第10話
翌朝目覚めてからも、首筋や後頭部、そして顔面全体に、痛みが残っていた。
私が意識を失った後も、足は私を踏みつけ続けていたのだろうか。
さぞや顔面痣だらけになっている事だろう――
そう思いつつ覗いた洗面所の鏡の中の私の顔には、傷一つなかった。
いつも見慣れている通りの、いつものままの私の、美しくはないがきれいな顔だった。
私は茫然と、鏡に手を触れていた。
鏡は冷たく、当然ながらツルツルしていた。
それどころか、目ざめてすぐの時に感じていた痛みの“余韻”すらも、いつの間にか消えていった。
私は訳が分からないまま、だが心のどこかではほっと安心しつつ、身支度をして通常通り職場へと向かった。
私が顔面に暴行を受けたことに気づく者は、当然ながら誰一人としていなかった。
誰も私を注視せず、誰も私に心配そうに声をかけてこなかった。
私が、既に痛みは消えているが昨夜確かに足に踏んづけられた首筋の辺りを手でさすっていると、首が凝るのか、少し休めと同僚から声はかかったが、首が「痛むのか」、首を「どうかしたのか」、首に「何かされたのか」と訊く者は誰もいなかった。
痛みはない、傷もない、だが記憶は鮮明にある。
はずだった。
夕刻を過ぎ夜になり、帰途に着く頃、私の中でついにその記憶さえあやふやになり始めてきた。
それは、夢だったのか?
昨日受けた“浄霊”――というか“プレ浄霊”――による、あまりのダメージに、帰宅後知らないうちに意識を失い、足が、腰ではなく顔を蹴りにきた“夢”を、見てしまったのではないのか。
浄霊なんか、したから――しようとしたから――
俺が、いけなかったのかな。
私は虚ろな目で帰途に着いた。
自分の撒いた種。
そういう言葉が、脳内をよぎっていた。
部屋の前に立つ。
鍵を取り出す。
だが玄関ドアの鍵穴に、中々手が伸びようとしない。
目の前に迫ってきた足が、奴の足の裏の皺の一筋一筋が、鮮明に思い出された。
私は目をぎゅっと瞑り、強く首を振った。
「こんばんは」
女性の声が、右手から控えめに聞こえて来、ハッとして顔を向けた。
二件隣に住む主婦だった。あいさつ程度しか交わしたことのない相手だが、玄関の前で立ち尽くす私の姿に異質さを見出したのかも知れず、その声はいつもより遠慮がちに聞えた。
表情は、一瞬しか見なかったが(後は私の方がさっと下を向いてしまった)やはりどこか気づかうような、心配そうなものだったかも知れない。
私は蚊の鳴くような声で「今晩は」と返し、そそくさとドアを開け中に入った。
部屋は、いつもと同じ、薄闇の世界だった。
私は震える手で、照明のスイッチを入れた。
足は――いるのか?
足は、奴はそもそも人間でないものなので“ひと気”がまったく感じられない――冗談のつもりでは無論ないが、人が存在している時に感じられるような雰囲気、ムード、つまるところひと気は、奴からは微塵も感じられない。
そして奴はまた、動物でもない。
犬とか猫とか、あるいは他の生き物でもいい、いわゆる愛玩動物の類ではない。
なので、私が帰って来たからといって餌をねだりに来たり頭を撫でてもらいにきたりすることも一切ない。
私が足に「出迎え」を 受けることは、決してないのだ。
キッチンにも、リビングにも足はいなかった。
トイレにもだ。
私は部屋着に着替え、床にぺたりと座り込んだ。
買ってきたビールの缶を開けたのは、座ってから約五分後だった。
だがそれを口に運ぶ前に、私はあることを思いついてそれをまたテーブルに戻し、立ち上がった。
メールだ。
熱田氏から、その後連絡は届いているのか。
上着のポケットに入れたままにしておいた携帯を取り出してみた。
新着メールが三件ある。
私はこの時まで、それにまったく気づかなかった。
開いてみると、うち一件は確かに熱田氏からのものだった。
・・・・・・
先日はありがとうございました。
浄霊にかかる料金についてご連絡します。
祈祷料 五万八千円(税込)
式準備費 二万六千円(税込)
器具代 四万六千円(税込)
以上で、合計十三万円(税込)となります。
分割払をご要望の節は、このメールへのご返信にてお申し付け下さい。
併せまして、次回面談のご都合を教えていただければ幸いです。
・・・・・・
「じゅうさんまんて」
私は苦々しく目を細めた。
「さすがというか、あれだな、なんていうか、あれだね」
だが正直なところ、それが適正額なのか否か、不適正なのであれば妥当な金額というものがいかほどなのか、比較すべき相場として何を参照すればよいのか、皆目わからなかった。
私はメールの文面を見下ろしながら、手だけを背後のテーブルに伸ばし、ビールの缶を取り上げた。
冷たい缶が手に触れた――というよりも、明らかにさっきまで持っていた缶より、それは何倍も冷たかった。
ハッとして顔を振り向けた。
足が居た。
と思った直後、足は私の顔面に蹴りを食らわした。
私は衝撃と痛みに顔を歪め倒れた。
足の猛攻撃が始まった。
私は全身を丸めて、団子虫のような体裁で身を守った。
そうしながら、さっき手に触れた“冷たい”感触を思い出していた。
あれは、足だ。
私の手は、足を掴んだのだ。
いや、違う。掴んだのではない。
手は何も掴むことはできなかった。
ただ、この世ならぬ冷たい“もの”に、私の手は触れたのだ。
いや、それも違う。何にも、触れていない。
そう、いちばん近い表現はこうだ、この世ならぬ冷たい“領域”の中に、私の手は入り込んだ。
そういうことだ。
あれが、足の体温なのか。
蹴られながら、私はそう思った。
足は、私の頭から背中から尻から脚まで、ありとあらゆる部位に痛烈な蹴りを食らわし続けてきた。
それは執拗で、激しい怒りというものを感じさせた。
足は、怒っているのだ。