第9話
熱田氏は別れ際、また電話で連絡をすると言った。
私は咄嗟に、電話ではなくメールで連絡するようにと依頼した。
依頼しながら、たとえメールが届いたとしても恐らく返信しないだろうと思った。
ことによると読みさえもしないかも知れない。
もう、この人間に会いたくない、声も聞きたくない、と思った。
恐らく電車を乗り継いで帰ったのだろうが、私は気づくとマンションの自室のドアの前に立っていた。
昼を大分回っていたが、何も食べたくない、口にしたくなかった。
無理に食べたとしても、いろいろな意味でそれは私の体に吸収されそうにない気がした。
着替えもしないまま床に倒れ込み、うつ伏せのまま私は数時間気絶した。
目を開けると、夕焼けの光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
のろのろと体を起こす。
しかしそれから何をすればいいのか、まったく頭に浮かばない。
私は日が暮れるまで、床の上に呆然と座り、窓の向こうから聞こえてくる音を耳に受け止めていた。
「おかあさーん」小学生ぐらいの子供が大声で母親を呼ぶ。
「○○はー?」母親も大声で何か訊いている。
「□□ちゃんとこに行ったー」子供が大声で答える。
「△△だから帰っておいでー」母親は大声で指示を出す。
車のエンジン音が近づき、遠ざかり、また近づき、遠ざかる。
部屋の中はだんだん暗くなってゆき、カーテンの隙間からは外部の建物の照明が洩れ始めた。
喉が、渇いた。
そのことに気づいたお陰で、私はずい分久しぶりに体を動かした。
立ち上がったときに、少し眩暈がした。
キッチンへ向かおうとして、私はぎくりと硬直した。
薄闇に慣れた私の目に、足が映ったからだった。
足は、リビングとキッチンの境のところに、足一本で立っていた。
私の心臓は早鳴りを始めた。
汗が噴出し、呼吸が浅くなった。
足は無表情に、無言のままそこに立っていた。
何か、言うべきなのだろうか――
私の頭の中に、どうしてかは分からないが、そんな思いが生まれた。
今ここで、私は足に向かって何か言葉をかけるべきなのか――
まったくもって、何故そのようなことを思ったのか皆目分からなかった。
声をかけるって、家族じゃあるまいし。
そもそも私はこの足を浄霊しようとしていたのではないのか――
まさか。
まさか俺は、足に対して、何か後ろめたさのようなものを感じているとでもいうのか。
或いは申し訳なさ、というようなものを。
私は、自分の中に生まれた仮説を否定するため首を振った。まさか。まさかだ。
それに声をかけるといっても、何と言えばいいのだろう。
「ああ、お帰り」と?
いや、むしろ
「ああ、ただいま」か?
待て、もう一度確認するが、足は別に俺の“家族”ではないのだから、そのような言葉をかけるのは妙だ。
「ああ、いたの」辺りか?
「まだいたのか」ぐらい言ってもいいのか?
その時。
ぺた、と、足が一歩を踏み出した。
私は足を見た。
いや、ずっと見てはいたが、ぺた、と一歩踏み出した足にハッと注目したのだ。
改めて見た、とでもいうのか。
だがその“注目”は、生温かった。
なぜなら次の瞬間、足が足の甲で私の左頬に蹴りを食らわしたのを、避けきれなかったからだ。
それは“油断”だったのかも知れない。
今まで散々腰を蹴られ続けていた相手つまり足だが、にも関わらず私は、そいつに対して注意を怠ってしまったのだ。
まさか足が、私の顔面を蹴るとは思っていなかったのだ。
左頬を蹴り飛ばされて――足に“ビンタを食らった”というのは、正しい日本語ではないものだろうか――私は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できずにいた。
いて。
え?
何?
そんな感じだった。
足は続けて、今度は私の鼻の下に蹴りを見舞った。
私はぎゅっと目を瞑り、苦痛に眉をしかめた。
「何す」
言いかけて開いた目に、足の、足の裏が映った。
それはその直後、私の視界を真っ暗にふさいだ。
ふさがれたのは私が再び目を閉じたからでもあり、顔面全体に蹴りを食らった私はバランスを崩して尻餅を突いた。
声を挙げるいとまもなかった。
足は、私の両頬に足で往復ビンタを食らわし、私はそれを避けるため床に顔を伏せ這いつくばった。
足は、今度は私の後頭部を上から思い切り踏んづけてきた。
私の心の中には、無論恐怖や苦痛もあったが、同時に不思議なものを見る想いも生まれていた。
重量が、ある。
そう、今までは腰にしろ背中にしろ、そして今の時点での顔面にしろ、横からの攻撃に限られていた。
そのため、この足に“重さ”があるなど、意識したことがなかったのだ。
しかるに今、私の後頭部、襟足、そして背中と、上から踏みつけてくる足、それには、びっくりするほどの“重み”が、感じられる。
比喩ではなく、物理的な重さだ。
足は足しかないくせに、一人前の男の大人並みの重量を備えている。
ずっしりと、重い。
なんでこいつ、こんなに重いんだ?
何度も踏みつけられる内、次第に私の意識は薄ぼんやりとぼやけてきていた。
そんな中で私は、今や恐怖よりも、不可思議さに包まれていたのだ。
素材か?
こいつ何で出来てるんだ?
金属か?
重金属?
そんなことを、とりとめもなく思っていた。
そうしてやがて、完全に私は気絶した。