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第三話

片付けも終わり、店を後にしようとしたところで香織さんに呼び止められる。
「結衣ちゃん、お疲れ様。今日はありがとう」
「おつかれさまです」
笑顔の香織さんに、私もホッとしつつ頭を下げた。
「今日は助かったわ。いきなりのことで対応できなくてみんな困っていたのよ」
「いえ、お役に立てたなら良かったです」
恐縮しつつ言った私に、香織さんは紙袋を渡してくれる。
中を見れば「膳」特製の幕の弁当だ。隣接している百貨店でも売られている人気商品だ。
「お家に帰って食べて」
「いいんですか?」
つい嬉しくなり今日は贅沢にビールを買っていこうかなと考える。
「お疲れさま」
香織さんの言葉に、私も小さくお辞儀をすると店を後にした。


私の家は都心から40分程離れた、1Kの古い小さなアパートだ。
セキュリティも良くないし、建付けも悪いその建物の階段をギシギシと音を立てながら上がる。

二階にしたのはせめてもの防犯のつもりだ。

昔ながらの鍵を開けて小さな自分の部屋に入ると、また隣から薄い壁を叩く音がする。
本当にやめて欲しい。そう思いながら小さくため息を吐く。

もう少しマシなところに住みたいところだが、せっかく支持したい教授がいる大学に受かった寛貴には勉強に専念してほしい。
まだ大学も続くため、出来る限り節約したいというのが本音だ。

隣に住む人は何度が顔を合わせたことがあるが、年齢不詳の男の人だ。
きっとそんなに年はいってはいないと思うが、髪で顔が隠れていてよくわからない。

誰かと住んでいる様子もないし、必ず私が帰ってきてすぐこの音がする。正直かなり不安だし怖い。

そんなときスマホが音を立てる。
「もしもし」

『姉貴? 元気?』
聴きなれた声に私はホッとしつつ、明るい声を心がける。

「もちろんよ。寛貴も元気?」

『ああ、今日はさ』
今日あったことを楽し気に話す寛貴に私も嬉しくなる。ひとしきりお互いの話をした後、寛貴が言葉を止めた。

『なあ、姉貴本当に大丈夫?』
「大丈夫よ」
電話の最後にいつも聞くこの言葉に、私はいつも通りの返事をする。

『本当に俺の為に無理してない? 俺は本当にやめて働いていいんだぞ』
大学進学のときも、寛貴と私はさんざん喧嘩をした。
大学に行かないという寛貴をなんとか説得したのだ。ここでやめてもらっては意味がない。

「ねえ、毎回この会話無意味でしょ? あんたは勉強をしっかりしなさい。アルバイトもそこそにしなさいよ」
『ああ、でも困ったことがあったら絶対言えよ』

これもいつも通りの言葉だ。二人で生きてきたせいもあり、寛貴はかなり心配性だ。
今のこの現状を言おうものなら、今すぐにでも帰ってきそうだ。

電話を切っても、なんとなく聞こえてくる壁越しの音に私はカーテンをもう一度きっちりと閉めると、少し大きめにテレビをつけた。

これぐらい何ともない。私は大丈夫。
自分でそう思いながら、なんとか気分を上げつついただいたお弁当を小さなテーブルに広げた。

翌朝、あまり食欲もなく、オレンジジュースを胃に流し込み、少し眠たい目をこすりながら仕事へと向かった。

「おはようございます」
いつも通りの朝、小さな事務所に足を踏み入れると慌てたように社長が立ち上がった。

「住吉さん!」
「え? はい!」
まさかいきなり朝から声を掛けられると思っていなかった私は驚いて一歩後ずさる。

「君、どういうこと?」
かなりの圧を掛けて言われるその雰囲気から、どうやらいい話ではないのはすぐに分かった。

「なんのことでしょう?」
ゴクリと唾液を飲み込むと、私は社長の言葉を待つ。もしかして副業がバレた? そんなことが頭をよぎった。

「派遣会社から一方的に君の解除の話が来た」
「え?」
予想外の言葉に私はポカンとした表情をしたのだろう。50歳になったばかりの少し髪が薄くなった社長は困ったように表情を歪める。

