神戸の初夜 後編
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二人で荷解きを終え、しばらく部屋に備え付けのTVを観たり、お義兄さまや里歩がスマホに送ってくれた結婚式の写真を眺めたりとしばらくゆっくりと過ごしてから、わたしはのんびり入浴を楽しんだ。
ウチのお風呂もすごいけれど、このホテルのバスルームも我が家に負けず劣らず広々していて快適だ。……ん? 違うか。我が家のお風呂が普通じゃないのかも。
「――貢、お風呂上がったよー。時間かかっちゃってゴメンね」
ルームウェアである真っ白なフレンチスリーブのコットンワンピースに袖を通し、バスタオルで濡れた髪を拭きながらベッドルームにいる貢に声をかけた。
まだ湯上りの体はホカホカ温かくて、ほのかに湯気を立てている。
「はい。……あ、よかったら今日は僕が髪乾かしましょうか?」
「えっ、いいの? ありがと。じゃあ……お願いしようかな」
こんなシチュエーション、家でも一度もなかった。旅先ってやっぱり人を大胆にさせるのかしら? わたしは素直に彼の厚意に甘えることにした。
彼は洗面台横のラックからドライヤーを持ってきて、コンセントに繋いだ。
「じゃあ乾かすんで、後ろ向いて下さい」
「はーい」
わたしの長い髪に温風を当てながら、
「わたしの髪、長いから乾かしにくいでしょ」
「そんなことないですよ。キレイなストレートヘアーなんで、長くても乾かしやすいです」
彼はすごく手際がよくて、まるでプロの美容師さんみたい。どうしてこんなに手慣れているんだろう?
「……もしかして貴方、昔美容師さんも目指してたことあった?」
でなければ、過去にお付き合いしていた女性の髪も乾かしていたか。……わたしとしては、そうでなければいいのにと思う。
でも、彼はバリスタになりたかったはずだけれど……。
「いえ。年の離れたイトコが……、父の弟にあたる叔父の娘なんですけど、小さい頃によく実家に泊まりに来てたんです。その時に、兄と交代でそのコの髪を乾かしてあげてたんで」
「へえ、そうなの。そのイトコの女の子って今いくつくらい?」
彼がウソをつけるような人じゃないことくらい、わたしはよく分かっている。だから、その話も絶対にウソじゃないと確信している。
「えーっと、絢乃さんの四つ下なんで……。今年で十五歳ですかね。さすがに、思春期になってからは泊まりに来なくなりましたけど。僕が女性の髪を乾かすのは、そのイトコ以来絢乃さんで二人目ですよ」
「それはそうよね。……貢のイトコ、可愛いんだろうなぁ。わたしも会ってみたいなぁ」
まだ見ぬ彼のイトコに思いを馳せつつ、わたしはドライヤーを動かす彼の手に身を任せた。
そして、自分がイトコ以外で彼に髪を乾かしてもらう初めての女性であることがすごく嬉しかった。
「――そういえば、絢乃さんっていつもいい香りしますよね。何の香りなんですか?」
うなじに何か生ぬるい空気を感じるなと思ったら、彼はわたしから香るいい匂いをクンクン嗅いでいたらしい。何だかワンコみたいで可愛いな。
わたしはクスッと笑ってから答える。
「これは多分、シャンプーとボディミルクの香りかしら。フローラル系でいい匂いでしょ」
「じゃあ、時々する柑橘系の香りは?」
「あれは、お気に入りのコロンの香りよ。十六歳の誕生日に、パパがプレゼントしてくれたの」
「お義父さまが……」
「うん。『お前はいずれ、公の場にでる身なんだから。香りにも気を遣わないといけないんだぞ』って。甘ったるい香りだと不快に思われることもあるから、フローラル系とか柑橘系の爽やかな香りの方がいいってね。それで、パーティーに出席する時とか、お出かけの時につけるようになったの。もちろん出社する時も、貴方とのデートの時にもね。さすがに学校へはつけて行けなかったんだけど。今じゃもうすっかりお気に入りになっちゃって、無くなったら自分で買いに行ってるのよ」
「そうなんですか……。じゃあ、あのコロンの香りもお義父さんとの大切な思い出なんですね」
