよね……」
ラルフは城下まで行って帰ったばかりでこの騒動だ。疲れたどころではないではないだろうかとシェリルにそう問われて彼は「少しな」と呟くと紅茶を飲む。
「身体に問題はないから気にしなくていい」
「そうですか? あまり無理はしないでくださいね」
「わかった。あぁ、そうだ。クレプ、食料棚に置いてある」
ラルフはそう言って指さした、食べたかったのだろうと。そう言われてそんな会話をしたなと思い出した。確か、タルトは無理でもクレプは買ってこれると。
シェリルは顔をパッと明るくさせる。果実そのままで食べたことがなかったので楽しみにしていたのだ。勢いよく立ち上がって食料棚の方へと向かうそんな姿にラルフはおもわず笑ってしまった。