第一話
翌日の朝、光輝さんを送り出すと私は今にも降りだしそうな空を見上げた。
一通りの家事を終え、いつも通り語学の勉強をしようとするも、全く集中できない。
小さくため息を付くと、私は教科書を閉じた。
そんな時、私のスマホが音を立てる。こんな昼間にかかってくることなど滅多にない私は驚いてディスプレイに目を向けた。
宛名の出ていない携帯の番号。
何か良くない気がして、出るのを躊躇するもそれは意味がないことのようにも感じた。
そう思うと、私はキュッと唇を噛んだ後、スマホの通話ボタンを押す。
「もしもし」
『結衣さん?』
それは透き通った女性の声で、私の名前をさん付けで呼ぶような知り合いはいない。
「はい」
警戒しつつ返事をした私とは対照的に、その声の主明るい声で言葉を続ける。
『今から少しお時間あるかしら? 私は加納瑠璃子申します』
話し方はとても丁寧だが、有無を言わさない物言いはきっとNOを言われ慣れていない人だと想像がついた。
「どのようなご用件ですか?」
しかし、はいわかりましたという理由はもちろんない。
こんな答えが返って来るとは思っていなかったのか、少し間が開いた後、今までより不機嫌そうな声が聞こえた。
『光輝から頼まれごとをしたと言えばわかるのかしら』
その言葉に、私の胸はドクンと音を立てる.”コウキ”と甘やかな声で呼び捨てにする関係。
そして光輝さんがわざわざ私の電話番号を教えて依頼をする。
よほど信頼している関係なのだろうか。
「光輝さんとはどのようなご関係ですか? 光輝さんからどうして直接電話がないのですか?」
それでも私はこの人と会うことは気が進まず、問いかける。
『だからそれを今から説明したいのよ。光輝は今日は急遽出張になって忙しくて連絡できないのよ。私はTAコーポレーションの秘書課にいるの』
初めにそう言ってくれればいいのに。そうは思うも秘書というのならば話を聞かないわけにはいかない。
「わかりました。どこへ行けばよろしいですか?」
加納さんはホテルのラウンジを指定すると、さっと電話を切ってしまった。
光輝さんに電話をしたい気持ちもあったが、忙しいと言われればそれも無理だろう。
憂鬱な気持ちで、私は支度をすると指定されたホテルのラウンジへと向かった。
会ったこともない人が解るのだろうか。そう思ったがラウンジで名前を告げるとすぐに彼女のもとへと案内される。
窓際の席に座ったその人は、ブラウンの長い髪、パチッとした二重の瞳でとても綺麗な人だった。
きちっとしたベージュのツーピースを着たその人は、長い足を組み替えると私をみた。
「どうぞ、お掛けになって」
「失礼します」
完全に主導権は握られている気がしたが、大人しく言われるがままに加納さんの前に座ると小さく息をはく。
「どんなご用件でしょうか?」
加納さんと同じものを頼むと、私は長居をしたくなくて要件を口にする。
「せっかちな人ね」
クスリと綺麗な口紅を塗られた唇が弧を描く。
「光輝からあなたのことは聞いているわ。偽装なんですってね」
「え?」
まさかこの人がそのことを知っているなんて思っていなくて、私は目を見開いた。
「何をそんな驚いた顔をしているの? 所詮ビジネスでしょ? 秘書の私が知っていて何かおかしいかしら? それに私と光輝は小さいころからの知り合いなのよ。お父様同士が親友なの」
所詮ビジネス。その言葉にガツンと頭を叩かれた気がした。
そして、この人が昔からの光輝さんの知り合い。二人が並んだところを想像して私はあまりにもお似合いすぎる気がした。
「しばらく海外の支社に行っていたんだけど、数日前に日本にもどってこの話を聞いて、その役目を変わらないと思ったの。光輝は不愛想で冷たいけど、昔から私と結婚したがっていたし、今はいい男になったし、私も妥協してもいいと思って」
この人が何を言っているかわからない。不愛想で冷たい人。
光輝さんはそんな人ではない。
でも……。
光輝さんがこの人を望むのならばそれは仕方がないことだと思う。
「おっしゃりたいことはわかりました。でも光輝さんときちんと話したいと思います」
そんな私の言葉に、加納さんがはっきりとイラっとしたのが解る。
「あなた、パーティー同伴するように言われてたでしょ? その先は聞いているの? 今週末なんだけど」
「今週末?」
確かに初めに話したときは、そのうちある会社のパーティーに出席してほしいと聞いていた。
しかし、あの日以来数カ月が経つが、一向にその話は聞いていない。
それが今週末に迫っているなんて。
私はその言葉に呆然としていたのだろう。
目の前でクスリと笑い声が聞こえて、加納さんが席を立つのがわかった。
「光輝が自分で言いにくいから代わりに言ってくれって頼まれたのよ。わかった? じゃあ失礼するわ」
私の分の伝票も加納さんは持つと、颯爽と振り返ることなく行ってしまった。
私では役不足。それは仕方のないことかもしれない。
加納さんが帰国したから、私の役割は終わりということだろう。
それは理解している。
涙が零れ落ちそうになるのを何とか我慢をすると、私はマンションへと急いで帰った。
自分の部屋に入ると涙が零れ落ちる。
少しずつ少しずつ、自分の中の好きという持ちと、別れを折り合いをつけて行くつもりだったが、こんな風にいきなり他人に現実を突きつけられるとは思っていなかった。
ポロポロと涙がカーペットにシミを作って行くのをただ見つめていた。
その後、私は何もする気力がわかずぼんやりとしていたのだろう、すでに外が暗くなっていることにハッとする。
夕飯の支度もまだしていない。時計を見るとすでに19時を回っていた。
もしかしたら光輝さんが帰ってきてしまうかもしれない。
急いで支度をしようとキッチンへ向かった。
そういうときに限って、まるで心配していたことが現実に起きる。
世の中はそうできているのだろうか?
