29、負けない
「私とアギンリーは、カミル・シュレイフタの家に行こうと思っている」
「……お願い致します」
ミロスワフの言葉はありがたかった。アリツィアから頼もうと思っていたことだった。カミルがいるかどうかわからないが、他に手がかりがない。
「わたくしはここでいろんなところからの返事を待ちますわね……もどかしいですけど、レナーテの家族も、もうすぐ来るでしょうし」
レナーテの家族に事情を説明することを思うと、今から胸が潰れそうだ。
ミロスワフはアリツィアの頬にそっと触れて言った。
「合間を見てちゃんと休息を取ってくれ。ひどい顔色だ」
「……はい」
アリツィアはアギンリーにも礼をした。
「妹のこと、どうぞよろしくお願いします」
「任せてください……必ず取り戻してみせます」
ミロスワフとアギンリーはそう言ってすぐ出発した。
「ウーカフ、お父様についていてくれる? ドロータも、呼ぶまで下がっていいわ」
一人になったアリツィアは。ようやくソファに腰を下ろして、目を閉じた。長い長い息を吐いて、胸の前で手を合わせる。
「……お願い……無事でいて」
それ以外、今は何も望まない。
だからお願い。
どうか。
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ここはどこだろう、と硬い石の床に手をついて、イヴォナは思った。
むくりと起き上がると、狭い、粗末な部屋に敷物もなく寝かされていることがわかる。
「ええと、馬車に乗っていて、それで……」
「うう……ん」
状況を整理しようとしたら、すぐ隣に声がした。
「レナーテ!」
「……イヴォナ様……お怪我はございませんか」
そう尋ねるレナーテの方が辛そうだ。
「あなたの方が怪我しているんじゃない? 見せて!」
「なんでもございません……」
レナーテがかばうように抱える左腕を見ると、ひどく腫れていた。対するイヴォナはどうやら無傷のようだ。
「……わたくしを庇ってくれたのね? レナーテ、ごめんなさい」
いいえ、と微笑もうとするレナーテだが、痛いのか、すぐに息が荒くなる。
「早くなんとかしないと……」
イヴォナは辺りを見回した。部屋に家具はなく、ドアは閉ざされている。窓は高いところにひとつだけ。そこから見える空は赤かった。
夕方? それとも朝?
そこに下卑た声と足音が近付いてきた。
「そろそろ起きたんじゃないか」
「おいおい、あんまり怖がらすなよ。貴族のお姉ちゃんだぜ」
イヴォナはとっさにレナーテを背に、扉を睨みつけた。ここには何も身を守るものはない。それでも。
ーー戦う前から負けるわけにはいけない。
ぎいぃ、と音を立てて、扉が開いた。
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「アリツィア様、レナーテの家に使いに行ったものが戻ってきたのですが」
ウーカフがそう伝えたので、アリツィアは立ち上がった。
「ありがとう。客間に通してちょうだい」
「それが、使いの者は一人で帰ってきたのです」
「どういうこと?」
「教えられたスモラレク男爵夫人の親戚の家には、レナーテという娘はいないそうです」
ウーカフが淡々と伝える。そのおかげでアリツィアも冷静を装うことができた。
「ーー至急、スモラレク男爵夫人にわたくしがお邪魔する旨を伝えてくれる? それから、ドロータに命じて出かける用意を」
「かしこまりました」
一礼して立ち去るウーカフが、珍しく付け加えた。
「スワヴォミル様のことは私が見ておりますので、ご安心を」
「ーーありがとう」
ドロータに手伝ってもらい、着替えている間、アリツィアは考えた。
ロベルトの言う通り、カミルは関係ないかもしれない。あの魔力使いがそこまで手の込んだことをするとは思えない。レナーテが仕組まれてうちにきたというのなら、そこには何か大きな悪意があるのだ。
「ドロータ、紅を少し、濃いめにしてくれる?」
「かしこまりました」
ーー負けるもんですか。
アリツィアは毅然とした表情で、鏡の中の自分を見つめた。