バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第四話

その日は夕方まで引継ぎの連絡を書き記し、なんとか仕事を終えると、約束の18時に送れないように会社を出て、TAコーポレーションの本社に向かう。

送られてきた場所は、バイト先と近くだったため行きなれていたことに安堵する。

それにしても何度考えてもよくわからない。

仕事だとしてもこんなに急に……。それに学歴も職歴もない私がどうしてあんな大企業に。ますます不安になって行く。

駅を出るといつもとは違い、ビレッジ内のオフィスビルへと向かう。「膳」が入っているテナントの横に建っているのだが、60階ぐらいあるのだろうその高層ビルを私は見上げた。

初めて足を踏み入れたビルのエントランスは、吹き抜けになっていて三階ぐらいの高さがあるかもしれない。開放感があるその場所は、ブラウンを基調とした重厚感のある内装が目を引いた。

まるで高級ホテルのようなフリースペースもあり、そこで待ち合わせをしている人や、仕事をしている人もいる。

そのどの人もビシっとスーツを着て、いかにも出来る人に見えた。

いきなり言われたこともあり、完全にいつも通りのカジュアルな服装の私は場違いだ。

このかなり強引な指示に、少しの苛立ちと居心地の悪さを感じつつ指定された48階へと向かうエレベーターを探してキョロキョロと周りを見渡した。

「住吉さんですか?」
そんな時、不意に後ろから聞こえた声に、私は驚いてその方を見た。

「はい」
咄嗟に返事をすれば、エントランスで見た人たちよりもさらにオーラのある一人の男性が立っていた。
真っ黒な黒髪はきちんとセットされていて、知的なシルバーフレームのメガネ、スリーピースの濃紺のスーツを完璧に着こなしている。

180cm近くある身長とメガネの奥の冷たい印象を受ける瞳は、真っすぐに私を見ていた。

昔、よく父親の仕事の関係で、それなりの立場の人に会う機会も多くあったが、かなり洗練されているように見える。

そして、この人の私を見る視線は好意的な物ではない様な気がした。

キュッと握りしめると、私は気を引き締めるように背筋を伸ばした。

「こちらへ」
ただそれだけを言われ、私は「あの」と声を発した。

「なにか?」
冷たく向けられた視線に内心バクバクと心臓が音を立てるが、誰かもわからない人に着いては行きたくない。

「私はどうしてこちらに呼ばれたのですか? それにあなたはどなたでしょう」
私の問いに少し驚いた表情を浮かべたその人だったが、小さく息を吐くと胸ポケットから名刺入れを取り出す。

