湯けむりと貴方とわたし。 後編
****
その後、わたしは乾かしてもらった髪をもう一度ヘアクリップで結い上げ、あとは夕食が運ばれてくるのを待つだけとなった。
「――篠沢様、失礼いたします。 お食事をお持ちいたしました!」
部屋の引き戸が少し開けられ、お料理を載せたお盆を傍らに置いた仲居さんが、両手をついてわたしたちに呼びかけた。
「ありがとうございます。――わぁ、すごく豪華! 美味しそう!」
次から次へと運ばれ、座卓の上に並べられていくお料理は種類が多く、どれも豪勢で食欲をそそる。特に、魚介類がすごく新鮮だ。
「さ、食べよう! いただきま~す♪」
「いただきます。……で、どれから箸をつけようかな。迷っちゃいますね」
貢は箸を持って、お料理の数々に視線をさまよわせる。わたしも同じように迷った。
新鮮な鯛の姿造りにお刺身の盛り合わせ、川元さんは「旬じゃない」と言っていた三年トラフグの〝てっさ〟に、明石だこを使った炊き込みご飯、淡路牛の小鍋……などなど。確か二人分のはずだけれど、こんなにたくさん食べ切れるかしら?
……ともかく、お腹がペコペコだったわたしは、まず鯛の姿造りに箸をつけた。
これが動いていない鯛でよかった。活造りだったらどうしようかと思った。
「…………ん! この鯛美味しい! 身がプリプリ♪」
「三年トラフグも美味しいですよ。実は僕、フグ食べたの初めてで」
お料理はどれもほっぺたが落ちるほど美味しくて、ついつい箸が止まらなくなった。
そして気がついたら、わたしたちは全部平らげてしまっていた。
「はぁ~~、幸せ~~♪ もう入らない……」
「そりゃあそうでしょうよ。……それにしても、すごい食欲でしたね」
「うん……、自分でもそう思う」
そういえば、わたしたちは昨日から美味しいものを食べまくっている。今日一日だけでも相当な量を食べた気がする。
「この旅行が終わった頃には、わたしブクブクに太っちゃってるかもよ? ……貢、お願いだからキライにならないでね?」
わたしがいちばん怖いのは、彼に嫌われること。彼がどんなわたしでも受け入れてくれることを願いたいけど……。
「もちろんですよ、絢乃さん。僕はたとえあなたが太っても、全財産を失ったとしても、あなたを絶対にキライになったりなんかしません」
彼の言葉はとても力強くて頼もしい。そして何より、その真っすぐな眼差しから、彼の言葉にウソも偽りもないことがハッキリ分かった。
「貢……、ありがとう! 大好きよ!」
わたしは多分、彼とは一生離れられないな……。だって、もうこんなにも彼のことを好きになっちゃっているんだもの!
****
「――さてと。まだまだ寝るには早いですよね。絢乃さん、どうやって時間潰します?」
お腹もいっぱいになり、ヒマを持て余していたわたしたち。時刻は夜八時前、夜はまだまだ長い。
「売店までお土産でも見に行きますか? 散歩がてら」
「それは明日の朝でもいいじゃない。今日はもう部屋から出たくない……」
わたしは畳の上に寝転がっていた。我が家には和室がないので、畳のヒンヤリとした感じの心地よさを憶えてしまったら、もう動く気力が起きない。
「このホテル、ティーラウンジもあるらしいんですけど。もうさすがに入りませんよね……」
「うん」
「でも、この部屋で……ってどうやって過ごすんですか?」
「よくぞ訊いてくれました☆ わたし、ちゃぁんと準備してあるのよ。――じゃじゃーん♪」
わたしがスーツケースから取り出したものに、貢は口をあんぐり開けた。
「じゃじゃーん、ってオセロですか!? どんだけ準備いいんですか絢乃さん!」
「用意周到と言ってくれたまえ、貢くん」
ふふんと笑いながら、わたしは折りたたみ式のオセロ盤を座卓の上に広げた。ちなみにマグネット式で、駒が散らからないようになっているのだ。
「さ、始めるよわよ。貢は先攻と後攻、どっちがいい?」
「……じゃあ、後攻で」
こうして、わたしVS貢のオセロ対決が始まった。
初めて対戦してみて分かったけれど、彼はオセロが弱い。それも、決してわたしに忖度して劣勢になっているわけではなく、本気で戦ってこのていたらく。
