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作戦1・消しゴムを踏み潰しましょう

 昨日は散々だった。担任が呼んでいるとか適当な事を言って、ファルシーが余計な事を話す前に、アーニャを歴史研究室から連れ出そうとしたのに。それなのに研究室に行ったら既にそこにアーニャの姿はなく、そこにいたのはファルシーとトーマスの二人だけだったのだ。
 アーニャがいないのなら用はないと退室しようとしたのだが、自分が『ライアン・トランジール』だと知られた瞬間、ファルシーに呼び止められた。何でもアーニャが、シュラリア国には明かされてはならない史実がある、と自分が言っていた事をファルシーに話したらしい。アーニャめ、余計な事を。
 話が長くなると思ったライアンは、「アーニャに焦らしプレイで放置されているので、構って欲しくて嘘吐きました、すみません」と適当な事を言って謝った。それによってファルシーはガックリと肩を落として落ち込んでいたが、トーマスは「やっぱり」と苦笑いをしていた。やっぱりって何なんだろうか。
 その後はトーマスに、「アーニャは一回教室に戻ったんじゃないかなあ」と言われ、彼の言う通りに教室に戻れば、そこで本を読んでいたアーニャと会う事が出来た。何とか彼女に、これ以上シュラリア国を調べさせたくない一心で話をしたが、結局は彼女を怒らせただけで終わってしまった。
 そして今朝、その事をルーカスに話したところ、「え、マジで押し倒そうとしたの? うわ、ないわー」と見当違いな事を言われてドン引かれた。そして、今に至る。
(アーニャ、まだ怒っているだろうか)
 アーニャに冷たくされるのはいつもの事だが、それでも気が重いな、とライアンは溜め息を吐く。昨日は言い過ぎた、すまなかった、と謝ってみようか。それで彼女の機嫌が良くなるとは思えないが……。でももしかしたら少しは許してくれるかもしれない。
「……?」
 ガラリと扉を開け、自分の教室に入る。
 しかし飛び込んで来たその光景に、ライアンは眉を顰めた。
 震える手で何かを握り締めたリアが、自分の席に座って泣いていたからである。
『アーニャのヤツ、何かしたのか?』
『いや、見てなかったけど……でもリア泣いているじゃないか』
『やっぱ、あの噂って本当だったのか?』
 無関係なのだろうクラスメイト達が、遠巻きに見ながらコソコソと小声で話す。
 そんな彼らの視線の先にいるのは、かなり機嫌の悪そうなアーニャ。そしてアーニャに注意を促す、セレナ達女友達の姿があった。
「アーニャ、どうしたの? リアと喧嘩?」
「でも今のは可哀想だよ。謝ったら?」
「どうしたんだ?」
 ライアンに好意を持たないアーニャが、前世のように嫉妬に駆られてリアに何かするとは思えないが。でも、それでもライアンは、一応セレナ達にそれを問う。
 するとアーニャでもセレナ達でもなく、リアを慰めていた女生徒が、怒ったようにしてその状況を教えてくれた。
「アーニャがリアの消しゴムを踏み潰したのよ! 酷いと思わない?」
「え?」
 どういう事だろう、とライアンが首を傾げれば、女生徒はリアの手からそれをひったくり、ライアンの前に広げた。
「これは……?」
 女生徒の掌に転がっているそれに、ライアンは眉を顰める。
 そこにあったのは、ボロボロになった消しゴム。しかし使い古されてボロボロになったわけではない。確かにそれは誰かに踏み潰されたのだろう。そこには黒い靴の跡が付き、ところどころが欠けた汚らしい消しゴムが転がっていた。
「勉強していたリアが消しゴムを落としたのよ。そしたら自分の方に転がって来たこれを、アーニャが思いっきり踏み潰したのよ! 喧嘩しているにしたってやりすぎだわ!」
「アーニャ、本当なのか?」
 アーニャが悪いと憤る女生徒を宥めてから、ライアンはさっきから不機嫌そうなアーニャにその事実を確かめる。
 するとアーニャは気怠そうにしながら、「違う」と首を横に振った。
「確かにそれを踏んだのは私よ。でも、わざとじゃない。こっちに転がって来たそれをうっかり踏んじゃっただけよ。そしたらリアが泣き出したの。ホント、面倒臭い女」
「はあ? 何よ、その言い方! だいたい、わざとじゃないわけがないでしょう! うっかり踏んだだけなら、こんなグッチャグチャな消しゴムになんかならないわよ!」
「レイカには関係ないでしょ。それに、文句があるんなら本人に言わせなさいよ。そうやって自分は黙ってるだけで、他人に言わせるのは卑怯だと思うわ」
