38、紫紺のドレス
舞踏会当日。
アリツィアは盛大に駄々をこねていた。
「行きたくない……行きたくないよう……」
「お察しいたします」
ドレスを着せてもらいながらぼやくアリツィアを、ドロータはふんわりと受け止めた。
「わかってくれる?」
「ですが動かないでくださいませ」
ぴしゃりと言われてさらにへこむ。
長年、社交界嫌いのアリツィアに仕えているだけのことはあり、ドロータは慣れていた。動じずに、アリツィアの背中の紐をぐいぐい締める。ドロータにとっては、アリツィアの憂鬱より、ドレスの色が今日は紫紺で、金糸の刺繍がちゃんと光を反射するのかの方が重要なようだ。
「やっぱりこの色でよかったですわ。とてもお似合いです。金糸が月の光を織り込んだようで、アリツィア様自身を夜空の月のように美しく引き立てててくださっています」
「……そ、そこまで?! そんなことはないんじゃない?」
「いいえ、そうです」
髪飾りは今回は付けず、いつもより高めの位置に髪を結い上げ、金のイヤリングとネックレスを映えさせた。テキパキと動くドロータに、アリツィアはもはや逆らえない。せいぜい、鏡の中の自分に不安を打ち明けるくらいだ。
「行きたくない……キラキラした場所怖いよう……」
「ふう、素晴らしい出来ですわ」
仕上がりに満足したドロータは、鏡ごしにアリツィアに微笑みかける。
「きっと会場のどなたよりも、美しいですわ」
「……ドロータにはかなわないわ」
何気ない話をしながらも、アリツィアもドロータも、いつもなら必ず一緒に支度をしているはずのイヴォナがいないことには触れなかった。しばらく前からそうなっていた。
イヴォナの不在に慣れたからではない。
逆だ。
イヴォナがここにいないことが当たり前じゃないから、わざわざ言わないのだ。まだまだずっと、痛みは続いているから。
アリツィアが痛みを抱えていることを、ドロータは知っている。ドロータの痛みもアリツィアは知っている。
だからお互い、何も言わない。
結果、出てくるのは、舞踏会へのぼやきくらいになる。
「アリツィア様、結局は行かれるのですから、嘆くだけ時間の無駄ではありませんか?」
道具を片付けながらドロータはそう言う。アリツィアはクッションを抱きながら頷いた。
「ドロータが冷たい……しかもド正論だわ……わかっているのよ」
「帳簿に向かっているときとは別人ですね」
「だって嫌なんだもん」
口を尖らしたアリツィアに、ドロータは微笑みを浮かべた。
「それでも大人になりましたね」
「え?」
「本当に嫌なら、アリツィア様は寝室から出てきませんから。あの頃は大変でした」
アリツィアの社交界嫌いの歴史を思い出して、ドロータは懐かしそうに笑った。若気の至りを指摘されたら、もう降参だ。アリツィアは渋々立ち上がった。
「わかったわよ、行くわよ」
ドロータは拗ねた主人を見送るために扉を開けた。アリツィアは階下に向かって歩き始めた。
「相手がジェリンスキ公爵家というところは気に入りませんが、お出かけになるのはいいと思います。もう、ずっと籠りっぱなしですし、眠れてないでしょう? たくさんダンスを踊って、今日くらいぐっすり眠ってくださいませ」
「……うちの侍女はわたくしのことを本当によく見てくれているわ」
「それに、ミロスワフ様のエスコートですから、嫌なことばかりじゃないでしょう?」
「だから鋭すぎ」
アリツィアは赤面した顔を見られないように歩調を早めた。
‡
ミロスワフが用意してくれた馬車に乗ると、予想外な人物が先に座っていた。
「アリツィアちゃーん」
「イザ様!」
ミロスワフの母、イザがいた。聞けばサンミエスク公爵は後から来るそうなので、便乗して一緒に乗ってきたそうだ。
「アリツィアちゃんに会いたかったの。大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「は、はい」
イザは飾らない口調でストレートに心配する。
「大変なときに舞踏会とか、めんどくさいわよね。ジェリンスキ公爵も察してくれたらいいのにね」
「いえ……まあそうですね」
つられて本音を言うアリツィアが、しまったと思う間もなく、イザは頷いた。
「適当に済ませて早く帰りましょうね。帰りはうちに寄っていかない? いいお菓子があるの」
気持ちはありがたいが今のアリツィアにそこまでの余裕はない。なんと言って断ろうかと思っていると、おもむろにミロスワフがごほん、と咳をした。
「母上、離れて。近すぎる」
「いいじゃないの。久しぶりなんだから」
ミロスワフはイザを無視してアリツィアに話しかけた。
「アリツィア、今日のドレスもとても似合っているよ」
「え! あの、その、ありがとうございます……」
いきなり褒められるとは思っていなかったので、アリツィアはしどろもどろになる。
だが、うまく言葉にできなかったものの、ミロスワフが眩しいように見つめてくれたので、ドロータが頑張ってくれたことや、この色に決定するまでの長い道のりが報われた気持ちになった。
「こんなに美しいアリツィアをエスコート出来るなんて光栄だよ」
「ありありありがとうございます」
「あら、可愛い、アリツィアちゃん、照れている」
あっという間に馬車はジェリンスキ家に到着した。
「何か今日は重大発表とやらをするみたいよ、ジェリンスキ公爵は」
イザの言葉に、アリツィアは胸騒ぎがした。