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第九話


最初はマリー島で会談を行う予定にしていたのだと言う。けれど姉はそれを拒否し、どちらにとっても平等である、両国の境界線の海上で話し合いが行われることになった。

本拠地をキサリエル王国に持ち、マリー・エルドリアと交易でつながりが深く、なおかつ当事者である私の叔父でもあるという点を考慮し、モルティア商会の船の中で会談は行われることになっていた。

私はマリー・エルドリアの船室の中で深呼吸をする。

「緊張しているのか?」
心配そうに尋ねてくるのは、普段身に着けている身軽な衣装ではなく、国の代表者らしい貴族的な衣装だ。もちろんそれも似合っているけれど、私は普段のセシリオの恰好が好きだ、と思う。

「少し……」
「お前、あの王妃が苦手なんだな。まあ……なかなか御しにくそうな女人のようだが……」
彼はここに来るまでに、仲介人を通して、姉と交渉を続けている。その間にいろいろ感じたものがあるのだろう。

「いえ……まあ。そうですね。今更話したい人ではございませんね」
憂鬱そうなため息をつくと、彼はそっと私の頬を撫でて、わざと笑みを浮かべて見せる。

「まあ、だが今日の話し合いさえうまく済めば、厄介事が一気に減るのだから、頑張るより仕方ないな。面倒なことがあればこちらに振れ。俺もお前の婚約内定者として話し合いには参加するからな」

そう言ってエスコートの手を伸ばしてくる。
ふと私は思い立って、腰につけた革袋を外して彼の手に乗せた。

「……俺に預けていいのか?」
尋ねる言葉に頷くと、彼は預けられた信頼を噛みしめる様に、ぎゅっと手のひらの上に置かれた物を握りしめた。

「わかった」
言葉少なく答えて、それに一瞬視線を落とすと、彼は自分の服のポケットに隠しこんだ。

それから私はエスコートのために伸ばされた彼の手に、自らの手を重ねる。

二人で船室を出て、叔父様の船との間に掛けられた橋を渡ってモルティア商会の船に移動した。


「アリッサ、こっちだ」
船にたどり着くと、声を掛けてきたのは叔父だ。こちらも改まった衣装を身に着けている。彼は会談の場所の提供と、話し合いの成り行きを見届ける役割を担っているのだ。

今回の会談のために、叔父の船でも一番上等な船が用意されていた。当然部屋も船室にしては広めで数名が入っても狭苦しさを感じない広さがあった。

私たちが先に部屋に入り、座って待っていると先触れがあり、侍従と護衛を連れた王妃が室内に入ってきた。

姉は一瞬ちらりと私に視線を向けると、赤く塗られた唇の口角をきゅっと上げて、瞳を細め、優し気な笑みを浮かべた。

「アリッサ、無事だったのね。本当によかった……」
その不自然なほど優しい声に、思わず足が竦む。他人が聞いたら本当に心配しているように思える声と表情を、作り込めるこの人が……心底、怖い。

そんな私の様子を見て取ったのか、セシリオは私の肩に手を置いて、にっこりと笑って見せる。

「もちろん、無事ですよ。私の大切な女性ですから……」
「ですが、本来であれば、アリッサはアルドラド神国で神殿巫女になる予定で、アルドラドの船にいたのですよ?」

さっさとアルドラドに返せ、とばかりの台詞にセシリオは目を瞬かせて答える。

「海に落ちた時点で、それは海の女神への捧げものとなります。そして海で受け取った人間が恩恵をうけたと捕らえるのが一般的ですよ」
彼はにっこりと笑みを浮かべてから、姉をじっと見つめて答える。

「つまりアリッサは私に届けられた、海の女神からの有り難い恩寵なのです」
微かに震えている私を抱き寄せて、見せつける様に、私の手に唇を寄せる。

「少なくとも、既に一旦アリッサをアルドラドに引き渡したキサリエルからの返還要求には応える必要性を感じません。その交渉は、アルドラドに任されたらいかがでしょうか?」

