第四話
エレベーターで地下のボタンを押すと、小さくため息をつく。
なにやらおかしなことになっている気がするが、久しぶりに人のいる気配がなぜか嬉しかった。
そんな自分に驚きつつ、いきなり音もなく開いた扉にハッとして足を踏み出す。
レジデンスに併設されいるスーパーということで、そんなに大きなものを想像していなかったが、品炉揃えは十分で高級な物が多かった。
とりあえず、朝食につかえそうで、なおかつ多少の日持ちのするものをと、ハムやチーズ、卵、デリコーナのおいしそうなサラダをチョイスする。
ご飯を炊くにも炊飯器があるかがわからなかったので、ちょうど焼きあがったというテーブルロールをカゴに入れた。
あまり購入しても、きっと副社長は腐らせてしまうだろうう。
とりあえずこれだけをレジで購入した。
パッと買い物を済ませ、副社長のお宅に戻ると、まだリビングに副社長の姿は見えなかった。
かなり立派なシステムキッチンに袋を置いて、キョロキョロと周りを見渡す。
整然としていて、見える範囲にフライパンや鍋類はもちろんコップも皿も見当たらない。
「買い物行ってきた?」
不意に後ろから聞こえた声に、私は反射的に振り返った。
今まで見ていたスーツとは違い、上下黒のスエット姿の副社長は髪もセットされておらずかなり若く見えた。
「はい。たいしたものは買ってないですが、フライパンとかお借りしていいですか?」
その言葉に、副社長は頷くと壁のようになっていた後ろの扉を開けた。
「このあたりにあると思うけど、俺もよくわかってないから勝手に使って」
手当たり次第扉を開け始めた副社長に、私は慌ててそれを止める。
「わかりました! 適当に開けさせてもらいますね」
すべて開けてしまいそうな勢いに、私は苦笑してフライパンを手にする。
「ああ」
なぜか嬉しそうに笑う副社長に、どうしてかわからず私はジッと副社長を見た。
「あの、朝食は召し上がった方がいいですよ。簡単な物ですが召し上がりませんか?」
食べてもらわなければお礼にならないと、私は拒否される覚悟でおずおずと尋ねる。
「え? 俺の分も作ってくれるの?」
意外なセリフに私はポカンとしてしまったのだろう。想像していたことと真逆な事を言われると人はこんな風になるんだ、と私はそんなことを思ってしまう。
「あれ? 違った?」
「いえ、違いません! 作らせてください」
慌てて言った私に、副社長は嬉しそうに微笑むと「よろしく」とキッチンから出て行った。
調子が狂う。何度この言葉を言ったかわからない。
昨日眠る前にネット調べた副社長の情報は、最初の印象通りだった。
【冷静沈着、クールな若き副社長】
そんな文字が躍っていた。中には冷徹非常そんな文字すらあった。
始めた見た日や、会社での副社長はその通りの印象で、仕事の為ならば手段は選ばないそんな印象を受けた。
しかし、今目の前にいる人は、やわらかい雰囲気で穏やかな空間の中でパソコンをしている。
そんな事を思いながら、私は真っ白なお皿を出し買ってきたサラダを盛り付け、チーズ入りのオムレツを作ることにした。
調味料はかなり本格的な物が揃っていたことから、きっと家政婦の女性たちも料理はしようと思ったのだろう。
ハーブや聞いたこともない調味料まである。
私にはこんなおしゃれな料理はできないよ。そんなことを思いながら、コーヒーメーカに粉をセットしてコーヒーを落とし始めた。
部屋にコーヒーの香りが漂い始めて、私もホッとした気持ちになる。
朝の陽ざしがサンサンと入る立派な部屋に、幸せな香り。昨日までとは全く違う環境はまるで夢でもみているような気させする。
次に、シンプルだけど母直伝のふわふわオムレツにするためにフライパンに卵を流し入れると、ジューと心地よい音がする。
二人で生きるのに必死だったが、料理をしている時間は無心になれるため、私は料理が好きだ。
クルクルと卵をかき混ぜていると、いつの間にか副社長が横にいてびっくりして動きをとめた。
「どうされましたか!」
「いや、コーヒーの香りと、なにやらいい音がしたから」
