33、同じ井戸
イヴォナはレナーテが消えた空間をいつまでも見つめていた。どう見ても、ただの空間だ。なのに人が消えた。
「先程から、言葉も出ないくらい驚いています……そもそもなんで消えるのでしょう」
「あ、それダメ」
「ひゃっ」
カミルはイヴォナの唇を人差し指で抑えた。予期せぬカミルの行動に、イヴォナは目を見開く。
「そもそもとか考えないで。もううんざりなんだ」
手を下ろした魔力使いは、いつもの皮肉な笑い顔に戻った。
「それに言葉が出ないわりに喋りまくっているよ、妹」
「妹じゃなく、イヴォナですってば」
「あー、はいはい。ほら」
カミルが差し出した手を、イヴォナはためらいなく取って立ち上がる。それから、ドレスのひだを綺麗に整えた。これで準備はできた。
「それでは案内してください」
「え?」
「なぜ驚きますの? このままここにわたくしを置いておきますの? てっきりどこかに連れていかれるのかと思ってましたわ」
「いや、行くけど……あんたも怖がらないね」
「わからないことを怖がっても仕方ないって、昔、母がよく申してました」
イヴォナの言葉に、カミルは何かを思い出すかのように目を細めた。
「なんですの?」
「なんでもない」
「というか、ここ、どなたのお家なんでしょう」
「それは教えられないなあ……じゃあ、おいで」
「どこ……きゃ!」
カミルに腕を引かれたイヴォナは、一瞬、つむじ風に巻き込まれたような騒がしい感覚を覚えた。
気づけばそこは森の中で、アリツィアが滑った井戸を、イヴォナも滑ることになった。
「きゃーーーーーー」
「同じだな」
誰と、とはイヴォナは聞かなかった。そんな余裕はなかった。
井戸の底の出口と、月明かりで歩くところも同じだったが、イヴォナは知る由もない。
歩きながら、イヴォナはふと口にした。
「もしかして、カミル様はわたくしたちを助けてくれたのでしょうか」
月明かりの下で魔力使いは、呆れた顔をした。少し風が出て、木々の葉がわさわさと音を立てる。夜のせいか、土の匂いが濃い。
「どこまでお人好しなんだよ、あんたたちは。僕はただ僕のふりをして女の子をさらう奴が許せなかっただけだって」
「それにしては親切すぎる気がします。カミル様のおかげでレナーテは今頃医者に診てもらえているんじゃないでしょうか。むしろ、わたくしが今ここにいること、カミル様の荷物になってません?」
「訂正する。馬鹿がつくほどお人好しだった」
だって、とイヴォナは小さく笑った。
「わたくし、カミル様がそんなに悪い人だとは思っていません。お姉様と仲良しだし」
「ーー仲良し?」
カミルの足が止まった。上等の革の靴が鈍く光る。イヴォナも並んで止まり、カミルを見上げた。月はそんな二人の斜め上にある。
「わたくしにだけこっそり教えてくれました。カミル様と仲良くなったって。あのひとは社交界に出てくる怖い人たちより怖くなかったって」
「でも僕はアリツィアを傷つけたよ?」
「そうですわね。でも、魔力なしを揶揄されるのは、わたくしたち慣れてますから。お姉様は後からおっしゃってました。油断してしまった自分も悪かったってーーカミル様がとても寂しそうだったからってこちらも無防備になってしまった、と」
「……寂しそうとか、違うから」
「そうですか? でもお姉様はカミル様と仲良くなれそうだとおっしゃってましたわ。時間が足りなかったと」
カミルの声は葉が揺れる音にさえ消えそうなくらい小さかった。
「違うよ。時間じゃない。僕がアリツィアを傷つけただけ」
カミルは無言で歩き出した。
その後ろ姿がやっぱり寂しそうに見えると、伝えようかどうしようかイヴォナが迷っていたら、いつの間にか小さな家の前に着いていた。それも前回アリツィアが来たときと同じだった。
違ったのは、家の前で、イヴォナにとって大切な人が待っていたことだ。
影だけでわかった。
イヴォナは駆け出そうとした。
「アギンリー様!」
「おっと」
しかし、カミルに肩を押さえられて、それ以上進めなかった。
「離してくださいませ。迎えが参りましたわ」
「あいにく、僕は招待していないんで」
アギンリーは剣を掲げた。
「カミル・シュレイフタ! イヴォナを返せ!」
「それですんなり返すと思う? ていうか、そちらの騎士様はイヴォナとどういう関係?」
「お前には関係ない」
「ま、ここまで迎えに来るんだから、そういう関係なんだよね。結婚するの?」
「カミル様、何を言いますの!」
ついついイヴォナが口を挟んだ。しかし男二人はそれを無視する。
アギンリーはカミルを睨み付けた。
「それを聞いてどうする」
「大事なことだよ。覚悟はあんの?」
「覚悟?」
「魔力なしと結婚する覚悟」
やめて、とイヴォナは思った。しかしアギンリーは実直に答えた。
「覚悟ならある! あるに決まってる」
カミルは嬉しそうに笑った。
「ふうん……残念」
「カミル様、やめてください!」
カミルは指をぱちんと鳴らした。
「その程度ならダメだな」
ーーどぉん!
アギンリーの近くでなにかが爆発した。
「アギンリー様!」
「大丈夫、強制帰宅させたげる」
「やだ! 大丈夫ですか! アギンリー様!」
駆け寄りたいのになにかが邪魔して駆け寄れない。イヴォナはもどかしい気持ちで空気の壁を叩き続けた。
イヴォナの目の前でアギンリーも消えていった。
頭から血を流した瀕死のアギンリーが自分の屋敷の庭で倒れているのを発見したのは、庭師だった。