それ以外にもっと大事なお話が、あるのでは? と彼がほのめかすと、姉は小さく頷く。

「それもそうですわね。アルドラドにはそのように返答しておきましょう」
姉の言葉に畳みかける様にセシリオが言葉を続けた。

「ただ、アリッサは元々キサリエル王国ノートリア伯爵令嬢ですから、結婚に関する承諾を父親から得たいと、アリッサも言ってます。……ところで、ノートリア伯爵は?」

一緒に呼び出していた人の不在に、ニィっと王妃は笑みを浮かべて、ちらりと自分の後に立つ護衛に視線を向ける。護衛は何故か頭まですっぽりとマントを被った状態で立っていた。

ちなみに、姉の護衛に対して、こちら側の後ろに立っているのは、セシリオが一番信頼しているテオドアだ。

「父は心労で体調を崩しております。代りに……こちらを私が預かっております」

彼女が机の上に載せたのは、アリッサの身柄に関する判断は、姉ナスターシアに一任するという内容が書かれた父からの書状で、どうやら父親はここには来ないということがわかる。

まあ、もともとアリッサに対してあまり興味を持っている人ではなかったけれど。思わず私は小さくため息を漏らした。

「あの、お姉さま。お父様のお加減はいかがですか?」
尋ねた言葉に姉は、瞳を伏せて心から困惑しているような声をだした。

「アルドラドに向かっているはずの貴女が、突然船から落ちた、と聞いて本当に心を痛めていらっしゃいましたわ。その後無事が確認できたとはいえ、今度は突然の、マリー・エルドリアからの書状ですもの。それはそれは動揺されて……」

さりげなく父親の体調不良の原因は自分だ、と言われてズキンと胸が痛む。もちろん半分ぐらいは、姉の策略だってわかっている。それでも……。

「貴女の我儘でどれだけの人を振り回したか、分かっていますか? そして国から大事な物を持ちだすなんて……。私が小さな頃からあれだけ言い聞かせていたのに、本当に貴女って人は……」

冷たい瞳で声を荒らげることなく、声だけは優しく私の不出来を指摘する声に、反発するより、血液が冷えてこわばっていくような恐怖を感じる。

「キサリエル王国に対しての不遜な行為に対して、きちんと謝罪し、ご迷惑をおかけしたアルドラド神国のナサエル宗主にも、丁重にお詫びする必要性があるのではないかしら?」

優しい声で淡々と追い詰められて、呼吸が苦しくなる。幼い頃の折檻を思い出して、冷や汗が背筋を伝う。そんな私に気付いて、セシリオがそっと私の手を握りしめてくれた。

「そのように立て続けに責められていては、ここでお会いした最大の目的が果たせないのではありませんか? 本来なら、後宮ではなく、王宮の王の執務室で厳重に保管されているはずの物が貴国に戻らねば、責任を問われるのは王妃、貴女ではないですか?」

すぅっと瞳を細めたセシリオが、唇だけ笑顔の形にして、姉に問いかける。

「……それもそうね。国外に持ち出されては困るものを、お返しして頂く事が目的でしたわね。ところで私にとって今、最も大事な事由はアリッサが盗み出した物の返還、ですけれど、貴方にとって一番大事な物は、不出来なこの子、なのかしら?」

そういって姉はゆっくりと立ち上がり、私の頬に手を伸ばす。咄嗟に私を庇おうとするセシリオの顔を見て、挑発するように微笑むと、私の頬を手の甲で撫でるようにした。

「アリッサ、貴女はちゃんと大切な物をここに持って来てますよね? キサリエルのものはキサリエルに、もちろん返して下さいますわよね」

姉と間近で視線を合わすだけで、頭がぼうっとしてくる。従わなければ殺されてしまうのだ。私はわずかに顔を縦に振った。

「そう……アリッサは素直だったら本当にいい子なのに。でも……」

「──イタっ」
その瞬間、チクリとした痛みを頬に感じて、姉の満面の笑みを見て息を呑む。

「悪い子には罰を与えねばいけません」
ゆっくりと姉は指輪から生えたように見える針を私たちに見せつけた。

「遅行性の毒針ですわ。セシリオ様。大変申し訳ありませんが、やはりアリッサはマリー・エルドリアにはお渡しできませんの」

首を傾げてお淑やかに会話を続ける姉と、その指に光る針先の凶悪さがまるでかみ合わない。

私は隣の人が何を思っているのか考える余裕もなく、目の前の紅い唇を見つめている。

「アルドラドのナサエル様は、再度同じだけのお金を支払っても、海の女神の加護を受けたアリッサを神殿巫女として必要だと言ってくださったの。ですからキサリエルのものは、キサリエルにお返しいただきますわね」