そう言いながら、物珍しそうに私の手元を覗き込む。
「副社長の毎日召し上がっている様なものは作れませんが」
ポンと皿にひっくり返して綺麗な黄色のオムレツを盛り付ける。
焼き立てのパンを隣に乗せ、パンプレートの朝食の出来上がりだ。
「美味そう」
そう言いながら私に微笑むのが、破壊力がありすぎるカッコよさで、私はその顔を凝視できずお皿に視線を向ける。
「持っていきますから座って下さい」
恥ずかしくて少し早口になってしまった私だったが、副社長は素直にダイニングテーブルに席に着いた。
立派なカトラリーがたくさん並べられた引き出しから、フォークとナイフをだしテーブルに並べる。
そして、さっきのお皿とカップに注いだコーヒーを置いた。
「お召し上がりください」
まるで「膳」の仕事みたい。そう思いながら私はキッチンへと戻った。
「君のは?」
「え?」
聞き返した私に、副社長は当たり前のように言葉を発する。
「一緒に食べよう」
一緒に……。そんな気は全くなかった私はピタリと動きを止めた。
雇い先の副社長であり、恩を返すつもりだった。片づけをしたらとりあえず話を聞いてすぐに帰るつもりだった。
そんな私に気づいているのか気づいていないのかわからないが、副社長は食事に手を付けずにジッと私を見つめる。
「あの、すぐに自分の物をつくりますので、先に召し上がってください。温かい方がオムレツ美味しいです」
最後の方は小声になってしまったが、副社長は可愛らしくも見える笑顔を浮かべたあと、「いただきます」と手を合わせた。
私は慌てて自分のオムレツを作ると、お皿を持ってダイニングテーブルにもっていく。
八人は座れるそれのどこに座ろうかと、躊躇していると当たり前のように副社長は自分の前を指し示す。
「ありがとうございます」
おずおずと副社長の正面に座ると、チラリと視線を向ける。
「とてもおいしい」
素直に言われて驚きと、羞恥の中私は言葉を発した。
「いえ、こんな料理ともいえないものですいません。いろいろ買ってもきっと副社長、ご自分で作らないと思いましたし……。本当は私は和食の方が得意なんですが……」
何を言い訳のように言っているのだろう。そこまで言って私は慌てて言葉を止めた。
「そうなんだ。じゃあ今度は和食を食べたい」
「え?」
自分のオムレツを切って口に運ぶ寸前だった私だったが、その手を止めた。
「膳みたいにかしこまったやつじゃなくて、一般的な家庭料理がいいな」
特に何も気にしてない様な副社長の言葉に、私はどうこたえるか思案する。
そして、思い切って話を切り出した。
「あの、お話って……」
その言葉をいうと、一瞬ピリとした緊張のようなものが走った気がした。
それは副社長が食べる手を止めたせいかもしれないし、私が緊張したせいかもしれない。
「そのことだけど……」
そこまで言って言葉を止めると、副社長は残っていたパンを口に入れた。
「君が食べ終わったら話そう」
そう言うと、副社長は自分の食器を持って席を立ってしまった。
やはり何やらいい話ではないのだろうと、私は残っていたオムレツとパンを口に入れたがさっきまでのおいしさは感じなかった。
味のしなくなったパンをコーヒーで流し込むと、さっとお皿を洗い新しいコーヒーを入れて、副社長が座っているリビングのソファーへと向かった。
テーブルにコーヒーを置くと、ハッとして時計を見た。
今日はまだ金曜日、副社長は仕事のはずだ。
そんな私に気づいたのか、副社長も時計に目を向ける。
「君の方が支度に時間がかかるよな。手短に話さないと……」
「いえ、私は仕事がなくなったので。副社長のお時間が大丈夫かと」
その言葉に驚いたように副社長は私を見据えた。
「どういうこと?」
本当に何も知らないというような副社長に、私は意味が解らない。
「あの、副社長が私の派遣先を切ったんじゃないんですか?」
ずっとそう思っていた。この人が目的を遂行するために強引にことを勧めたのだと。
「まさか! なぜ俺がそんなことを……いや」
そこまで言って副社長は表情を曇らせると、言葉を止めて大きく息を吐いた。
