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第八話

ゆっくりと中庭を歩いていくと、南国らしい鮮やかな花々が咲いた東屋があった。

セシリオは何も言わずに私を案内し、腰かけるように指示する。

「……悪かったな」
その前に跪かれて、いきなり謝られて、私は目を瞬かせた。

「何を謝っているんですの?」
「……勝手にアリッサとの結婚話を進めた」
困ったようにぐしゃりと、自らの髪を掻き上げる様子に小さく笑みが湧く。

「本当に。……本当にそうですわよ!」
思わず笑ってしまったことをごまかすように、声だけはとがらせて見せた。

結婚とかそんなこと全然予定になかったのに、今この状況では、少なくとも婚約しなければアルドラドに行くことを回避できない状態になっている。

いや婚約したところで回避できるかどうかもわからないのだけど。

これが乙女ゲームなら、クラウディオを選んでアルドラドに行くか、エドワードを選んでキサリエルに戻るか、セシリオを選んでマリー・エルドリアで暮らすことを選ぶか、そんな3つのルートが出現する分岐点がどこかにあったのかもしれない。

でも実際の流れはどこが分岐だったかなんて全く分からず、実際こんな展開になると、もう流れに乗ってしまっていて、引き返すところも見つからない。

「お前からしたら……こんな状態で、こんなことを言う俺のことも、卑怯だって思うかもしれないが……。俺にとってはチャンスだからな」

思わず考え込んでしまった私の手にセシリオはそっと触れた。

「……え?」
「俺はアリッサのことが、ずっと昔から大事だった。お転婆でわがままで、全然周りなんて見てないし、好き勝手ばっかりやっているけど」

告白とも思えない言葉の羅列なのに、次の瞬間、真摯な瞳でひたと私を見つめるから、咄嗟に何も言えなくなった。

「それでも、自由で前向きで、明るくて負けず嫌いで意外と優しい、今のありのままのお前が好きだ」
私の左手を取って、おしいだくようにして、そっと手のひらに口付ける。それは正式な結婚の申し込みの作法だ。

「……マリー・エルドリアは海の国だ。海の女神の異名を持つお前を守るためなら全ての力を結集する。だから……俺にお前を、一生守らせてくれ」

「あの……本気ですの?」

昔からよく知っているはずの彼の言葉と声に、ドキリと心臓が跳ねあがった。それはけして嫌な感覚ではなくて、トクトクと血流が流れ始めると、じんわりと胸が熱くなってくる。

「こんなこと、冗談でいうわけないだろう?」
私の手を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がると、彼は私を抱き寄せる。

ゆっくりとその顔が近づいてきて……。

きっと乙女ゲームなら、ここで選択肢が出る。けど……私はそんな余裕もなくて、彼の伏せた長いまつげに見とれてしまっていた。

一瞬彼は、そんな私に気付いたのか、そのまま近づくかどうか躊躇するような仕草をしたけれど。ふっと次の瞬間唇に笑みを浮かべると、そのまま逃げ出すタイミングを失った私の唇に自らのそれを重ねた。


***


「で。お前に何が起こっているんだ?」

熱っぽい結婚の申し込みから優しいキス。
と展開してから、もっと甘々になるかと思いきや、意外とセシリオは冷静だった。

「何がって……なんですの?」
思わず聞き返すと、彼はじっと私の瞳を覗き込んで、小さく吐息をつく。

「ここ数年会ってなかったとはいえ、なんで俺のことを思い出せなかったんだ? 俺だけじゃない、テオドアのことすら忘れていただろう。あんな近くで話をしていたのに……。それにマリアンヌのことも忘れていたんだろう? 俺も詳しくは知らないが、お前たちは結構仲良くしていたはずだぞ?」

彼の言葉に私は目を瞬かせる。私の記憶には、悪役令嬢として散々マリアンヌにいやがらせした記憶が残っている。それなのに、私とマリアンヌは元々仲が良かったのだとセシリオは言うのだ。

そこまで考えて不安になってきた。

どうしよう。私の記憶はやっぱり色々おかしくて、私はアリッサじゃなくて、名前を思い出せなくなっちゃったけれど、現代日本で干物女だった私で。

もしかしたら、私はセシリオの好きなアリッサではないかもしれない。
そもそも……私って誰なんだろう? 誰、だったんだろう?