「なるほどアルドラドは追い銭をしてでも、アリッサが欲しくて、キサリエルと契約を結び直した、という事か……」
ギリと奥歯を噛みしめるように、セシリオが尋ねると、姉は嫣然と笑み崩れた。

「ええ、さすが利に敏いマリー・エルドリアですわね。そういうことになりますわ。今度はアルドラドの国内にアリッサを納めて契約が完了ですの」

セシリオは私を取られまいと、本能的に私の肩を抱く。そっと傍らの人を見上げると、彼は私の姉を触れれば熱を発しそうなほど剣呑な瞳で睨みつけていた。

彼が剣の柄に手を伸ばしたのに呼応するように、後ろにいるはずのテオドアからも殺気を感じる。セシリオが私を背に庇うようにした。

「あら。よろしいのかしら。このまま私を害すれば、アリッサは助かりませんわよ。遅行性とはいえ、数時間で確実に死にますもの。もちろん、私の船には、解毒薬がありますの。ですからアリッサの命が大事ならば、このまま妹を連れ帰らせていただくのが一番だ、と言う状況はご理解頂けますわよね? ちなみに暴れると毒の周りが速くなりますわよ?」

そう言いながら姉は、半ば奪うようにして私の手を取る。セシリオが一瞬迷った隙に、姉は後ろにいた護衛らしき男に私の身柄を引き渡した。

「確かにアリッサ嬢は受け取った……」
聞き覚えのあるその声に私ははっと視線を上げる。マスクを取った男の顔は……。

「クラウディオ!」
「あのような印象的な台詞を残して目前から姿を消せば、必死で追いたくなるのが必定。今度こそ、無事アルドラドにお連れ出来そうで安心いたしました」
眼鏡をかけた男はふっと瞳を眇めて笑う。

「なんで、貴方がここに!」
私が叫んだ途端、それまで静かに話し合いの立会いをしていた叔父が状況を確認しようと立ち上がる。

「誰か、誰かいるか!」
叔父が声を上げたタイミングで船室の外から、扉をノックする音がした。

「王妃様。モルティア商会の船、無事掌握いたしました」
「そう。ご苦労様。それではクラウディオ様、キサリエルの船においでくださいませ。……そうね、セシリオ様と、モルティア商会当主は……少し時間を置いてから、小舟で下して差し上げればいいかしら? マリー・エルドリアの船が拾って下さるでしょうし……。キサリエルとしても、今、マリー・エルドリアと戦端を構えたいわけではないのです」

次の瞬間、クラウディオに連れ出される私と入れ替わりに、モルティア商会の人間たちが部屋に入ってくる。

「な、なんでこんなことに……」
自らの部下に裏切られ焦る叔父に、振り向いて姉は答えた。

「モルティア商会の本拠地はキサリエルですもの。いくらでも人質がおりましてよ。彼らは家族のために、義叔父上を裏切った、というだけのことですわ」
「お前たち……」

叔父の悔しそうな声が聞こえる。でも確かに大事な家族を国に人質にされたら、逆らうことは難しい。姉の汚いやり口に私は背筋を寒くしながら、クラウディオに連れて行かれるより方策がない。

いくらテオドアが有能でも、セシリオが勇敢でも、多勢に無勢だろう。モルティア商会の人間が動けないのなら、これ以上の抵抗は被害者を増やすだけだ。

「セシリオ様。ありがとうございます。……もう私の為に無理はしないで……無事、マリー・エルドリアに帰ってください……」
彼の顔が見れず、私は頭を下げる。そのまま顔を伏せ、引っ立てられるようにして、私は姉の船に連れて行かれたのだった。

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