第三話
昨日、いつもより早く眠ったせいか、少し空が明るくなったころに目が覚めた。
時計を見れば、六時を回ったところだった。
これ以上眠れる気もせず、私は手持ちの化粧品で軽く整え、昨日副社長が持ってきてくれたワンピースに着替えた。
もう起きているだろうか?
そんな思いで、音を立てないようにリビングに向かうと、床に転がっている生き物にに驚いて声を上げそうになった。
欲見れば昨日のスーツのままの副社長が床に転がっていた。
そして、昨夜とは違う散らかったその場所に、泥棒でも入ったのかと思ってしまう。
テーブルの上には資料が散乱し、ノートパソコンは開いたままだった。
きっと仕事をしたまま、寝落ちしてしまったのだとは思うが、それにしても酷い。
音をたてるつもりはなかったが、踵を返そうとしたところでキッチンの角に小指をぶつけてつい声が漏れてしまった。
「しまった寝てた…」
口を咄嗟に抑えた私の後ろで、小さく呟くようなその声と動く気配がした。
起こしてしまったことに気づき、そっと謝罪しようと副社長の方へと身体を向けた。
「起こしてしまいましたね。申し訳ありません」
「いや、大丈夫だよ」
まだ寝ぼけているのか、あくびを噛み殺しながら副社長はクシャりと髪を崩すと小さく息を吐いた。
そして何かを捜している。
「どうされました?」
何をしているかわからず問いかければ、やっと机の上から眼鏡を見つけそれをかける。
え? 額の上に載ってるのも眼鏡……そう思うも、満足そうにその眼鏡をかけた彼に、私は驚きすぎて何も言えない。
突っ込みどころがありすぎる。
特に何を話していいかわからないが、このままリビングを出られる雰囲気ではなく私は立ちすくんでいた。
ようやく少し覚醒してきたのか、副社長は首をくるりと回すと私をみた。
その雰囲気は昨日までのとげとげしさはなく、柔らかな雰囲気、いや、これはむしろポンコツ?
おたおたとする彼に私はもはや何も突っ込めなかった。
「体調は? よく眠れた?」
意外なその言葉に、私は小さく頷いた。
そんな私に、副社長は何と柔らかな笑顔を見せた。
驚いている私をよそに、彼は眼鏡を二つしたまま立ち上がる。
「よかった。何か飲むなら冷蔵庫の中を勝手に見て。コーヒーはきっと棚にあるんだろうけどわからないな。朝食らしいものはあるわけないし」
ぼやくように言うと、副社長は立ち上がった。
だれこの人?
会社であったときはもちろん、昨日の夜よりも気の抜けたような表情の副社長に唖然としてしまう。
その勢いで私も言葉を発した。
「いつも食事はどうされているんですか?」
そんな私の問いにも、気を悪くした様子もないようで副社長は少し考えるような表情を浮かべた。
「あまり家でまで人と会いたくなくて、仕事の時間に掃除だけしてもらってたけど、やたら俺が帰るまで待っていたりして、ついこの間辞めてもらったんだよね」
そうはいつが、このギャップに嫌気がさしたのではないか。そんなことすら頭を過る。
言葉使いまで違うし、ぼんやりとしたまま言葉を発する副社長はもはや別人だ。
「朝食を食べたいなら、このレジデンスの地下にスーパーもコンビニもあるから好きにしていいよ。鍵は玄関にあるから。俺はシャワーを浴びてくる」
気だるそうに言いながら、すでに服を脱ぎ始めた副社長に私は慌てて視線を逸らす。
「あの、その話し方が素ですか……?」
呟くように聞いたところで、副社長はハッとしたように動きを止めた。
「やばい」
小さく呟いた後、副社長はクシャりと髪を乱した。
「寝起きで気が緩んだな……」
「そうなんですか?」
静かに伺うように聞いた私に、副社長はジッと私を見ると小さく息を吐いた。
「今更隠せないな。また後で説明するよ。あと、服をクリーニングに出すなら……」
後で説明してくれるというのなら、今聞くべきではないだろう。そう思い私は用件だけを言葉にする。
「クリーニングですか?」
あんな安物をクリーングする必要はもちろんない。
「そう」
しかし、なんの疑問もなさそうな副社長は、真っ黒のクリーニングと英語で書かれた袋を手に戻ってきた。
きっとこのマンションにはこのサービスがあるのだろう。クリーニングを入れるというよりは高級ショッピングバッグのような袋だった。
「あの……。このお宅には洗濯機はないんですか?」
すぐに帰るつもりのため、別段昨日着ていた服を洗濯する必要はなかったが、一応聞いた私に副社長は少し考えるような表情をした。
どうしてたかが洗濯機の有無を聞かれて、考えることがあるのだろう。
そんなことを思っていると、副社長が手招きをする。
意味がわからずついていくと、そこは広い浴室で目の前には二人が余裕で使える洗面台があった。
その横にあったのは、まぎれもなく高級そうな茶色のドラム式の洗濯機だった。
「あるじゃないですか」
こんな立派な洗濯機があるのなら、クリーニングなんて必要ないそう思っていると副社長が声を発した。
「いや、一度も使ったことがないから使えるかがわからない」
「一度も?」
その言葉を理解できずに私は副社長を仰ぎ見た。
「全部クリーニングに任せてて……」
私の問いに、意外な言葉が降ってきた。
「では家政婦さんは何をしていたんですか?」
問いたくなるのも当然だろう。食い入るように聞いた私に副社長は少し考えた後、「掃除?」と答えた。
最後が疑問形なのが怪しい所だ。
「食事の支度は?」
「一度だけ作って待っていたことがあったんだけど、やたら見てきて話しかけてきて、食べづらかったから断ったよ」
どういうところに依頼していたのかわからないが、若い女性だったのだろう。その光景が目に浮かぶ気がして、私は小さくため息を吐いた。
「私の服にクリーニングは結構ですので、洗濯機をお借りしていいですか?」
私の言葉が意外だったのが、副社長が目を丸くしたあと頷いた。
「じゃあ、俺のも頼んでいい?」
そう言うと、私の目の前でポイポイと服を脱ぎ始めた。何も考えず無意識に行っている様子の副社長に私は声を上げた。
「やめてください! 洗いますから、今脱がないでください!」
一瞬考えるような表情をした後、副社長はクスリと笑うとシャツを脱ぎ捨てて私に手渡す。
「残りは洗濯機に入れておいてください!」
受け取ったシャツを洗濯機に入れ、叫ぶように言うと、私はその場から走って逃げた。
本当に調子が狂う。
昨日とはまったく違う副社長に困惑しかない私は、廊下へとでると壁にもたれて大きく息を吐いた。
さあ、今からどうしよう。
お願い事があるような話をしていたが、それを受ける受けないに関係なく恩は返さなければ。
このまま逃げるように帰る訳にはいかないし、あの場所に帰るのも気が進まない。
私は、そう思いつつ一応言われ通り冷蔵庫の中を確認するも、見事に飲み物しか入っていない。
私はカバンを手にすると、シャワーの音が聞こえる廊下を通り玄関を出た。