「申し遅れました。私はTAコーポレーション秘書室長の西村正臣と言います」
そう言いながら、慣れた動作で私に名刺を差し出す。

「頂戴します」
小さく会釈をしてそれを受け取れば、秘書室長兼、副社長秘書そう書かれていた。

やはり昨日の副社長が絡んでいることがわかり、私は一気に緊張は高まる。

それにこの人からは好意的な印象は受けないだけに、ますます私の頭の中は疑問だらけだ。

それ以上何かを問うような雰囲気ではなく、私は西村と名乗ったその人の後ろを着いていく。

オフィス専用エレベーターの高層階用のボタンが光り、すぐに音もなくエレベーターのドアが開いた。

「どうぞ」

エレベーター内の二人きりの無言の時間はかなり長く感じる。エレベーターに表示される数字が48を示すと、目の前には重厚なカーペットの引かれたフロアが目の前に広がる。

その目の前には木目のシックな受付があったが、もう時間外なのだろう誰もいなかった。

「役員フロアです」
西村室長はそれだけを言うと、受付の女性に一言二言言葉をかけ私を見ることなく歩いて行く。

まるで高級ホテルのような廊下を抜け、いくつかある扉の前で止まると静かに室長が扉を開ける。

大きな茶色色の重厚感のある扉は、かなり威圧的で私はゴクリと唾液を飲み込んだ。

緊張しつつ中へ入ると、そこは誰もおらずホッとする。
そのことが分かったのか、西村室長がチラリと私に視線を向けた。


「ここは秘書の部屋になります」
「はい」
説明されたものの、どう答えていいかわからずとりあえず返事だけしておく。


「副社長はこちらです」
「あの、どうしていきなり副社長なんですか?」

少しぐらい心構えをさせて欲しくて、私は西村室長を引き留めるように後ろから声を掛けた。

そこではっきりとしたため息が聞こえ、クルリと向きを変えると西村室長は私を見た。

「どうしてと私に言われても困ります。私だっていきなりこんなことになって迷惑しているんです」
はっきりと迷惑と言葉にされ、私は急激に帰りたい気持ちが沸き上がる。

あの暴君のような副社長に、この冷徹な秘書。そんな環境に放り込まれるぐらいなら、他にも派遣の仕事はあるはずだ。

「それであれば、私はここで失礼……」

「おい」
その時、かなり低い怒気を含んだ声が聞こえて、私はビクリと肩を揺らした。
もう一つあった扉がいつの間にか開いており、そこには昨日見たままの副社長がいた。

表情は険しく、見える訳もないがこのあたりの空気が数度下がったのではないかと思うほど、ピリッとした緊張が走る。

「西村、これはどういうことだ?」
「どうとは……」
副社長の冷たい感情のない言葉に西村室長は表所を曇らせた。

そのまま二人は睨みあうようにお互いを見ていた。その間私はいたたまれなくて、どうしてこんなことになったのかわからず泣きたくなる。

どれぐらい無言の時間だったのだろう。きっとほんの数秒だろうが、とても長く感じて背中に冷たい汗が流れ落ちるのがわかった。


「申し訳ありませんでした」
静かに言葉を発したのは西村室長で、諦めたように首を振った。


「とりあえずこっちへ」
副社長の声はさっきよりは普通の声音だったが、私は訳がわからずそこから動けなかった。

「あの、どうして私がこのような場所に……」
なんとか声を発した私を、副社長はジッと見据える。その視線はもはや拒否できるようなものではなく、私は諦めて足を踏み出した。

昨日の最後、少しだけいい人かもしれない。そう思ったことなどどこかへと消え去った。
感情があるのだろうか? そんなことを思うほど冷たく冷酷な雰囲気に私はごくりと唾液を飲み込む。

扉を入ると、大きな窓の向こうには夜景が見え、開放感のある白を基調とした部屋はとても明るい印象を受けた。

立派な応接セットに、その向こうには大きなデスク。
いかにも大手企業の役員室と言った部屋だった。その真ん中の立派なチェアーに座り腕を組む副社長の存在感に私は圧倒された。

こういう人が成功者であり、上に立つ人なのだろう。確か今の社長、会長は、お父様とおじい様のはずだ。
持って生まれたカリスマ性はにじみ出るのかもしれない。

「今日は何のためにここに来るように言われた?」
さっきと変わらない冷たい声に、私はうまく言葉が出ない。

「どうなんだ」
もう一度確認するように言われ、私はもはや泣きたくなる。
「よくわかりません。とりあえずここに来て話を聞くようにと」
なんとか言葉を返すも、自分でもわかるほど言葉が震えているのがわかった。

私も何がなんだかわからない。とりあえずここに来るぐらいしか聞いていない。

私の言葉に副社長は小さく息を吐いて、西村室長を見た。

「どういうことだ?」
ため息交じりに言った副社長に、先ほどまで無表情だった西村室長が表情を歪ませた。

「俺は言われたことをしただけだ。もとはお前が言ったセリフのせいだろ?この女が婚約者だって」
先ほどまでとは打って変わった物言いに、私は呆然と西村室長を見た。
それに今なにかとんでもない言葉が聞こえた気がする。

そんな西村室長に、副社長はものすごく鋭い視線を向ける。
一瞬で息が止まりそうなほどのその眼光に、自分に向けられたわけではないが、身がすくむような気がした。
「申し訳ありません」
慌てたように西村室長が言うと、副社長は静かに私に視線を向けた。

蛇に睨まれた蛙。
そんなことことが頭をよぎる。

静まり返った部屋に、私はもはや何が何だかわからない。
しかし、いくら怖い人たちだろうが、もう二度と会わないのであれば、言いたいことをいって逃げるぐらいは私だってできる。

「あの、全くお話は分かりませんが、私は婚約者なんてものになりたくありません。仕事の話でなければ失礼してよろしいですか?」

 
「え?」
驚いたように言葉を発したのは、西村室長で私の方をジッと見た。

「君が故意に副社長に近づいたんだろ?」

はあ? 
明らかに軽蔑の色を含んだその物言いに、私は今まで我慢していたものがプツンと音を立てた気がした。

「私はそんなものは興味がありません。ただ普通に仕事をしただけです。もう結構です。契約でもなんでも切っていただいて! まったくなんなの? そんなにあなたたちは偉いの?」

私は息を切らしながら言いたいことだけを言うとクルリと踵を返した。

副社長のことは怖くてることができなかったが、とりあえず言い逃げをする。
一生懸命弟と二人で生きてきた。確かに普通以下の人間かもしれないが蔑まれる理由などない。

「おい! 待て!」

「今日は待ちません!」
私は勇気を出してキッと副社長を睨みつけると、そのままカバンを持って逃げるように副社長室を後にした。




しおり