「何ですって! リアはあんたと違って優しいのよ! その優しいリアに代わって私が文句言う事の何が卑怯なのよッ!」
 全く反省の色を見せないアーニャに、レイカと呼ばれた女生徒は顔を真っ赤にして怒り出す。
 そんな彼女をもう一度宥めてから、ライアンは再度アーニャへと視線を向けた。
「アーニャ、うっかり踏んでしまったにしても、ちゃんと謝ったのか?」
 もしアーニャの言う事が事実だとしても、他人の物を踏み付けてしまったのだ。それに対して謝罪をするのは当然の事だろう。
 しかしアーニャは、そんな事するわけがないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「謝ってないわよ。だって私悪くないもの。何で自分に非がないのに他人に謝らなくちゃいけないわけ?」
「うっかりでも踏んでしまったのだろう? だったらお前が悪いんじゃないのか?」
「何でよ? もとはと言えば、消しゴムを落としたリアが悪いんじゃない。そんなに大事なモノなら、学校に持って来なければいいのよ」
「……」
 リアを泣かせ、クラス中から非難の目を集めているにも関わらず、全く悪びれようともしないアーニャに、ライアンは表情を歪める。確かにアーニャはリアの事を好いてはいない。けれどもこうやってリアを攻撃しようとした事なんて、現世では一度もなかったハズなのに。それなのに突然どうしたのだろうか。
「アーニャ、お前に非があるのかないのか、オレに判断する事は出来ない。でも、リアは傷付いて泣いているんだ。だったら、とりあえずは謝るべきなんじゃないのか?」
「……そうですか」
 はあ、とアーニャはわざとらしい溜め息を吐く。
 そしてゆっくりと立ち上がると、アーニャは嘲るような笑みをライアンへと向けた。
「何かあればすぐに泣くようなウザい女の味方をするなんて、あんたも変わったわね」
「っ!」
 その言葉にライアンの心がズキリと痛む。前世でアーニャを傷付けて来た暴言の数々。その内の一つを、真っ直ぐに突き返されたような気がしたからである。
「リアはいいわよね。ちょっと泣いたくらいで、ライアンが助けてくれるんだから」
 その視線を、ライアンからリアへと移してから。アーニャはニッコリと微笑んだ。
「消しゴム踏んじゃってごめんなさい。でもわざとじゃないから許してね」
 反省の色など全くなく、上っ面だけでそう謝ると、アーニャはその笑みをライアンへと戻した。
「ライアンは私が悪役になれば満足だもんね。だからこれでいいんでしょ?」
「……」
 前世で彼女にして来た仕打ちの数々。それを非難されている気がして。
 ライアンはアーニャの笑みに対して、何も言い返す事が出来なかったのである。



 その日の授業は何も頭に入らなかった。ライアンの頭にあったのはアーニャの事。どの授業もアーニャの背中を見つめながら、彼女の事ばかりを考えていた。
(……)
 アーニャの言う通り、前世でのライアンは何があってもアーニャを悪と決め付け、リアが正しいと思い込んでいた。もちろんアーニャが悪い時もあっただろうが、きっと中にはリアが悪い時もあったのだろう。それでもライアンは二人の性格や、アーニャに抱いていた自分の感情から、いつもアーニャを悪だと決め付け、彼女を非難し続けていたのである。
(今思えば、非はオレにあったんだ)
 前世でアーニャが図書室の本をぶちまけた時も、彼女に非はなかった。アーニャは本棚を倒そうと思って倒したわけではない。脚立から落ちそうになって、その身を守るために本棚にしがみ付き、その結果として本が散乱してしまっただけなのだから。それなのに自分はアーニャの事を疎ましく思い、打ち付けた体の心配もせず、冷たい言葉を浴びせてアーニャを見捨てて来てしまった。
 アーニャがリアの悪口を言っていた時だってそうだ。確かにそれについてはアーニャにも非はあっただろう。けれども、何もクラスのみんなが見ている前で怒鳴り付け、彼女を非難する事もなかった。そんな事をしたらアーニャがみんなにどう思われるか、そのくらい考えてやれば良かった。
 あの時、一緒に本を片付けてやれば良かった。みんなの見ていない場所で、ちょっと注意するだけにしておいてやれば良かった。そうすれば彼女は、現世でも少しくらいは自分に好意を向けてくれたかもしれないのに。
(前世の事をなかった事にして、現世でもう一度やり直そうなんて。そう考えているオレが甘いのかもしれないな)
『どうしてライアンは、いつもリアの味方ばっかりするの?』