「う~~~~ん、じゃあ……ここか。よし、勝てる!」
終盤になり、彼の白い駒がほんの少しだけ逆転して、貢は勝利を確信したけど。
「あっそ。じゃあこっち。ハイ逆転っと」
「あーーーーっ!? マジか……」
わたしは角を押さえ、駒は見事に真っ黒にひっくり返った。
結果、わたしが三十個以上の大差で圧勝。貢は惨敗に終わった。
「やったー、わたしの勝ちーー!! 貢、スキだらけなんだもん」
「くぅ……っ、負けた……。絢乃さん、もう一回やりましょう、もう一回!」
「いいよ。多分、次もわたしが勝つでしょうけど♪」
こうして、わたしたちのオセロ対決は述べ一時間にも及んだけど、貢は一回もわたしに勝てなかった。
「貢……、もう降参したら?」
「…………はい、そうですね……。もうやめます……」
彼は負け続けたのが相当悔しかったのか、もう泣きそうになっていた。
「オセロで一回も勝てなかったくらいで、そんなに落ち込まなくても……」
彼はこういうところが、まだ大人になりきれていない。子供っぽいというか。
時々、自分がこの人の母親になったような気がするのはそのせいかもしれない。ちょっと面倒くさいけど、放っておけないくらい愛おしくて。
「――ねえ貢、わたしね、この旅行でやっと貴方とホントの家族になれた気がするの」
「……え?」
わたしはオセロのボードを片付けた後、彼にしみじみと言った。
「だって家にはママも史子さんもいるし、二人っきりってわけじゃないでしょ? ホントに二人っきりになれたの、この新婚旅行が初めてじゃない?」
「あ……、そういえばそうですよね」
考えてみたら、結婚して早々婿としてあの大きな家に同居することになった彼は、相当肩身が狭いかもしれない。夫婦水入らずの時間だって、これから先どれくらい取れるかも分からない。
だからこそ、この旅行での時間はわたしたちにとってすごく貴重なのかもしれないと思う。
「僕は……、あなたと結婚できてホントによかったなって思ってます。あなたと触れ合うのに、誰にも負い目を感じなくて済むんで」
「え……。じゃあ、前は違ったの? たとえば、わたしと付き合い始める前……とか」
わたしの疑問に、彼ははっきりと頷いた。――そういえば、わたしのファーストキスを奪った時にも、彼はこの世の終わりみたいな顔をしていたっけ。
「……まあ、恋する気持ちだけはどうにもならないもんね。小川さんだって、だから苦しんでたわけだし」
彼女は父に対して、ヘタをすれば不倫になりかねない想いを抱いていたのだ。今は同期入社の前田さんという恋人(?)ができて、充実しているようだけれど。
「――さて。そろそろもう一回お風呂に入って、お布団敷いてもらおっか。昨夜は疲れて何もなしに寝ちゃったから……」
「…………ああ、ハイ」
わたしの示唆するところを察して、彼の顔が火を噴いたみたいに赤くなった。
****
――わたしたちは二日ぶりに、湯上りの火照った体で愛を確かめ合った。はだけた浴衣が、その行為を物語っている。
「……あ、雨降ってきましたね」
窓の外からは、梅雨らしい雨音が聞こえてくる。
「ホントだ。明日はやっぱり、雨の中をパワースポット巡りになりそうね」
わたしは貢の胸に寄りかかりながら、小さくため息をついた。
そして確信している。この旅行中に、わたしは間違いなく身ごもるだろうと。
「――ねえ、貢は子供、どっちがほしい? 男の子か女の子か」
「…………はい?」
彼は一瞬考えた後、笑顔で答えた。
「う~ん……、元気に生まれてきてくれたら、どちらでも嬉しいです。――絢乃さんは?」
「わたしもどっちが生まれてくれても嬉しいけど、やっぱり男の子かな。貴方にそっくりなね」
「どうしてですか?」
わたしは何となく、男の子がほしいなと思っていた。もちろん、女の子が生まれたからといって邪険に扱うようなこともしないけれど。
「二代続けて跡取り娘だったから、そろそろ跡取り息子ができてもいい頃かなーと思って。後を継ぐかどうかは本人の意思に委ねるけど」
きっと男の子が生まれてきたら、その子は父の生まれ変わりかもしれないな、とわたしにはそんな気がしていた。