「……アリッサ、顔色が悪いぞ?」
言われて思わず眉を顰めた。でも……これをいい加減にしたまま、婚約なんて出来ない。もしかしたらこの話をしたらセシリオはアリッサではないかもしれない私を拒否するかもしれない。だけど……。

「あの……私の話を聞いて頂けますか?」
ふっと言葉が零れた。真剣な顔で、彼は私の申し出を受け入れる。そして私は、私自身の記憶の話を始めた。


***


「……じゃあ、お前は、自分自身がアリッサかどうかよく分からない、というのか?」
セシリオは私の意味不明な話を辛抱強く、最後まで余計なことを言わずに、すべて聞いてくれた。

私は別の世界の住人で、そこでマリアンヌとしてこの世界を舞台にしたゲームに参加してたこと。
その話の中で、アリッサが悪役としてマリアンヌに、嫌がらせをたくさんしたこと。そして私がプレイヤーとして選択肢を選んだマリアンヌは、そんな逆境の中で、アルフリードとの結婚を決めて幸せになった事。

その後、ゲームの続きをしようとしたら、自分自身がアリッサになってこの世界にいたのだ。

そしてアリッサが今まで生きてきた記憶が自分の中にはあって、だけどところどころ大事なことが消えていることに気づいた。そのうえ何故か元いた世界の記憶が徐々に消え始めていると、そう、彼に全てを告げた。

「だから……私が本物のアリッサかどうかすらよくわからないんです……」
私の締めの言葉に彼はぎょっとしたような顔をして、それでもじっと私を見て彼は小さく頷いた。

「そのゲームとやらはよく分からないが、少なくとも俺は今のアリッサに違和感を感じてない。アリッサらしい行動を、アリッサらしい表情を浮かべて行い、アリッサが言いそうな言葉を話している。だからお前はアリッサで間違いないと思う」

こう見えても、お前とはそこそこ付き合いが長いしな。惚れた女が本物かどうかぐらいは分かる、と言って彼は笑う。
彼の笑顔を見ていたら、なんだかそれが真実だと信じられる気がして、少し動揺が落ち着いてきた。

「じゃあ、なんでこんなに私の記憶、飛び飛びなのかしら……」
私がポツリと呟くと、彼は首を傾げて私の顔を覗き込む。

「よくわからないが、アリッサはマリアンヌの危機を知ったら、何とかして助けようって思うんじゃないか? たとえ自分が悪役になったとしても……」

そう言うと、彼はふわり、と私の頭を撫でる。それはいつもと何一つ変わらなくて、私が不安でも、彼は私がアリッサであるという事に不安を持ってないように思えた。

「アリッサは、まっすぐだからな。正義感も強いし、融通も利かない。その悪役令嬢役は、行動力や性格的にはお前に似合いそうで、でもその実、全くお前らしくない。でも今の現実は、そのゲームとやらの行動の結果なんだろう?」
彼の言葉に私は頷く。

「だったら必要があって、その悪役令嬢をお前はやったって言われる方が納得しやすい。マリアンヌ姫が予定通り、アルドラドに行って不幸になるとしたら……」

その言葉に思わず息を呑む。
もし私にとって、マリアンヌがとても大切で守ってあげたい友だちだと思っていたら。
それでも、どうやってもマリアンヌがアルドラド神国に行って、聖女に仕立てられて不幸になる運命だったとしたら……。

「そんなの……絶対救い出しますわ!」
私が握りこぶしを握ってそう宣言すると、彼は弱りきった顔をして苦笑した。

「そう言うと思った。まあ、どちらにせよ、結果としてマリアンヌ姫は、アルドラドではなく、ローラシア皇国でアルフリード皇太子の正妃として輿入れすることが決まっている。……幸せになることが決まっているんだ」
彼の瞳をじっと見つめ、私は小さく頷く。

「だったら、後はお前が幸せになればハッピーエンドってことにならないか?」
コクリと頷くと、彼は私の手を取ってゆっくりと、テオドアと叔父がいる部屋に足を向けた。

「ならまずは、キサリエル王国の王妃と交渉してアリッサから完全に手を引かせたうえで、アルドラドと話をつけないとな」
あっさりと彼は言うけれど、それはきっと彼が言うほど容易なことではない。

