第11話
翌朝、洗面所の鏡を覗くと、やはり私の顔は無傷のままだった。
一体、どういうしくみなのだろう。
私の中に、ある意味“興味”と呼べるものさえ生まれた。
間違いなく痛いのに、間違いなく触感はあるのに、間違いなく蹴転がされているのに、どうしてその痕跡はまったく残っていないのだろう。
錯覚なのか。
やはり私自身の精神の部分に、何か重大な問題が生じているのだろうか。
もしそうだとすれば、私の行くべき所、頼るべき機関は、あんなぼったくりの浄霊屋ではない、ということになる。
そう、同じ十三万円を払うのであれば。
どうすればいいのか。
自分の身の振り方を考えあぐね、私は吐き気を催しつつも、出勤の途についた。
部屋の中にはいたくなかったし、他に行く所も思いつかなかったし、社会人としての理性がまだ自分の中に、もしかすると必要以上に、活きていたのだ。
そして仕事は、多忙さというものは、私を救ってくれた。
私は業務に集中し、その間足のことも、自分が異常かも知れないことも、浄霊屋の甲高い声や太い腕のことも、すべて忘れていられた。
だが悲しいことに、仕事というのは二十四時間、続けていられるものではない。
退社時刻がこなければいいのに、とはっきり願う日が来ようとは、想像もしたことがなかった、だがそれは来た。
会社を出なければならない。
自宅に、戻らなければならない。
私はしばらく街を彷徨った後、一人で居酒屋に入った。
お疲れさんコース、という名前のメニューを頼み、小鉢三点と共に運ばれてきた生ビールを呷る。
枝豆をつまみながら、カウンターの隅で一人ため息をつく。
どうすればいいんだ。
一杯目のビールを飲み干し、二杯目を注文し、それが届くまでの間両手で自分の頭を抱え肘を突いて待っていた。
カウンターの後ろに畳敷きの小上がり席が並んでおり、その一席に集まっていた女子会らしき集団の、楽しそうにはしゃぐ声が耳に届く。
私はスーツのポケットから、携帯を取り出した。
ビールが届いた。
それを飲みながら、アドレス帳を開く。
その名前は、さ行の中に登録してあった。
未だ、削除していない。
ビールをジョッキ三分の一空けるまで、私はディスプレイを見つめていた。
メールでも、ネットでも、ゲームでもない、アドレス帳の画面をだ。
そしてその間三度、その相手のメールアドレスからメール作成画面を立ち上げては消していた。
そう、私は、別れた彼女にメールを送ろうかどうしようかと迷っていたのだ。
仮に送るとして、何と送ればいい? 何と送る?
「元気?」
「今一人で飲んでます」
「最近調子どう?」
「何か面白い事件的なことあった?」
「俺最近ちょっとやばくて、是非話聞いて欲しいんだけど」
「実は足の幽霊に毎晩蹴られて勘弁して欲しいんだけど俺変かな?」
「で、ものは相談なんだけど、今晩泊めてくれない?」
何故だろう、私は不意に、泣きべそ顔になりそうになった。
急いでハンカチを鼻に当て、くしゃみが出そうになったことにした。
ビールを、ジョッキ三分の二まで呷る。
襟元を正し、枝豆をつまむ。
しっかりしろ。俺。
否だ。
あり得ない。
二年前に別れたきり一度も連絡を取っていない元カノの家に「泊めてくれ」なんて。
しかもその理由が「足の幽霊が怖いから」だなんて。
それこそ、俺の精神に異常ありの話だ。
私は考えた。
ビールを飲み、切り干し大根の煮物をつまみ、出し巻きを頬張りながら、どうすべきか考えた。
そして再び、携帯を手に取った。
今度は違う相手にメールを打つ。
すぐに返信があるかどうかは、わからない。
だが、何も手を打たずにいるよりはましだ。
メールを送った先は、熱田氏だった。
だが無論「今晩個人的に泊めてもらえませんか」などとは頼まない。絶対にない。
私が送った文面は以下だった。
・・・・・・
夜分の連絡失礼します。
実は先日の面談以来、私に取り憑いている足の霊の攻撃が激しくなり、毎晩辛い目に遭っています。
つきましては、自宅に戻らずにすむよう、どこかビジネスホテル等で宿泊の手配をお願いできませんでしょうか?
