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1 婚約破棄の、その後

 お父様、お母様、お兄様、お元気ですか。
 「きみは強いからひとりでも平気だろう」とエーリク様から公衆の面前で婚約破棄され、早数ヶ月。
 イリメルはただ今、森の中で、大きなモンスターと対峙しております。 
 王都を出立してから、幾度となくモンスターを退けてまいりましたが、こんなに大きなモンスターと向き合ったのは初めてです。
 これは……ピンチというやつかもしれません。

***

 私、イリメル・シュティールは、侯爵家の娘に生まれついた。
 貴族の家に生まれたのならば、いずれ家のために嫁ぐものと幼い頃よりぼんやりながらも刷り込まれていたけれど、父の張り切りにより普通よりも早くに結婚について意識させられるようになった。
 というのも、私は八歳で公爵家の跡取りと婚約することになったのだ。
 私が婚約することになったのは、アルタウス公爵家の長子、エーリク様だ。
 アルタウス公爵家といえば、血筋をたどれば王家に通じる家柄である。つまり、とてもやんごとない身分の方ということ。
 父は、娘可愛さに公爵家に売り込みをかけ、見事婚約を取りつけてきた。
 母も、兄も、使用人たちもそれには大喜びで、その喜びようを見て私は、エーリク様との婚約はとても良いことなのだと判断した。
 結婚は家のためにするもので、より良い家に嫁ぐことが家族のためで、そして私はとても素晴らしい婚約者を得たのだと。
 実際、エーリク様は素敵な方だった。とりあえず、女の子ならみんな素敵だと感じるものはほとんどすべて持っている方だったとはいえるだろう。
 家柄は、言わずもがな。公爵家の跡取りというだけで、他が難ありでも大抵のことは許される。
 物腰柔らかで紳士的というのも、ポイントが高い。婚約をした当時、私より二歳年上のエーリク様は十歳で、その年頃の男の子なんて大抵うるさくて意地悪なものだ。
 だから、当時から優しく穏やかに接してくださるエーリク様のことは、それだけで好きになってしまう要素はあった。
 おまけにエーリク様は、容姿が素晴らしかったのだ。
 出会ったときのエーリク様は、まるで天使みたいだった。光を放つがごとく美しい金の髪と蜂蜜色の目を持つ、一流の職人が作った人形のような愛らしい顔。そしてすらりと長い手足。その頃から、まさに将来を約束された恵まれた容姿をしていたのだ。
 家柄も、振る舞いも顔もいい。
 だから私は周囲が喜んだことを抜きに考えても、この婚約は素晴らしいものだと感じていた。
 でも当然、人には誰しも欠点がある。
 エーリク様は女性に対して優しい代わりに、とても節操がない方だったのだ。
 幼いうちはまだよかったのだけれど、思春期を迎えてからは自由を極めていた。
 社交場に顔を出すようになったのを期に、女性たちと流した浮名は数知れず、そのたび婚約者として私は対応に追われた。
 伴侶が魅力的なのだから仕方がない、人気があるのは良いことだと、自分に言い聞かせながら。
 何度浮名を流そうとも、いつだって最終的には私のところに帰ってきたから。
 しかし、それも義務的なものだったと思い知らされたのは、ある夜会のときだ。

「イリメル。きみは強いから、ひとりでも平気だよね?」

 人々の注目を集める中、エーリク様は困ったように眉根を寄せて私に尋ねた。美しい顔をそんなふうに曇らせると、私が弱いと知っているのだ。
 その傍らには、子犬のように震える少女を侍らせていた。少女――レーナは、エーリク様の腕にしがみつきながら目に涙を溜めて「ふぇぇ……ごめんなしゃい」と言っていた。
 そんな彼女の髪を優しく撫で、エーリク様は言葉を続けた。

「約十年、婚約者として僕を支えてくれたきみにこんなことを言うのは心苦しいのだけれど……僕は真実の愛を見つけてしまったんだ。だから、君との婚約は破棄する。ごめんね」

 高らかに宣言したあと、エーリク様は震えるレーナをそっと抱きしめた。彼の腕の中で、レーナは大げさなほどしゃくりあげる。
 そのときに、ふるんと震えた彼女の豊かな胸元を見て、「ああ……」と私は理解した。

「……ごめんなさぁい……こんなことっ、許されないってわかってるんです……いけないことだわ」

 ふるんふるんと、レーナの胸が揺れる。

「ああ、レーナ。泣かないでくれ。たとえ許されなくても、僕はきみを愛することをやめられないよ」
「エーリクさまぁ……!」

 ふるふるふるんっと、レーナの乳は大きく揺れる。

「というわけだ。納得してくれ。僕はレーナへの愛に嘘をつきたくないんだ」
「ふわぁぁんっ、イリメルさま、ごめんなしゃい……」
「レーナ、きみは本当に心が清い女性だね」
「だって、だってぇ、レーナが悪いんだもんっ」

 そのときエーリク様とレーナは人目もはばからず熱い抱擁を交わしていたけれど、正直彼らがどんな顔をしていたのか、今となっては思い出せない。
 ふるんふるんふるふるふるんっと揺れまくる、レーナのたわわに実ったふたつの果実にしか目がいっていなかったのだから。