「急に困るんだよ。こっちだって引継ぎとかあるだろ?」
それはそうだろう。派遣の事務だがいきなりいなくなれば支障はでるはずだ。

ただ、どうしてそんな話になってしまったのか……。
まったく思い当たることのない私は、どう答えていいのかわかない。
それに、いきなり仕事がなくなるなんて私こそ困る。

社長がこう言っているのだから、私に何か問題があるわけでもなさそうだ。
それなのにどうして私の仕事がなくなってしまうのだろう。


「すぐに確認します」
それだけを言うと、私はクルリと踵を返してデスクに戻るとスマホを探す。
派遣会社に電話をしなければ、そう思いながらスマホをタップすれば何件もの着信があった。

なぜか消音になっていたことに唖然としつつ、着信履歴を確認すれば予想通り派遣会社からだった。

そっと廊下にでて小さな休憩室に誰もいないことを確認すると、電話をかけた。

『もしもし』
いつもなら何コールか待つのだが、今日はワンコールしたかわからないぐらいすぐに声が聞こえた。

「あの、」
『よかった、繋がって! どこから説明すればいいのかしら」

要件を言おうとしたのも遮られ、担当の松永さんは慌てたように言葉を発した。

「私、何かしてしまいましたか?」
話し始めたものの、電話の向こうで思案していそうな松永さんに、私は恐る恐る口を開く。
今、無職になってしまうのは避けたいし、何かしでかした覚えもない。

『親会社からすぐに住吉さんを派遣してほしいって連絡があったのよ』

「え?」
意外な言葉に私はポカンとしてしまう。親会社? 

大学を辞めたばかりの頃、ネット検索ですぐに出てきた派遣サイトに登録したのだが、その会社に親会社が存在していたことを今更知る。

『住吉さん、何かしたの?』
「いえ、思い当たることがないんですが……」
まさか、バイトのことがバレてしまったのだろうか? そうは思うもクビになるのならともかく、新しい派遣先に急遽行くなど考えにくい。

『TAコーポレーションの仕事みたいなんだけど』
その言葉に、私は息を呑む。

「親会社ってTAコーポレーションなんですか?!」
『ええ、知らなかった? うちはTAグループなのよ?」
私の驚いた声に、さっきまで慌てていた松永さんは冷静を取り戻したようだった。

「知らなかったです……」

TAコーポレーションと言われれば、思い当たることは一つだけだ。
昨日のことだろう。

「しかし、ここの仕事の引継ぎもありますし、社長もどういう事だって怒ってらっしゃって」
私の言葉に、松永さんは大きなため息を付いた。

『当たり前よね。契約違反だもの。とりあえず私も向こうの人事にそういったのだけど、一度今日仕事終わりでいいからTAコーポレーションに来て欲しいそうなの」

なんて急な話だろう。
そうは思うも、この強引さはもしかして昨日の副社長が関係しているのだろうか。
少しだけそう思うも、まさかそんな雲の上の人が私などを……。
いろいろなことが頭をよぎる。

『住吉さんには迷惑をかけてるのは百も承知なんだけど、親会社からの話で私も断れなくて……」
色々しがらみもあるのだろう。松永さんだって好きで言っているわけでもないのがわかる。

「わかりました」
『本当。ありがとう』
私の言葉に松永さんがホっとしたのわかった。

『それじゃあ、行く場所とかメールします。あと社長の方には私から連絡を入れてすぐに新しい人材を派遣するわね』

すでに私に決定権がなくなっている様な気がしてため息が漏れる。

どうしてこんことになっているのか、全くわからない。
とりあえず私は行くしかないのだろ悟り、大きく息を吐いた後社長のもとへと戻った。

社長は電話をしているようで、私は少し離れた場所で待っていた。

「わかりました」その言葉で受話器を置いた社長に、手招きをされる。

「申し訳ありません。私も何がなんだかわからないのですが……」
小さく頭を下げた私に、社長は先ほどとは変わり笑顔だった。


「いや、今説明を受けたし、いい条件でいい人材を派遣してくれるという事だったから大丈夫だろう」
その言葉に私は驚いて顔を上げた。

どういう話かは分からないが、社長が納得いく条件を上げてまで私は派遣先を変えなければならないようだ。
そして何の仕事かもわからない。

何もかも全く分からないこの状況だが、なぜか嫌な予感がしてならなかった。

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