このまま自宅に戻ればまた暴力を受け、心身が危うくなると危惧されますので、宜しくお願い致します。
・・・・・・
私としては行間に『あんたとの面談のせいで被害を被っているんだ』という苦言を呈しているつもりだった。
だがどこまであの熱田氏に通じるのかは、疑問であった。
とにかく送信し、三杯目の焼酎水割りを飲んでいると、数分後に返信が来た。
・・・・・・
お世話になります。熱田です。
この度は霊障の被害に遭ったとのこと。
心痛お察しいたします。
さて、当施設内に宿泊設備はございます。
利用料については、一泊三万円となります。
以上、急ぎご連絡申し上げます。
・・・・・・
「さんま」呟きを途中で止めたため、結果それは青魚の名前となった。
居酒屋の店員が一瞬こちらを見たが、何も追求してはこなかった。
秋刀魚の季節ではないからだろう。
私は茫然と携帯メールの文面を見つめた。
この人たちは。
しばし、酒を飲むこともつまみを食べることも、忘れていた。
この人たちは、この仕事をやってて楽しいんだろうか。
ふとそんなことを思った。
専門職っちゃ専門職なんだろうけど。
十三万に、三万。
いわゆる、ウハウハって奴だな。
私は、その浄霊集団の宿泊施設を使う気にはまったくならなかった。
無料宿泊させろとゴネてみる、という方策も思いついたが、メールでそんなことを言っても埒は開かないだろうし、電話で熱田氏と丁々発止の直接交渉をする気にもなれなかった。
酔いがまわってきているのもあり、そんなことをするには心身共にだるかった。
となれば、またあの部屋に戻らざるを得ないわけだが、そうするとまた足の猛撃を食らうことは明らかだ。
私は別の視点から、熱田氏に交渉することにしてみた。
・・・・・・
宿泊施設についての情報ありがとうございます。
本日は利用を見合わせることにします。
ところで、本当に浄霊はできるんでしょうか?
・・・・・・
返信は一分後にきた。
・・・・・・
場合によっては、浄霊でなく除霊になります。
・・・・・・
除霊? 私は目を丸くし、焼酎を飲み、またメールで質問した。
・・・・・・
浄霊と除霊はどう違うのですか?
・・・・・・
・・・・・・
浄霊とは、憑いている霊を成仏させることですが、それが不可能な場合は除霊、つまり単に霊を取り祓う、ということになります。
この場合、再び霊が戻ってきてしまう可能性があります。
・・・・・・
・・・・・・
除霊になった場合、料金については安くなりますか?
・・・・・・
返信がない。
私は苦虫を噛み潰した。
こんなんで、本当に俺は救われるのか?
心から苦々しく、そう思った。
だが返信は数分後、焼酎の湯割りを頼んだ直後に届いた。
・・・・・・
除霊の場合料金は二割減となります。
ところで、足からの攻撃が激しくなっているとのこと。
さぞお困りと存じます。
お札をご利用になりますか?
・・・・・・
お札。
漫画やTV番組でしか見たことがなかった。
何か、墨で呪文のようなものが書かれた、短冊様の紙製の神具。
・・・・・・
使いま
・・・・・・
打ちかけて、手が止まる。
一体、幾らだ?
・・・・・・
お札は、料金はかかりますか?
・・・・・・
・・・・・・
お札代は、器具代金の中に含まれます。
・・・・・・
私はつい微笑の顔になった。
一瞬、この浄霊団体が“親切な人たち”に思えてしまったのだ。
・・・・・・
では、利用させていただきます。
本日、受け取る事ができますか?
・・・・・・
はい。
あなた方に浄霊、不可能な場合は除霊を、依頼します。
料金十三万円については、これを承諾します。
そう宣言することであるという自覚のまったく無きまま、私は熱田氏に、メールを送信した。