 というわけで、私はエーリク様に婚約破棄された。
 レーナは僕が守ってやらなくてはいけないから、と。
 きみは強いからひとりでも平気だろう、と。
 そんなことを言われて泣くことも怒ることもできなくて、私は精いっぱいの笑顔で頷いただけだった。
 離れたところでお父様が卒倒しているのが見えたけれど、それならば私はちゃんとしていなくてはと、頭にのぼりかけた血がスッと覚めたのだ。
 次期公爵夫人として、相応しくあれと厳しく躾けられたせいもある。
 エーリク様の婚約者になってからずっと、私は厳しい淑女教育を受けてきた。
 泣きたい日も投げ出したい日もあったけれど、彼への想いと積み重ねた矜持が、私に怠けることを許さなかった。
 だから、不当に傷つけられても、泣きわめくことも怒り狂うこともできなかったのだ。
 ずっと一緒にいた私より庶民出の少女がいいと言われたのだから、本当は泣いて怒ってやりたかった。私だって胸をふるんふるん揺らしながら、「ふぇぇ」と泣いてやりたかった。
 もっとも、私にはふるふるさせる胸がなくて、それがおそらく大きな敗因ではあるのだろうけれど。

 婚約破棄されて数日間は、「きみは強いからひとりでも平気だろう」というエーリク様の言葉を噛み締めていた。
 強いって、なんだろう。平気って、どういうことだろう。
 そして数日考えた結果、私は自分の強さを確かめるために屋敷を飛び出したのだった。
 ヤケになっていたとも言えるだろう。だが、そのとき私は本気だったのだ。
 強いことを理由に婚約破棄されたのなら、その強さ、確かめねばなるまいと。
 幸い、私には魔法がある。
 次期公爵夫人として夫となるエーリク様を支えるために、細腕のか弱い令嬢のままではいられないと、子供のときから磨いてきたのだ。
 本当は剣の腕を磨きたかったけれど、そんなの女の子のすることではないと両親に泣かれたため、妥協点としての魔法ではあった。
 しかし運のいいことに、私には才能があった。治癒職としての魔法を極めてほしいと教会に預けられたにもかかわらず、私はゴリゴリの戦闘職系の魔法使いだった。
 だから、この国を脅かすすべてのモンスターを排除してやるつもりでいた。
 まず教会へ行って現状を把握して、近隣の村の作物を荒らす小型モンスターを狩っていった。それから、交通を妨げるモンスターがいると聞いてそれを狩った。
 そのあとは集団で荷馬車を襲うモンスターの群れを、川での養殖を邪魔する大食い怪魚モンスターを、大量発生し木々を枯らす虫モンスターを、教会に依頼されるがまま倒していった。
 ここのところモンスターが数を増やしていて、専門職の人たちに頼むのも追いつかなかったのだという。そこへ私が現れたものだから、教会の人々はつい頼んでしまうのだと言っていた。
 頼られるのは嫌ではないから、それはいいのだ。むしろ、存在意義を見つけられて救われた。
 〝強い〟ことを確認できた上、それに価値を見い出せた気がして安心した。
 このまま、強くて頼られる魔法使いとして生きていくのもいいのではないかと、そんなことを呑気に考えていたのだ。
 このモンスターと出会うまでは――。

「……わぁ、どうしたらいいの。こんな大きなモンスター、攻撃を一発でも食らったらひとたまりもないわ」

 何とか張った結界の中、私はつい弱音を吐いてしまった。
 目の前にいるのは、小山のように大きなモンスターだ。形からすると、トカゲに似ている。
 でも、とても可愛いとは言えない姿をしている。
 なにせ大きい。体表は堅い外皮に覆われ、その太い尻尾や足で薙払われただけで、こちらは深手を負わされるだろう。
 小型のモンスター相手なら、攻撃の射程に入らない距離から魔法を撃って倒すことができる。でも、こんなに大きなもの相手では、いくら離れたところでもこちらの射程に入るなら、向こうだって射程範囲ということになる。
 まだこちらの出方を伺っているし、バリアもあるから大丈夫――そんなことを思った瞬間、モンスターの前足がバリアのすぐ手前の地面を薙ぎ払った。

「……」

 抉られて飛んでいく地面を見て、息を呑むことしかできなかった。
 相手は、やる気だ。きっと次はバリアごと、私が立つ地面を剥ぎ取るつもりだろう。

(エーリク様……私、やっぱり全然強くないですよ)

 恐怖に足が震えて、涙が出そうになった。
 こんなときにエーリク様の言葉を思い出してしまうなんて、やっぱり私はヤケになっていたのだ。
 心のどこかで、こんな無茶をして怪我でもすれば、エーリク様が私も〝守ってやらなくてはいけない存在〟だと思い出してくれるかと考えていたのだ。
 彼が私を守って助けてくれることなんてないって、ちゃんとわかっていたはずなのに。
 ここで私が死んでしまっても、彼は少し眉根を寄せただけで、すぐに忘れてしまうだろう。
 
「――危ない!」

 あきらめた瞬間、モンスターの前足が迫ってきた。
 だがそれを、銀色の一閃が遮った。

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