自分の扉を開けたところで、いつもより派手な音を立てて玄関が開く音が聞こえた。
もはやこの廊下に光輝さんが姿を現すのは時間の問題で、まだぐちゃぐちゃだろう顔だけでも先に直すべきだったと思う。
しかし、そんなことを思ってももう遅い。
「結衣!」
すぐに慌てたように走ってきた光輝さんに、私はなんとか笑顔を向けた。
「おかえり……」
言葉は最後まで言わせてもらえず、光輝さんの腕に囲われる。
「よかった。家にいて。何度も電話したのにでないから」
加納さんと会うからと、音量をオフにしていたことを今更思い出す。
「ごめんなさい。電源を切っていて」
それだけを言った私に、光輝さんはさらに抱きしめる腕の力を強める。
「なんで泣いてた? 何があった?」
そんなにわかる顔をしていただろうか? 自分の顔は見ていないがすぐに気づかれてしまったことに言葉が詰まる。
「別に何も……」
まさか好きになってしまったとはいえず、私は小さく首を振った。
ふと腕の力が緩んだような気がして、私は抜け出そうと身をよじる。
「そんなの通用すると思うのか?」
しかしいつもより数段低くなった声に、私はビクリと動きを止めた。家にいる時の穏やかな口調の光輝さんではなく、まぎれもなく会社で演技をしている光輝さんだった。
「結衣」
怒っている様な光輝さんの声音に、私はまたもやポロポロと涙が零れ落ちる。
「だって……。光輝さんともう一緒にいられない……」
光輝さんの迫力に負けるように、私は涙と共にせきを切ったように思いだがあふれ出しまう。
「光輝さんには、加納さんがいて、私なんて所詮……」
そこまで言ったところで、光輝さんがさらに低い声を発した。
「どうしてその名前を結衣が知ってる?」
自分で頼んでおいてどうしてそんなことを言うのだろう?
光輝さんの口調は会社のように怖くて、冷たく聞こえたが、私を抱きしめ涙を拭う指はとても優しい。光輝さんがわからない。
「だって、光輝さんが頼んだんでしょ? 私と別れたいって」
もう半ばやけくそだった。会社での光輝さんはいつも冷静で怖さえ感じるが、本当の光輝さんの優しさはもう知っている。
光輝さんなんて怖くない。
私が怖いのは、一緒にいられなくなること……。
そこまで思うと、キュッと唇を噛む。
「所詮私はお金で雇われた婚約者で、加納さんみたいに何も持ってないからパーティーの話をしなかったんでしょ? 私を連れて行ったらダメなんでしょ?」
「結衣……」
「なんですか!」
先ほどとは違う、少し困ったような光輝さんの声に私は光輝さんを睨みつけた。
「光輝さんだって嘘つきじゃない、演技とか言って本当は怖い光輝さんも本当のくせに! 私ばっかり甘やかすからこんなことになるんだから! 光輝さんが……光輝さんだって悪いんだから……」
何を言っているのだろう。両親が亡くなって以来、泣き言も言わず我慢できていたのに、ここにきてもはや自分の感情をどうしていいのかがわからなくなる。
光輝さんが優しくしなければ、好きになんてならなかった……。
なんとか涙を止める方法を考えながら、私は俯いた。
「ねえ結衣。今の言葉ってどういう意味?」
いつも通りの声に聞こえ、私はしゃくり上げながら光輝さんを見上げた。
「どういう意味って?」
言われた言葉が解らなくて、私は小さく声を発した。
「だから、俺が結衣を甘やかせたから悪いの? 結衣は甘やかされて嬉しかったってこと?」
その言葉に、もはや自分が八つ当たりいや、嫉妬のようなセリフを口にしていたことに気づく。
「あっ……。違う。だって」
「違うの?」
こっちが演技かもしれないと思うほど、光輝さんは悲しそうな表情を見せた。
「もう! 本当の光輝さんはどれよ! 私ばっかり振り回して……」
また泣きそうになる私に、そっと光輝さんは私の頬に触れた。
「本当の俺はどれだと思う?」
余裕がある妖艶すぎる笑顔で見てくる光輝さんに、苛立ちが募る。
「もう、騙されない!」
光輝さんの手を払いのけ、自分の部屋へと戻ろうと私は踵を返した。
「待って!」
初めてあった日もこのセリフを聴いたことを思い出す。何度も光輝さんは私を引きとめてきた。
「もう、待たないんだから」
呟くように言ってリビングそこから逃げ出そうとした私だったが、あっさりと後ろから光輝さんに抱きすくめられる。
「ごめん、嬉しすぎて調子に乗った」
「なにが嬉しいんですか……」
意味が解らなくて、私はその腕から逃げ出そうと身をよじる。
しかし、当たり前だが男性の力にはかなうわけもない。それでなくても光輝さんは、トレーニングもしていて均整の取れた体格をしている。
そんな腕から出られるわけもなかった。
「だって、初めて結衣が気持ちを言ってくれて、それに少しでも俺に好意を持ってくれてる気がして」
「好意って」
ずばり言われてしまい私はあたふたとしてしまう。
こっそりとこの気持ちを忘れて行くつもりだったが、溢れてしまった言葉はもう取り消せない。
何をどうしていいのかわからず、私は光輝さんの腕の中で固まってしまう。
「ずっと結衣だから甘やかせてたっていったら信じる?」
会社のときのような雰囲気を纏いつつも、甘い声で耳元で言われ、私の心臓は限界なほどバクバクと音をたて、急速に身体の熱が上がる気がした。
信じられるわけもないが、信じたいそう思う気持ちを止めることが出来なかった。