「……そう言えば、アリッサ、何を国から持ち出したんだ?」
「その話については、叔父様にも相談しようと思っていましたの……」
私がそう答えると、セシリオは頷いて、そのまま私を連れて部屋に戻る。

***

そこでは暇つぶしにカードゲームを興じていた二人がいた。

「で。どっちが勝っているんだ?」
ひょいとのぞき込んで尋ねるセシリオに、テオドアは小さく吐息を零した。

「……そちらはどうなったんですか?」
その言葉に彼は小さく笑う。

「一応、了承……もらったってことでいいんだよな?」
「……一応ですわよ」
思わずそう答えると、テオドアがほっとしたように笑みを浮かべた。

「それは良かったです。もちろん、正式にはノートリア伯爵には了承をもらわなければいけないでしょうが……」
家格で言えば、国家代表の地位にあるセシリオの方が上になる。一伯爵家としては、不服は申し立てないだろう。もちろん、キサリエル王国側の許可が下りれば……だけど。

「さて、アリッサが姉のところから持ち出した物がどの程度向こう側に効果があるか、にもよるな……」
一応、契約は完了しているとはいえ、アルドラドの船から逃げ出したのはアリッサだ。
その無事を確認したら、引き渡す方が一般的だろう。

しかし一般的だからといってその通りにする必要もない。
キサリエルにとっては、マリー・エルドリアと、アルドラドのどちらにつく方がメリットがあるかが問題なのだ。
それによっては対応が変わってくる可能性が高く、交渉の余地があるとセシリオは考えているようだった。


「で、アリッサは何を持ち出してきたんだ?」
興味津々と言う顔で叔父が私の顔を覗き込む。
私は小さくため息をついて、そっと腰に結び付けていた革袋を手に取った。中から手のひらに滑らせるように落す。

「……これです」
興味深そうにしているセシリオと、叔父、テオドアの前にてのひらの物を差し出した。

「……これは?」
「なんの……印だ? まさか……」
セシリオが口を抑え込んで絶句する。

「……まさかと思いますが」
テオドアが凶悪な顔をして眉を顰めた。

「国璽とか、玉璽とか……そういうたぐいの物だと思います。国王が正式な書類に押す。姉が……王妃がそう言っていたので」

私の言葉に三人がそのまま固まってしまった。
って……それを持ち出すのはやっぱり、よほどの事だったのか、と思わず背中を冷汗が流れる。

「私、姉のためにずっと頑張ってまいりました。それなのに納得行かない結果になったからと、アルドラド神国の神殿巫女になるように命じられて。拒否したら、そのまま投獄されて。……とても納得できませんでしたの」

手のひらにある重たい印をもって、小さく吐息をつく。

「こういうのって……行きがけの駄賃って言うのですよね。姉が王からすり替えて隠している場所を知っていたので、後宮から脱出する時に持ち出したんですわ」
私の言葉にようやく三人がふーっと息を吐き出した。

「なんというか……」
「ええ、昔からアリッサ様がこういう方だとは知っておりましたが……」
「……ちょっと待て。それは国王にも知られずに、本物の国璽と偽物を入れ替えて、妻である王妃が隠し持っていた、ということか?」

呆れ果てる常識ある大人たちを見ながら、セシリオは瞳をぎゅっと細めて、何かを思案しているような顔のまま確認する。

「国王も知らない……?」
「それは……大変な反逆行為ですぞ?」

ですよねー、やっぱり。と私は頷く。というか事態の把握をした瞬間、大人の二人の愕然とした表情を見て、思った以上にとんでもない状況だったことが理解できた。

「その事実が発覚すれば王妃は完全に立場を失うな……」
「ですね。近々、キサリエル国王の娘である、マリアンヌ様とローラシア皇国のアルフリード皇太子の結婚の儀が執り行われると公示もされている。姫の輿入れの書類にはその印を絶対に押さなければいけない。万が一、それが偽物だという事になれば……」
最悪、騙したとしてローラシアとの間で戦争すら起こりかねない。叔父が手のひらを口に押し当てて、青い顔をする。

