25、傲慢な思い込み
護符だと渡されたハンカチで涙を拭いそうになり、アリツィアは慌てて自分のハンカチを取り出した。
「取り乱して申し訳ありません」
「いいんだ。むしろ嬉しいよ。僕の前だけだろ? そんなふうに揺れるのは」
アリツィアは肯定の意味で黙り込んだ。
ハンカチを畳みながら、ふと思ったことを問いかける。
「ただ、あの、ミロスワフ様ーーそれでは魔力のある方たちはどうなりますの?」
魔力があるということは、この国では特権だ。
それを守ろうとするのではないか。
「魔力を使うのも体力や気力がいるからね。便利な道具がそれに変わるなら、乗り換えるだろう。そうしてヘンリク先生が言うには、いつか魔力は無くなるだろうって」
「無くなる?!」
流石にそれは大げさではないか。しかしミロスワフは真剣だ。
「魔力は特殊な力ではなく、人々が共有するひとつの概念かもしれないんだ」
「共有する概念?」
眉を寄せたアリツィアに、ミロスワフが説明する。
「みんながあると思えばある。それが魔力ってことだよ。まあ、いろんな難しい理屈はたくさんあるんだけど」
「ですが、魔力はありますわ。わたくしにはありませんけれど、ミロスワフ様だって、わたくしに遠慮して使いませんけど、軽いものを動かしたり、花を枯れさせないようにできるでしょう? それが無くなるなんて信じられませんわ」
「確かに、僕たち貴族はそれができると思い込んで育ってきたね。でもこれからはわからない。魔力なんて貴族の傲慢な思い込みだったかもしれないということだ」
ミロスワフはアリツィアの手に手を重ねた。
「アリツィア、君は僕たちとは違う思い込みを生きているから。だから、井戸を消せたし、空気の壁も斬れた」
ミロスワフの言うことはアリツィアにはよくわからない。
わからないけれど、もしかして。
「ーーわたくしの思い込みが、カミル様の魔力に影響したのですか? 大魔力使いに近いと言われているあの方の?」
ミロスワフは重ねた手に力を込めた。
「そうだよ。他にもいろんな要素はあるだろうけどね」
「信じられませんわ」
「だけど、百年前と今、全然違う生活をしている。百年後も今と違う生活をしているはずだと思わないかい? それが時代の変化だよ」
そう言われたアリツィアは、なぜか変化することが、ほんの少し、怖くなった。今までと違う考え方。今までと違う時代。
それが、怖い。
ミロスワフが自分のことを思ってくれているのはわかっているのに。
ミロスワフは、護符のハンカチに視線を寄こした。
「だから、こんなものは、本当は渡したくないんだ。魔力があるという幻想に君を縛る気がして。それでも危険な目に遭わせたくないしと、葛藤している」
「……使うことのないように、なるべく一人にならないようにしますわ」
ミロスワフは思い出したように付け加えた。
「アリツィア、一度ヘンリク先生に会ってくれないか? 結婚式の少し前からこちらへ来てくれるとのことなんだ。ぜひ君と話したいとおっしゃってる」
「まあ、それは非常に光栄ですけれど」
アリツィアはつい、物憂げな表情をしてしまった。ミロスワフが気遣う。
「今日は難しい話ばかりで、困らせたね。先生と会うときは、いつも通りのアリツィアでいいから何も心配いらないよ。ヘンリク先生は、君の帳簿の話が聞きたいとおっしゃっていた」
「帳簿?」
「ああ、君が熱く手紙で語ってくれていたことを先生に話したんだ。そしたら面白いと」
ーー帳簿? 帳簿でいいんですの? そんなの……。
「大歓迎に決まってますわ!」
「だろ?」
「そうですか、帳簿ですか。さすが有名な先生ですのね。目の付け所に尊敬いたしますわ。まあまあどうしましょ、なにから話しましょうか。わたくしとしては、あれは、仕組みも画期的なんですが、やはり数字の種類が違うところから聞いていただきたいですわね」
「数字?」
「ええ、アラビア数字と言って、それを取り入れると計算がとてもはかどりますのよ! ベネツィアやフィレンツェの商人たちが使っているのを、お祖父様から聞いて試したら大成功でしたわ!」
「うん。実は知ってるよ。何回も聞いたからね」
声に笑いをにじませてミロスワフが頷く。
「そうでしたわね! 失礼しました」
「全然失礼と思ってないとこも、いつもと同じだね」
「いいじゃありませんの」
「うん、いいよ」
「そうですの、ヘンリク先生も帳簿に興味があるんですね……」
ご機嫌になった婚約者をミロスワフは愛しそうに見つめる。
「アリツィア、数字もそうだけど、時計もすごいと思わないかい? それに音符。音を書きとめられるんだよ」
「言われてみればそうですわね」
父スワヴォミルのお気に入りの懐中時計を思い出して、アリツィアは答えた。
「時計があるから、いつでも時間を見れるようになりましたものね。音符も」
「そう考えたら時代の変化も悪くないだろう?」
ーー数字や時計や音符のような、変化。
それならば、アリツィアも素直に受け入れられるような気がした。
「あー、早く結婚したいな」
素直すぎるミロスワフに、アリツィアは微笑んだ。
「それはわたくしもですわ」
笑いあって、それではまたと、その日は帰った。
幸せなのはそこまでだった。
「アリツィア様! 大変です! イヴォナ様が!」
館に戻ると、イヴォナが行方不明になっていた。