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30、鉱山

 アリツィアがスモラレク男爵家に到着したとき、すでに日は暮れていた。不躾を詫びながらも、半ば強引に男爵夫人に面会を頼む。
 サロンに案内され、待っている間、屋敷が不自然なほど静まり返っていることに気がついた。病人でもいるのだろうか。

「お待たせいたしました」

 そう言って現れた男爵夫人マリシャの顔色が悪かったので、もしかして病に伏していたのかもしれない。申し訳なさと焦る気持ちを何とか抑えて、アリツィアは立ち上がった。

「こんな時間に申し訳ございません、マリシャ様。至急、お聞きしたいことがございまして。レナーテのことですわ」
「レナーテ?」
「以前、スモラレク男爵様が、わたくしの父に是非にと推薦した侍女です。妹付きの侍女として仕えてくれておりました」

 スモラレク男爵とその妻マリシャは、二十ほど年齢が離れた夫婦なのだが、社交界経験が少ないアリツィアでもわかるくらい、仲睦まじかった。夜会でも常に一緒に行動しており、男爵は年若い妻を遠目からでもわかるほど溺愛していた。そんなスモラレク男爵は、最近、商売に乗り気で、スワヴォミルに商売のコツを教えてもらいたいと向こうから親交を深めてきたのだ。レナーテの件もそんな流れから頼まれたのだった。
 なのに、マリシャは、平然とした表情で言い切った。

「……まったく覚えがありませんわ」

 アリツィアは苛立ちを覚えた。

「マリシャ様。仔細は話せませんが、わたくし、今、とても時間が惜しいのです。スモラレク男爵家にとっても、それ相応に事情があることだとは察せられますが、どうぞわかっていることを手短にお話しくださいませ。先ほど、マリシャ様のご親戚の家に、レナーテについて使いをやりましたら、そんな娘はいないと言われましたの。教えてくださいませ。レナーテはどなたなのです?」

 マリシャは黙り込んで椅子に座った。アリツィアは立ったまま、言葉を重ねる。

「言い換えますと、レナーテをうちに寄越すように思い付いたのは、マリシャ様ですの? スモラレク男爵様? どういった意図でしょうか?」

 仮に、商会の情報を知りたいのなら、侍女ではなく使用人を送り込ませるはずだ。
 しかし、マリシャはアリツィアを見て薄く笑った。

「相変わらず、正直ですのね、クリヴァフ伯爵家の皆様は」
「正直? どういう意味ですの?」
「素直と言いましょうか、正直に話せば、正直に答えてもらえると思ってらっしゃる」

 言葉だけ捉えると褒めているようだが、その瞳は冷たかった。いつも社交界で明るく笑っているマリシャと同一人物とは思えない。よく見れば、髪もところどころほつれている。

「マリシャ様……先ほどから顔色がよろしくありませんわ。お疲れですの?」

 顔色が悪いこともあり、アリツィアは思わずそう聞いた。すると、マリシャは、かつてないほど憎々しげに、アリツィアを睨んだ。

「はっ、時間が惜しいと言いながら、わたくしのことを気遣う余裕がおありになる。さすが、商才もあって資産家でもあるクリヴァフ伯爵家のご令嬢ですわね。見習いたいですわ」

 あからさまな皮肉に、アリツィアも眉をひそめた。

「わたくしはただ、思ったことを申し上げたまでですわ。気遣ったのが失礼でしたなら、このまま話を進めさせていただきます。レナーテを寄越した意図はなんですの? あの子は誰なんですか」
「……うるっさいわねっ!」

 ガシャン!

 マリシャが叫びながら、机の上の花瓶を勢いに任せて叩き落とした。アリツィアは思わず後ずさった。
 ほつれた髪で割れた花瓶を見下ろすマリシャは、見るからに常軌を逸していた。アリツィアがなんと声をかけようかと思い、ふと気付いた。あれほどの音を立てながら、使用人が駆けつけて来ないのだ。見ると、アリツィアをサロンに案内した老執事が、緩慢な動作で部屋を出て行くところだ。もしかして、彼が花瓶を片付けるのだろうか。なぜ? 誰もいないから?
 ふふ、と笑い声がした。マリシャが老執事が出て行った方を見て笑っていた。

「そう、御察しの通り、うちにはもう何もないんですの」
「何も、とは……」
「全部手放さなくてはなりませんの」
「どうなさったのですか?」
「夫が……夢を見まして」
「夢?」