「うん」
いつか彼に気づいてほしいと思って、父との思い出のコロンをつけていた。その想いは今日、彼にも伝わったみたい。
「――はい、終わりましたよ。じゃ、僕も入ってきますね」
「うん、ありがと。じゃあ……、貴方の髪はわたしが乾かしてあげるね」
「……えっ!?」
「だって、いつもやってもらってばっかりじゃ悪いもの。わたしだって、貴方に何かしてあげたいのよ。せっかく二人きりなんだし、いい機会なんだから思い切って甘えちゃいなさいって」
こういう言い方、なんか最近母に似てきたかな。そういえば母も、父が元気だった頃にはよくこうして父をやり込めていたっけ。
「…………。まぁ……、そこまでおっしゃるなら……ハイ」
どうやら彼を困らせてしまったみたい。何だか申し訳なくなって、彼がバスルームへ入ってしまうと、わたしはそちらに向かって小さく「ゴメンね」と謝った。
バスルームから水音が聞こえてくると、わたしは座り込んでいたベッドの上からストンと下りて夜景を臨む窓際へ歩み寄った。
ソファーに置いてあったバッグからスマホを取り出し、眼下に広がる神戸の夜景をカメラのレンズに収めていく。ステキな結婚式の写真を送ってくれた里歩や唯ちゃん、そしてお義兄さまに送ってあげようと思ったのだ。
撮影に夢中になっている間に、貢もお風呂から上がってきた。
彼はもうすっかり見慣れたグレーのスウェットに白いTシャツ姿で、わたしの時と同じようにバスタオルで髪を拭いていて、窓の外にスマホを向けているわたしに問いかけてきた。
「絢乃さん、お待たせしました。……あれ、何を撮ってたんですか?」
「ああ、ゴメン! 上がってたのね。――撮ってたのは神戸の夜景よ。すごくキレイだから、写メ撮って里歩とかお義兄さまに送ってあげようと思って」
いつもはあまり色気を感じない(……って言ったら彼が気にするから言わないけれど。貢ゴメン!)彼だけれど、湯上りというのは普段の五割増しで男女問わず魅力的に見えるらしい。そのせいなのか、わたしはいつもドキドキしてしまう。
「ほら、みんなわたしたちの結婚式の写真、スマホに送ってくれたでしょ? だからそのお礼に、と思って」
「なるほど、それはいい考えですね。でも、兄貴には僕から送っとくんで、絢乃さんからは送らなくてもいいですよ」
「なになに? まだお義兄さまに嫉妬してるの?」
彼のその口ぶりが何だかおかしくて、わたしがからかうと「そんなんじゃないですよ」と彼は真っ赤な顔で口を尖らせた。
「――はい、じゃあ髪乾かすからベッドに腰かけて、後ろ向いて」
わたしは彼をベッドのヘリに腰かけさせると、自分はベッドの上に座り込み、彼がしてくれたように彼の髪を乾かし始める。彼は座高が高いので、そうしないと体勢的に苦しいのだ。
彼の髪は短いので、すぐに乾いてしまった。
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「――わたしね、結婚してからも貴方のこと、どんどん好きになっていってる気がする。もう怖いくらいに」
明かりを消したベッドの中、初めて
もう夫婦になったんだし、という理由で、今夜から避妊ナシを解禁したのだ。高校も卒業してるんだから、妊娠しても何ら問題はないわけである(仕事に多少の支障は出るかもしれないけれど)。
「えっ? 何が怖いんですか?」
「貴方を嫌いになる日が来るのが、かな。それと、貴方に嫌われる日が来るのも」
「来ませんよ、そんな日なんか」
彼はクスっと笑い、わたしの髪を優しく撫でてくれた。そんな些細な仕草にさえ、わたしはキュンとなる。
「……そうだね。わたし、貢のこと信じてるから。だから貴方も、わたしのことこれからも信じてね」
「もちろんです、絢乃さん」
一時はこの恋の終わりも覚悟したけれど、そんな困難も乗り越えてわたしたちは夫婦になれた。この結びつきは何よりも強いはず。
「……じゃあ、もう寝よっか。明日のために」
「はい。おやすみなさい」
――こうして、わたしたちの新婚初夜は静かに更けていった。