シャロン
シャロンだった。
彼女は素足で立っていた。髪と瞳の色が変わっている。顔が幼くなっているが、まぎれもなくシャロンだ。「なんで……」
「ごめん、あたしはドラゴンフライじゃないんだ」
「……どういうこと」
「ノーマっていうの」
「嘘」
「ホントだよ」
「でも」
「ドラゴンフライの魔女は死んじゃった。今ここにいるのはノーマだけなんだ」
「まさか……」
メリカの頭の中で情報がつながった。ノーマをビホルダーの眼孔に入れた時、彼女の魂の一部がドラゴンフライに吸い込まれていたのだ。
「あなたは何者?」
「ノーマ。あなたの友達の一人よ」
「ノーマ、……私のこと覚えてるの」
「……思い出した」
「よかった」
「ありがとう」
「どうして感謝するの」
「ノーマって名前、すごく気に入ってる」
「ノーマ……、……それがあなたの本質なのね」
「たぶん」
「私は、メリカ」
「知ってる」
「嬉しい」
「シャロンは」
「忘れた。憶えてるのは自分の名前がノーマだってことくらい」
「そっか」
「うん」
メリカとノーマはエアロックの前で手をとりあった。
「私たちこれから、どうしよう」
「生きてくしか無いじゃん」
「どうやって」
「わかんないけど」
「困る」
「だよねー」
メリカはため息をついた。ノーマは肩をすくめた。メリカとノーマは見つめあってクスッと笑った。
***
メリカとノーマが去った後、宇宙船《はこぶね》が墜落した場所には誰もいなかった。ただ、おびただしい数の死体が積み重なっていた。
その死体が動く。
死体が起き上がる。
死霊だ。彼らは生きていた。死んではいない。
地球外生命体だ。
彼らはビホルダーと呼ばれていた。
ビホルダーは宇宙服を着て、ヘルメットのバイザーを上げた。地球人には見分けのつかないビホルダーたち。彼らが地球外生命体だと知るのは地球人だけだ。
「我らが母なる地球よ、また会う日も遠くないだろう」
彼らは地球脱出教団《メフロンティア》。
ビホルダーは地球での生活に満足していた。彼らにとって地球は住みよい世界だった。大気は酸素に満ちていて呼吸ができた。
地球は彼らの文明より進んだ科学力を持っていた。彼らは地球で学び技術を学んだ。しかし地球の環境に適応できなかった。彼らの遺伝子には地球人の遺伝子情報が含まれていた。その遺伝子情報によりビホルダーたちは、あらゆる疾病や障害に冒されていた。彼らは地球の医学で救えない病人だった。
地球は彼らを拒絶しなかった。地球は彼らを温かく迎え入れてくれた。地球は彼らを理解しようとしてくれた。地球はビホルダーたちを、愛してくれる。地球が与えてくれるのは安らぎと平穏だけだった。ビホルダーたちが望むものを与えてくれていた。地球はビホルダーに優しかった。だから地球を愛していた。
地球には、まだ知らないことがたくさんある。それを知れば地球はさらに優しい存在になるはずだ。地球を、もっと理解したい。いつか、きっと。
いつか必ず……。
※ ドラゴンフライは墜死した。メリカとノーマが生きている可能性はない。それでも二人は再会できたのだ。奇跡に近い確率だが、これが二人の出会いを祝福していると信じる者もいた。二人を悼む者もいる。そして今日もまた、新たな犠牲者が宇宙船《はこぶね》に乗り込む。
***
ノーマと別れたメリカは地上に降り立った。
ここは地球月系第四番《セグエラグポイントフォー》。人類未踏の月の裏側。
ここには地球脱出船団《エブリデイマジック》の宇宙施設《ムーンライトアイランド》がある。この施設では人類が月面で生き延びるための研究が行なわれている。宇宙船《はこぶね》は地球月系第三番《セグエスティゴポイントサード》にある。ここからなら《はこぶね》まで半月ほどでたどり着けるだろう。月の裏から地球にたどり着くためには二か月近くかかる。その間に《はこぶね》が墜落する可能性は十分にある。
この月の基地からなら、他の《はこぶね》の位置が分かる。
月面歩行船、通称《月歩艦《つきほかん》》。人類が初めて作った月面移動用の小型船だ。船殻が薄いため、推進機関が脆弱。船殻を厚くして重心を高くすると船体が不安定になり、飛行中に分解する危険があった。
メリカは《ムーンライドアイランドステーション》に向かった。ステーションのゲートでIDカードを見せようとしたとき、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
男は二十代後半だろうか。黒髪の長身痩躯で、白いワイシャツに黒いズボンを穿いている。彼は右手を胸にあてて一礼した。メリカは彼の顔に見覚えがあった。記憶の底を浚う。すぐに思い当たった。彼を見たのは初めてではない。
男は口を開いた。落ち着いた声で告げる。
――メリカ・リリスさんですね。
メリカの表情が凍り付いた。なぜ彼が私の名前を?混乱しながらもメリカは答えた。
彼の名を呼ぶ。
――アルコン人……、……ですか。
メリカは男を見据えた。男の目には懐かしさが宿っていた。男はメリカに言った。
――そうです。お久しぶりです。お元気そうですね。
メリカは動揺した。こんなことがあるはずがない。あり得ない偶然だ。目の前にいるのは間違いなく人間だった。だが同時に、彼はメリカを知っているようでもある。いや、知っているどころの話ではない。まるで旧友のような親しみが込められていた。……そんなわけがない。私が彼と会っている?ありえない。絶対にない!……いったいどこで? その時、メリカの心の中で閃光が走った。……そうだ、あの時の!
――……あぁ、なるほど。……そういうことですか。
そう呟いて、彼は納得したように微笑んだ。メリカは彼に問うた。
――いつ、ここへ? 彼は即答した。
――たった今ですよ。
それは、あまりにも自然な返事だった。一瞬、メリカは言葉を失った。……まさか、……信じられない。――メリカ・リリスさん、僕の名前はアルヴィン・ランフォードといいます。
アルヴィン・ランフォード……、……ランスロット。メリカの脳裏に過去の情景がフラッシュバックした。
***
メリカ・リリス。
「…………」
彼女はベッドの上にいた。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。窓の向こうで鳥が鳴いていた。室内に人の気配はなかった。静かで穏やかな朝だ。
メリカはベッドから出て、部屋の隅にある鏡を見た。
「……」
メリカは顔をしかめた。
顔にあざができていた。左の頬骨に青アザ。鼻の脇にも切り傷がある。首筋の肌は内出血で斑になっていた。メリカの服はところどころ破けている。
「……痛い」
身体中が痛かった。特に腹と背中がひどい。痛みで身動きが取れなかった。全身に激痛が走る。呼吸するだけで、つらい。……痛いよ。誰か助けて。痛いの。
彼女は泣いていた。
***
アルヴィン・ランフォード。……それが彼の名前だ。アルフォンスの親戚だと言ったら信じてもらえそうな名前だ。でも違う。……私は会った事がある。……いや、違う、……初めてじゃない。……思い出せないだけなんだ。……アルヴァン……、
「……アル……」
「……」
「……」
「……」
メリカは目を開けた。見慣れない部屋が見えた。自分は椅子に座って机に向かっていたようだ。
しおり