「でしたらやっぱり返す……しかないですわよね。でしたらせめて返却することで、こちらに有利な条件を得たいとは思うのですが」
私の言葉に、セシリオは頷く。

「じゃあ、お前の姉上を呼び出すより仕方ない。そうだな。ついでに俺達の婚約に関する言質も取っておきたい。お前の父親も呼び出しておくか。ノートリア伯爵も、娘である王妃の失態は全力で隠したいだろうからな……」

その言葉に私は頷いた。正直姉には会いたくはない。けれど、会わずには済ませられないだろう。
そして叔父は一旦、セシリオの手紙を持って、キサリエルに戻ることになった。姉に会って会談の予定が決まったのは数日後の話だった。


***


こんな風に、セシリオと地上で長い時間を一緒に過ごしたのは初めてだった。彼の家に客人として滞在している私は、近づきたがる彼を排除するのが面倒なのではと思ったのだけれど。

「あら、セシリオは?」
共に取る昼食には彼がおらず、首を傾げると、彼の侍従が笑顔で答える。キサリエルと違い、マリー・エルドリアは全員が船に乗る生活を経て仕事に就くので、侍従と言ってもさほど堅苦しくない。

お転婆と言われる私にも、この国の気さくな国民性はしっくりくるし、セシリオと結婚して、この国で生活するのも悪くないかな、と思い始めている。

何より大好きな海がすぐそばにあり、船に乗ることが日常だ、という一族である。キサリエルより自分に合う気がしてきた。

「セシリオ様は打ち合わせで遅れられている様です。三日後にに迫った、キサリエル王妃との密談の為の根回しがお忙しいようですね。大切に想っていらっしゃる姫の為ですから念の入った準備をされていらっしゃいますよ」
にっこり笑って答えられて、少し照れてしまう。

近くにいるようになって分かったが、普段は島国で船長をしているだけの気楽な生活かと思いきや、マリー・エルドリアの国家代表でもある彼は、めちゃくちゃ多忙だった。

まあ、考えてみれば当然なのだけど、一番大きな島の主というだけで、まだ若いしお飾り的な存在なのかと思っていたけれど、意外と有能で名目上だけでなく、貿易国家であるこの国の代表としてちゃんとした評価を得ていた。私はちょっとだけそういうところでも彼を見直していた。

「特に今は、長年想い慕っていた姫との結婚が本決まりになりそうですからね。まずは姫のご好意を得ようと、セシリオ様も必死なのです」
なんて言われると、なんだかちょっと照れてしまったり。

どうも……私、最近、調子がおかしい。

ここからが正念場なんだから、浮かれてる場合じゃない、とペシペシと顔を叩いて気合を入れていたら、突然の私の風変わりな行動に、侍従は苦笑を必死にこらえている。

「では少しだけ……セシリオが戻るのを私も待ちます。一緒に食べる方が美味しいですから」
美少女スマイルでにっこりと笑うと、一瞬侍従は微かに顔を赤くして頷く。
うむ。悪役令嬢の誑かしスキルは健在である。

私は満足して彼の戻りを待つ。ほどなくして彼が部屋にやってくると、私が彼の着席を待っていた、と知って相好を崩す。
「先に食べていればよかったのに」
なんて一応言う彼に、侍従が笑みを浮かべて答える。

「アリッサ様は、セシリオ様と一緒に食事をとられる方が嬉しいとおっしゃってましたよ」
それだけで……幸せそうに笑みを浮かべる目の前の人が、なんだか少しずつ大切に思えるようになってきた。

「私の為に頑張って下さっているのですもの。そのくらいは当然でしょう」
わざとツンと答えても、彼はそんな素直じゃない私すら愛おしそうに見つめて、そっと私の手を取り、爪先にキスを落す。

「ちょっ……食事前ですよっ」
「美味そうな手だったからな……って冗談だ。待たせて悪かったな。じゃあ食事にしよう……」

そして私は彼と笑いあいながら、一緒に食事を取る。
こんな生活がずっと続くなら、それも悪くないな、と思いながら。


──そして三日後、私とセシリオと、キサリエル王国の王妃である姉との会談が海上で行われた。

しおり