バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第一話

なによ。意味がわからない。
あの場から感情に任せて逃げるように出てきてしまった私は、そのままの勢いで電車に乗り込んだ。

電車の窓から見える景色を見ながら、小さくため息を付く。
どうしよう。早く仕事見つけなきゃ。バイト先もTAコーポレーションだし首かな……。

いくら腹が立ったからと言って、仕事先の副社長にあの態度はなかったのかもしれない。
寛貴の為に我慢すべきだったのか……。

そんなことを今更思ったところで、もう遅いだろう。

しかし西村室長の言葉を思い出す。婚約者がどうとかまったく仕事とは関係がないような話だったし、副社長自身は、私がいることに驚いているような気さえした。

いくら考えてもわかるわけもなく、どんどん気持ちは憂鬱になっていく。

夕飯もまだだったが、食べる気さえしない。ため息を付きたいのをなんとか抑えると、私はトボトボと家までの道を歩き出した。

古い鉄製の階段をカンカンと音を立てて登りながら、バッグの中の鍵を探す。
その時だった。何かの気配を感じて顔を上げた。

頭の中は明日からのどうなるのだろう、そればかりで考え事をしていたのがよくなかった。
二階の隣の家のドアが開いていることに、全く気付いていなかった。

「きゃあ!」

いきなり掴まれた腕のすごい力に、私は叫び声を上げた。
なんとか、部屋に引っ張られるのを避けたくて、私はおもいきり外へと腕を振る。
それと同時に狭い廊下に、隣の男も現れた。前の印象通り髪は長くて初めて見た瞳はギロリとしていた。

「い……や……」
ものすごい力で、家の中に引きずり込まれそうになり、私は恐怖で涙が浮かぶ。

「その涙もいいね」

もはや普通の精神状態ではなさそうなその人に、恐怖で動けない。

「何をやってる!」
もうダメ、そう思った時だった。いきなり肩を抱き寄せられ力強い腕に抱き寄せられた。

「西村! 警察!」
その声に目の前の男はガタガタと震えて、「ああ……俺の女神が……」そんなセリフと共に座り込んだ。

「あ……」
いきなり現れた目の前の人にも、何も言葉が出ない。

「大丈夫か?」
そこには本当に心配をしてくれているように見える瞳があり、私は小さく頷いた。

「どう……して?」
「とりあえず車に行こう」
まだ恐怖で震える私をエスコートするように副社長は、ゆっくりと肩を抱いたまま階段を降りる。

そこにはこのおんぼろアパートには似つかわしくない、高級車が止まっていた。
制服姿の運転手さんらしき人が、後部座席の扉を開けてくれる。

「乗って」
さっきあんな担架を切ってしまった私だったが、今はこの人の厚意に頼るしかない。
押されるように乗り込み、小さく息を吐く。

「申し訳ありません……。ご迷惑を」
少し落ち着いた私は、小さく頭を下げると副社長は柔らかな笑顔を見せた。
初めて見たその笑顔に私は驚いて、ジッと見つめてしまっていた。
そんな自分に気づいて恥ずかしくなり、慌てて俯いた。


「話をしたくて来てみてよかった」
迷惑をかけてしまったにもかかわらず、そう言ってくれた副社長に私はまたこの人が解らなくなる。
さっきまであの男に触られて嫌悪感しかなかったが、隣にいる副社長にはそれを感じない。

むしろ、ホッと安堵している自分に驚いた。

その後、迅速に西村室長が対応をしてくれたようで、警察官からニ三質問を受ける。

「後は任せていいか?」
副社長の言葉に、近くにいた西村室長は仕方がないと言った様子で小さく手を振り警察官の方へとある言って行っててしまった。

「あの、お任せしていいんですか?」
そんな西村副社長に申し訳なくて、私は副社長に声を掛ける。

「ああ、後は君はいなくて大丈夫だろう」

そう言って当たり前のように私を車に乗せようとする副社長に、私は慌てて声を掛けた。

「どこへ?」

「ここにいられるのか?」
副社長は真っすぐに私を見ると、返事を待っているようだった。
今ここはさっきの騒ぎで大家さんや、近所の人、パトーカーなどがまだいて騒然としている。
そしれ私は渦中に人間であり、好奇の目もあるだろう。
それに正直、さっきの記憶が生々しくてここにはいたくなかった。


「すみません……」
呟くように言った私に、副社長は小さく息を吐くと運転手さんへと声を掛ける。
「出して」

音もなく車は走り出した。そんなときバッグからスマホが音を立てる。
この時間ならばきっと寛貴だろう。
でないと何かあったかと心配するだろうか。さっき仕事が終わったとメッセージは送ってある。

どうしようと、スマホをとりあえずバッグから取り出す。
「出て大丈夫だ」
隣から今までより、幾分優しそうな声が聞こえて、私は「ありがとうございます」というと、キュッと意識を変えるといつも通りを意識してスマホをタッチした。

いつも通りの弟との会話をして、最後のセリフを伝える。

「お姉ちゃんは大丈夫だから。寛貴は頑張って勉強しなさい」
それだけを言って、電話を切る。

車内が静寂に包まれて、私は居心地が悪くて副社長にお詫びの言葉を述べる。

「すみませんでした」
「弟?」
当たり前の質問だろう。こんなときに無理に明るい声を出して、今あったことも秘密にすれば何か思うのは当たり前だ。

「はい……。弟には心配を掛けたくなくて……」

「そうか」
何かを言われるかと思ったが、それ以上何も言うことなく副社長は窓の外に視線を向けた。

「あの、わざわざお越しいただいたということは、まだお話があったんですよね?」
「ああ……」
副社長は肯定はしたものの、少し考えるような表情をした後、私をジッと見据えた。

それからの言葉を待っていた私だったが、いつのまにか見慣れた場所に車が走っていた。
会社で話すのだろうと、思っていた私だったが車はオフィス等には行かず、隣のレジデンスのエントランスで止まった。

「降りて」
訳が分からないが、とりあえず言われるがまま車を降りると、緑の木々が生い茂り、ここが都心と忘れそうなほどだった。まるで避暑地の高級リゾートホテルを思わせるようなその外観に私は唖然とする。

もちろんここに高級レジデンスがあることは知ってはいたが、こんなにも立派なだと思っていなかった。

コンシェルジュのきれいな女性が笑顔を向けてくれる中、慣れた様子で副社長はエレベーターに乗り込んだ。

そこで初めて副社長の自宅に行くことがわかる。
さすがにそれは……。そう思い私は足を止めた。

「どうした?」
クルリとエレベーターの中から問いかけられて、私は小さく言葉を発する。

「お話でしたらそこで結構です」
ラウンジスペースがあり、そこを私は指をさした。

「警戒してるのか?」
「え?」
俯いていた私は、その意外な言葉に顔を上げるとあっという間に腕を引かれ、エレベーターに乗り込んでいた。

驚いて目を見開いた私は、ダークグレイの綺麗な瞳とぶつかる。

「さっきあんなことがあったんだ。何もしない。約束する」
真摯に言われた言葉をなぜか信じていいような気がしてしまった。

なぜか今までとは違う、副社長の少し揺らいだ瞳に吸い込まれるような気がした。

「わかりました……」
それだけを言うと、私は大人しくエレベーターの階数表示を見つめていた。

しおり