 アリツィアは嫌な予感がした。スモラレク男爵は人柄は悪くないのだが、思慮が浅いとスワヴォミルがこぼしていたことがある。マリシャはかすれた声で続けた。

「もともと夢見がちな人だったんですけど、知り合いから銀の鉱山があると誘われて、出資しないかと誘われまして」

 アリツィアは聞かなくても先がわかる気がした。

「あの人、わたくしを贅沢させるために、お金はどれほどあっても困らないからとわたくしに黙って出資しました」

 マリシャは、どこか遠いところを見るような表情で言った。

「……よくある話かしら? 鉱山なんか初めからありませんでしたわ、掘っても何にも出やしない。アリツィア様。おかしいでしょう? 簡単に騙されるわたくしたちのこと」
「それは……お気の毒な」
「ええ、でもね、途方に暮れていましたら、親切な方が融資してくださることになりまして」
「それは良かったですわ!」
「もちろん、いくつか条件があるのですけど、そのうちのひとつが、侍女を一人、知り合いの屋敷に推薦することでしたの。もちろん内緒で」

 アリツィアは目を見開いた。それではそれがレナーテなのか。

「どなたですの? その親切な方は」
「言えませんの」
「お願いします、マリシャ様」

 すると突然、マリシャがまた興奮したように叫び出した。

「何よ! 侍女くらい雇えるでしょ!? 何がいけないんですの!」
「……マリシャ様、落ち着いてくださいませ」
「ほら、またそれ!」

 マリシャはアリツィアの肩を掴んだ。アリツィアは身をこわばらせた。マリシャは今まで見たことのない形相で叫んだ。

「正直者のクリヴァフ伯爵家! 正直に生きていけるのは、お金があるからでしょう! わざわざ商人の娘と結婚して、それを隠しもせずいられるのは、資産家だから。娘たちに魔力がないのを隠しもしないのも、それくらいの瑕疵、大したことないと言えるのも、お金持ちだからですわ! 結構なことですわね。自分達だけが綺麗なままで、自分達だけが清冽に生きていけると思ってらっしゃる」
「痛っ……!」
「奥様、おやめくださいませっ!」

 ようやく戻ってきた老執事と同じく年老いた女中頭に助けられ、アリツィアはマリシャから離れられた。
 マリシャは涙を流す。

「……使用人ももうこの二人だけで」
「お金を貸していただいたんじゃないんですの?」
「それでも足りませんの。ここを売りたいんですけど、すぐに買い手がつくわけでなし」
 
 アリツィアはためらいながらも口を開いた。

「……マリシャ様、お屋敷の売却を考えられるなら、明日にでもクリヴァフ商会に相談に行ってみてください。わたくしからも力になるよう話をつけておきます」

 マリシャは目を丸くした。

「……本当に?」
「どれほど力になれるかわかりませんが」
「どうして?」
「お困りでしょう? もちろん、うちだって慈善事業ではございませんから、できることとできないことはあります。それでも他よりも良い条件で考えさせていただきますわ」
「……わからないわ。あんな風に言ったのに、わたくし」
「ええ、そしてわたくしは何も得るものがなく帰らなくてはいけませんけど。失礼しますわ。時間が惜しいのは本当ですの」

 アリツィアはすぐにでも戻ろうとした。
 その背中にマリシャが声をかける。

「レナーテが誰か、わたくし、本当に存じ上げませんの」

 アリツィアは振り返って頷いた。

「嘘だと思ってませんわ」

 マリシャが脱力したように言う。

「ただ……想像はつきますわ。わたくしたちのように何かで、騙された貴族の家の娘でしょう」
「騙した方は捕まえられませんの?」
「名前も、何もかも、偽物でした」

 よほど用意周到に騙したのか。アリツィアは考えた。

「お金を貸してくれた親切な方というのはどなたですの」

 マリシャは黙り込む。口に出してはいけないことになっているのだろう。時間をかけたら聞き出せるかもしれないが、今はそんなことをしている暇はない。

「じゃあ、せめてその鉱山の名前だけ教えてくださいませんか?」

 マリシャはホッとしたように頷いた。それなら答えられるのだろう。

「トルン、トルンの鉱山です」

 わかりました、と一礼して、アリツィアはスモラレク男爵家を辞した。
 大急ぎで、ユジェフとロベルトに鉱山詐欺についての情報を知らせなくては。
 何者かはわからないが、鉱山詐欺なら、どこかで大きなお金が動いているはずだ。

 ーー絶対に尻尾をつかんでやるわ。

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