26、煙、再び
「お父様! イヴォナに何がありましたの?!」
挨拶もせず、アリツィアはスワヴォミルの部屋に飛び込んだ。無作法だと怒られても構わない。
「アリツィアか」
アリツィアをとがめる者は誰もいなかった。スワヴォミルは紙のように真っ白な顔をして、寄りかかるように椅子に座っていた。
「アリツィア様、申し訳ございません……」
父の向かい側に立っていた使用人のトマシュが、アリツィアに深々と頭を下げた。呼吸が荒い。見ると、左の肩から肘にかけてが包帯で覆われていた。シャツやズボンもところどころ破れ、血が着いている。
「トマシュ! 怪我してるじゃない! いいから座って」
「いえ、大丈夫でございます。私は……ここで」
「アリツィア様」
父のそばにいたウーカフが、アリツィアの前に進み出た。
「僭越ながら私から説明いたします。本日、イヴォナ様はレナーテと、ここにいるトマシュを連れて街に買い物に出ておりました」
レナーテとは最近入ったイヴォナ付きの侍女だ。イヴォナよりひとつ下で、気が合うのか、イヴォナはとても可愛がっていた。
「確か、スモラレク男爵の推薦だったのよね?」
「はい。男爵夫人の遠いご親戚とのことでした」
口数は多くないが、機転の利く、利発な侍女という印象だった。
「トマシュが言うには、イヴォナ様は最近有名な絵描きのところに出向いたそうです」
「絵描き?」
「なんでも、新しい技法で描き、人気がでているそうです。アリツィア様のご結婚の際の記念に、アリツィア様の絵姿を残しておきたいとイヴォナ様はお思いになりまして。アリツィア様に内緒で注文に行ったそうです」
「わざわざイヴォナが?」
「偏屈な画家らしく、遣いの者では納得しない上に、イヴォナ様自身もその画家の絵を実際にご覧になりたかったそうで、足を運ばれたようです」
「そうなの…」
トマシュが口を挟んだ。
「ですが、せっかく訪れたのに、絵描きは留守でした。仕方なく私どもは、すぐ帰りました」
何が起こったのかわからなかったと、トマシュは言った。
「町外れに来たとき、突然、馬車が暴走し出しました」
トマシュが手綱を引いても、馬は落ち着かない。このままでは横転してしまう。トマシュはなんとかイヴォナたちを守ろうとしていた。
すると。
「急に辺りが真っ暗になりました」
「真っ暗? 雲が出てきたの?」
「いいえ。なんというか、突然なにも見えなくなったんです。暗闇に包まれたというか」
馬を抑えようとしていたトマシュは一瞬、それに気をとられた。
ハッとしたときには遅かった。
馬はトマシュを振り落とした。トマシュは、空中にいる自分を感じた。うわあ、という自分の声が遠くに聞こえるようだった。
記憶はそこで途切れた。
「どれくらいたったのか、怪我をして気を失っているところを、通りかかった農夫が助けてくれたんです」
「そしてここまで運ばれてきたわけでごさいます。農夫が言うには、私と壊れた馬車しかなかったと」
ウーカフが付け足す。
「探しましたところ、馬だけ近くで見つかりました」
その怪我は投げ出されたときのものだったのか、とアリツィアは思う。
「でもそれって……」
辺りが真っ暗。
アリツィアが口にする前に、スワヴォミルが呟いた。
「カミル・シュレイフタの仕業に決まっとる……」
アリツィアも固い表情で頷いた。
舞踏会のときの煙。あれを思い出したのだ。
そんなことができるのは魔力使いの中でもトップクラスの者しかいない。
「でも、なんのためにイヴォナを……」
思い当たることはひとつしかない。アリツィアは苦い思いで口にする。
「……わたくしのせいですわね、きっと」
カミルの目的がミロスワフなのか自分なのかわからないが、イヴォナは巻き込まれたのだ。それしかない。
しかしスワヴォミルはそれには触れなかった。代わりにトマシュに視線を寄越す。
「そこのトマシュは、こう見えてそこそこの魔力の使い手だ」
トマシュが申し訳なさそうに頭を垂れる。
「馬車にだって防御の魔力を施していた。なのにイヴォナとレナーテはさらわれた。カミルの仕業としか思えない」
「旦那様、どうか横になってくださいませ」
ウーカフが気遣うように声をかけたが、血走った目をしたスワヴォミルには、もはや誰の声も耳に届かないように思えた。
アリツィアは決意した。
「お父様、どうぞ、ここはわたくしにお任せください」
心労のせいか、アリツィアがさらわれて以来、スワヴォミルは体調が優れないようになっていた。スワヴォミルにこれ以上負担をかけさせるわけにはいかない。
「なんとしてでも、イヴォナとレナーテを無事に取り返して見せますわ」
ーー相手が魔力使いだろうが、関係ない。
「絶対に」
アリツィアは強く、決意した。