24、火
「結婚式が待ち遠しいよ」
アリツィアが思っていたことを、ミロスワフが口にした。わたくしもです、と答えようとしたら、
「……自制だ、自制」
と、独り言のようにミロスワフが言った。なんのことかと問いかけるように見つめると、先回りしたように微笑まれた。
「なんでもない」
「そうですの?」
少しの沈黙の後、ミロスワフのほうから口を開いた。
「ところで、こんなときに無粋だけど」
考え込むように、眉を寄せた。
「僕はさっき話していた公爵令嬢よりカミルが何かするんじゃないかと思っている」
その名前を聞いて、アリツィアも硬い表情になった。
「わたくしもそう思いますわ」
目的が何かわからないが、あの魔力使いがこのまま大人しくしているとは思えない。
「でもどうやって警戒したらいいでしょうか」
何しろ相手は渦を作って現れたり、ぱっと消えたりできるのだ。
「それなんだけどね。ひとまずは、これを渡しておくことにするよ」
ミロスワフが胸ポケットから、見たことのない文様を刺したハンカチーフくらいの大きさの布を出した。
白地に赤と紫の糸で刺繍している。
「ヘンリク先生が作った護符なんだ。効果は万全とはいえないけれど」
「まあ! これをわたくしに? いただいていいのでしょうか」
「もちろん。とはいえ、実は、君にこれを渡すのには迷いがあった」
迷い?
アリツィアは手渡されたハンカチとミロスワフを見比べる。
ミロスワフはどう説明しようか、考えている様子だ。
やがてゆっくりと息を吐く。
「……アリツィア、知っての通り、君には魔力がない。いや、君とイヴォナと言うべきか」
「はい」
「魔力がない人間はたくさんいるが、君たちの特異なところは、貴族なのに魔力がないというところだ。それについては、お母上の血が強く出たのだろう。血統を保持するために貴族の男性が庶民に子供を産ませることはあっても、その子達も魔力を持っていることがほとんどだからね」
「そうですわね。わたくしもイヴォナも貴族であるのに、魔力がないという点で異質なのは自覚しております。母の血を受け継いだためということも」
アリツィアは淡々と事実を認めた。そんなことはとっくの昔に受け入れたことだ。ミロスワフは真剣な表情で続ける。
「ただ、それは今までの価値観だ」
「今まで? これからは違うとでもおっしゃいますの?」
「かもしれない。ヘンリク先生の説ではそうなる」
「まさか」
アリツィアは信じられなかった。思わず笑う。
「価値観がそんなに簡単に変わるとは思えませんわ。それならわたくしたちはどんなに助かったことか」
謂れのない差別、中傷、揶揄。
魔力のない子供を産んだことで母がどれほど苦労したか。
早逝したのも、そのせいだと思っている。
それらの苦労の元が、そんな簡単に変わるとは思えない。
だがミロスワフは怯まなかった。
「大陸ではね、アリツィア」
「ええ」
「ーーみんな魔力を使わなくなってきている。少なくとも僕は大学で、魔力を使うことがなかった。必要がなかったんだ」
アリツィアはすぐには飲み込めなかった。
ーー魔力を使わない……? 大陸では?
「知っての通り、僕が留学していた大学は、フィレンツェやベネツィアよりも遠くて、寒い、広大な大陸にある。軍事的にも、文化的にも、我が国よりはるかに進んでいることは手紙にも書いただろう?」
「はい。どの国の者でも通える大学があるのがその証拠ですわよね。この国はまだそんな学府はありません」
ミロスワフは胸ポケットから不思議な装置を取り出した。
「例えば、あちらでは、今こんなものが当たり前になっている」
手のひらに収まるほどの大きさのそれは、今までに見たことのない形をしていた。
ピストルのグリップと引き金だけを取り出したような、そこを握って、引き金を引くのだろうとは想像がつくのだが、それでどうなるかはさっぱりわからない。
ミロスワフは落ちていた細い枝をそれに当てる。
「見ててごらん」
右手で枝を当てたまま、左手で、かち、かち、と音を立てて、引き金を引く。何が起こっているのかわからないアリツィアはじっと見守る。数回、音がしたあと、ミロスワフがフーッと息を吹きかけるとーー。
「……嘘でしょう?!」
枝が燃えだしたのだ。
アリツィアは驚いて聞く。
「魔力ですの?」
「違う。でも、これさえあれば誰でも火を起こせる。使い方さえ正しければ、もちろん庶民でも」
「庶民でも……」
アリツィアたちの国では、魔力がなければ火を起こすのに一苦労だ。だから庶民は火種を消さないように、毎晩、炭を壺に入れておく。扱いを間違えれば火事になるので神経を使う。
だが、この道具があれば、そんな心配は無用になるのだ。
「これだけじゃない。大陸やほかの国ではこんなふうに、魔力より便利な道具が今流行しているんだ。値段が高いものもあれば安いものもある」
「それはどなたでも買えるのですか?」
「ああ。庶民も大事なお客さんだからね。売り手も庶民にも便利なものを開発する。その繰り返しで、魔力なんて置き去りの傾向さ」
ミロスワフはゆっくりと言った。
「ーー時代が変わっていってるんだ。つまり価値観も変わっていっている」
アリツィアはそこで初めて、ミロスワフの言っていることを理解した。
「変わらないと、思い込んでました。他でもないわたくしが」
ミロスワフが頷く。
「もちろん、大陸の変化をこの国がすぐに受け入れいるのは難しいだろう。今でも昔ながらの様式を守って生活しているこの国は、新しいものが嫌いだからな」
「ミロスワフ様は、この王都でさえ、大陸の基準からすれば田舎だと手紙に書いておられましたね」
「ああ。だけど、どれくらいの時間がかかるかわからないが、いずれこの国も大陸のようになると考えるのは自然じゃないか?」
「そう、ですわね」
アリツィアの目から涙がこぼれた。
「アリツィア?!」
「申し訳ありません……もしもだなんてことすら考えたことなかったので、つい」
もしも、魔力なしが差別されない世の中になったら。
もしも、魔力なしでも庶民でも、貴族と対等の世の中になったら。
そんな仮定さえ抱いてはいけないと思っていた。
ミロスワフはアリツィを、そっと抱きしめた。
「僕にできることはなんでもするつもりだ」
「ーーミロスワフ様」
「次の時代は、アリツィア、君のように魔力など関係のない生活を送る人が増えると僕は思っている」
ミロスワフは力強くアリツィアを抱きしめた。