 そんなある日、アーニャが悲しそうにそう聞いて来た事があった。
 それは、アーニャがリアを階段から突き落とした時の事だった。ライアンからの好意を一心に向けてもらえているリアに嫉妬したアーニャが、リアを階段から突き落としたらしいのだ。幸いリアに怪我はなかったものの、リアからその事実を聞いたライアンは、当然アーニャを激しく怒鳴り付けた。いつもは項垂れながら怒鳴られているだけのアーニャであったが、その時は珍しく、自分はリアを突き落としてなんかいないと必死に否定していた。
 けれどもライアンはアーニャの言葉になど耳も傾けず、いつも通りにアーニャを悪と決め付け、みんなが見ている前で一方的に非難していたのである。
『お前はバカか。正しい方の味方をするのは当然だろう!』
『でも私は嘘なんか言っていない! 確かに階段でぶつかって、リアが落ちてしまったのは事実よ。だけどそれは、お互いの不注意が原因でぶつかってしまっただけなの。だから私が突き落としたわけじゃないわ!』
『なら、リアが嘘を言っていると言うのか!』
『そうよ! だって私は突き落としてなんかいないもの!』
『じゃあ何でリアは泣いているんだ! 偶然ぶつかって落ちたくらいなら、リアがこんなに泣いて怯えるわけがないだろう!』
『だったら逆に、私がリアを突き落としたところ見た人いるの? いるわけないわよ! だって私、そんな事していないもの!』
『誰も見ていない事をいい事に言いたい放題だな。どうせ誰も見ていないのを確認してからやったんだろう? 心の醜いお前の考えそうな事だ。お前みたいなヤツが同じ騎士を目指している事自体が不愉快だ。リアへの嫌がらせ行為を止めるのと同時に、学校も辞めたらどうなんだ?』
『……』
『何だ? 本当の事を言われて言い返す言葉も見付からないのか?』
『酷いよ、私、本当にやってないのに。どうして信じてくれないのよ!』
 ポロリと、アーニャの瞳から涙が零れる。
 それなのに、傷付いて涙を流す彼女に自分が向けたのは、軽蔑の目と言葉であった。
『泣けば済むと思っているのか? 随分と甘い世界で育って来たんだな』
『……っ』
『お前の涙ほど、汚いモノはないぞ、悪人』
 それからだろうか。アーニャが少しだけ距離を置くようになったのは。ライアンに話し掛けていた時間を勉強や鍛錬に使い、その甲斐あって、彼女の成績がどんどんと良くなっていったのは。
(だけどオレは、それすらも気に入らなかった)
 アーニャが距離を置いたのなら、自分も距離を置けば良かったのに。けれども自分は、自分より成績の良くなっていくアーニャが気に入らなくて、隙あらば彼女を非難して怒鳴り付けた。挨拶なんて返した事はなかったし、彼女が困っていても助けてやる事はなかった。
(そんな彼女が最期に望んでくれたのが、オレからの抱擁だったんだ。騎士になってからもオレの態度は相変わらずだったのに。それでも彼女は最期までオレに好意を向けてくれていたんだ)
 前世で犯して来た数々の間違い。それを現世で修正するのは、やはり不可能なのだろうか。
(でも、今朝のは確かに……)
 今朝、リアはアーニャに消しゴムを踏み潰されて泣いていた。アーニャは故意でやったものではないと言っていたが、あれはどう見てもアーニャが故意的に踏み潰したモノだった。だから普通に考えればレイカが憤るように、アーニャに非があるのだが、前世での過ちを踏まえれば、彼女に非があるわけではないようにも思える。アーニャにも、何か理由があるのではないだろうか。
(だが、理由といっても何も思い付かない。ノアの言うように、ただ喧嘩をしているだけなんだろうか)
 あの後、アーニャの謝罪に納得のいかないレイカが再び怒り出したのだが、それを見兼ねたノアが、彼女やクラスメイト達を宥めていた。「どうせ喧嘩でしょ? 本人達だけでやらせなよ。部外者が口出す事じゃないよ」と呆れたように言うノアに、「それって結局はアーニャの味方じゃん」とか、「お前こそ幼馴染だからって贔屓すんなよ」とか、「この過保護」とクラスメイト達に言われていたが、ノアは全く気にしていないようだった。本当に、ノアの言う通り放っておけばいいのだろうか。
(嫌な予感がするな)
 そう思っても、どう行動したらいいのか分からなくて。
 とりあえずルーカスに相談するしか、ライアンには解決策が思い付かなかったのである。

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