「いや、俺のせいだな」
目の前の人を見ていれば、何か事情がありこの人が指示したのではない事は明白だ。
「あの、説明頂けますか? 私にお話があったんですよね?」
静かに問いかけた私に、副社長は大きく頷いた。
「昨夜、会社に呼んだのは俺ではないんだ。君が来ることも知らなかった」
きっとこれは本当だろう。西村室長と話しているときの二人の会話はかみ合っていなかった。
「誰の指示で?」
「親父だな……」
お父様…「膳」での食事の席でドンっと座っていた人を思い出す。現TAコーポレーション社長である、高遠修三氏だ。
「どうしてそんなことに?」
私の問いはもっともだというように、副社長は額の前で手を組むとゆっくりと目を閉じた。
「君と会った日だよ」
あった日? 私は記憶を呼び起こす。
「あの会食の日ですか?」
「ああ」
肯定すると、副社長は何やら考えた後、言葉を選ぶように話し始めた。
「君が通訳してくれたあの日の会話を覚えてる?」
「はい、色々と話されていましたよね。ヨーロッパのお仕事の」
私の言葉に副社長は小さく頷くと、話を続けた。
「そう、あの件は我が社が威信をかけて行っているプロジェクトで、俺が中心に進めている案件なんだ。そこであの言葉だよ」
そこで私もあの言葉というのが、思い当たる。
「こんな若造で大丈夫か、二代目は信用できるのか、ただの会食という名の、要はおれの品定めだったんだと思う。急にあまり理解できない言語に、予定にない来客、予想外のことばかりだったなか、君が現れた」
そこで言葉を止めると、副社長は私をみた。
「結婚ですか?」
私はなぜか緊張しつつ尋ねると、副社長は苦笑するようにうなずいた。
「あの時は信頼を得るために嘘も方便だと思っていたんだ。そんな早急に結婚しなくても、ごまかせるだろうと」
まあ、そうだろう。あそこでそう言っておけば、契約はうまくいく可能性を大きくしたと思う。
「その後、親父に問いただされた。どこの令嬢と結婚するのかと。前から俺に見合いの話を持ってきていたから、その中からでも選ぶと思ったんだろうな」
ここで、一度副社長は言葉を止めた。そにこととどうして私が関係あるのか全く分からない。
「だから、俺は……。ついさっきの彼女と結婚すると言ってしまったんだ」
つい間抜けな声が漏れてしまった。
なんで? どうして? そんなことに?
お父様の嫌がらせに、私を使った? そんなことを思っていると、いきなり副社長は頭を下げた。
「本当にごめん。とても失礼なことをしたと思っている。令嬢と結婚しろと言われ君のことを使うようなことをして。それは君を侮辱していることになる。そんなつもりもなかった。ただ……」
なぜか今までの威厳がある副社長には見えず、お父様に反抗する小さな子供のように見えてしまう。
私が小さく息を吐くと、副社長が顔を上げた。
「きちんと親父には俺から話をする。仕事も派遣先に戻りたければ手配するし、もう新しい人がいるのならば「膳」の社員でも、TAコーポレーション本社にでも……」
真摯に謝罪する姿に私はもう少しだけ話を聞いてもいい気がしてきた。私は令嬢でもなければ一般人以下なのは本当のことだ。
「あの、お父様はどうして私を呼んだのですか? ご令嬢じゃなければいけないんですよね?」
「別れさせるつもりだったのか。もしくは偽りだと思っていたか」
その言葉に私はハッとして言葉を発した。
「まさか、きのう社長もいらっしゃたのですか?」
「ああ、君と入れ違いに」
苦笑した副社長の言葉に唖然とする。私がいなかったことで副社長はまた窮地においこまれたのではないか。
そこまで思ったところで、私は自分の考えに呆然とする。どうしてこの目の前の人のことを考えてしまったのか。
私は怒っていたはずだった。
それなのに……。
「申し訳ありませんでした」
素直に零れ落ちた私の言葉に、副社長は少し悲し気な笑みを向ける。
「いや、こちらこそ本当に申し訳なかった。君を巻き込むつもりなんてなかった」
その言葉に嘘はなさそうで、私は小さく息を吐いた。