初めてのバレンタイン ③
****
――そしてやってきた、バレンタインデー当日。
とはいっても平日だったので、わたしは学校にも行かなければならず、その後に出社することにもなっていたため、チョコの包みを持ち歩くわけにもいかなかった。こんな寒い日にはあちこちで暖房が効いていて、チョコが溶けてしまうからである。
というわけで、わたしは終業時間の少し前、彼の目を盗んでこっそり史子さんにメッセージを送った。彼はこんな日なので、女性社員から呼び出されて会長室にいなかったのだ。
多分、みんな仕事中の彼を呼び出すのは忍びなくて、わざわざ終業時間の後も会社に残ってタイミングを計っていたのだろう。熱心なことである。
〈史子さん、わたしはあと五分ほどで会社を出ます。
それから二十分くらいで家の前に着くと思うから、その頃になったらチョコの箱を持って門のところで待機してて! よろしくお願いします(__)〉
〈了解致しました、お嬢さま〉
母はもう帰宅していたはずだけれど、仕事で疲れている母に頼むわけにはいかなかったので、この作戦には家にいる史子さんの協力が不可欠だった。
「――会長、長く席を外してしまって申し訳ありません。女性社員が、なかなか僕を解放してくれなくて……」
やっとのことで会長室に戻ってきた彼は、大きな紙袋を抱えていた。中にはドッサリ、女性社員たちからもらったチョコが入っていたのだろう。
やっぱり彼、モテるんだ……。わたしはちょっとヘコんだ。でも彼にはそんなことを悟られるわけにはいかないので、ちょっと大げさに驚いて見せた。
「お帰りなさい、桐島さん。スゴい荷物ね。それって全部チョコなの?」
「ええ……、まあ。チョコじゃないのもありますが。どうせ本命はひとつもないですよ。ちなみに、加奈子さんからは頂いてません」
「……でしょうね」
母はその頃、まだ父を早くに亡くした傷が癒えていなかったのだ。もし誰かにプレゼントを贈っていたとしても、その相手が彼というのはあり得ない。
それにしても、「本命がひとつもない」というのは本当だろうか? というか、彼自身は知らなかったのだろうか? 自分が「彼氏にしたい男性社員ナンバーワン」だという事実を。
わたしは知っていたけれど、まさかここまでとは……。これだけ大量にもらっていたら、わたしのチョコなんてあげてもあげなくても同じことなんじゃないだろうかと、ちょっと拗ねたくなった。あれだけ一生懸命考えて、頑張って作ったのに……。
「っていうか、そんな大量のチョコ、ひとりで食べ切れるの?」
そういう問題じゃないと思うけれど、わたしは彼がお腹を壊してしまうのではないかと心配になった。
「そうですね……、何日かに分ければ何とか。チョコは日持ちしますし、食べ切れないからって突っ返すわけにもいかないじゃないですか」
「…………うん」
確かに、もらっておいて突っ返す方が、あげた側は余計に傷付くかも。それなら最初から受け取らなきゃいいじゃない、と言いたくなる。……わたしなら。
「じゃあ、言ったことはキッチリやってもらうわよ? 何日かかってでも、そのチョコはちゃんと食べてあげること。それから、ちゃんとお返しもしてあげてね。お金かけなくてもいいから。これは、会長命令です」
わたしはチョコをあげた女性社員たちに同情して、彼に釘を刺した。ホワイトデーになって、「バレンタインに贈り物をしたのに、桐島くん、お返しくれなかったんですよー」なんてわたしに苦情が殺到したらたまったもんじゃない。
「分かってます。そこはキチンとしますよ。――さて、ボチボチ仕事を切り上げて退社しましょうか。そろそろ六時になりますよ」
「そうね」
「……あの、会長。えっと――」
彼が何か言いかけて、言いにくそうに口ごもった。チョコの催促をしたかったのけれど、相手が
「ん?」
「…………いえ、何でもないです」
彼は結局口には出さず、うまくごまかして帰宅準備を始めるために秘書室へ一旦戻っていった。心なしか、ガックリ肩を落としているように見えた気がする。
……分かってるよ、桐島さん。わたしもサプライズにしたいから黙ってたけど、ちゃんと準備はしてあるのよ。
何も知らずにうなだれている彼にはちょっと申し訳なくて、心が痛んだ。
****
その日の帰りの車内には、気まずい空気が流れていた。彼はいじけていたのか、運転中は一言も口を聞かず、わたしもチョコのことを言いたいけれど言えなくて、何だか落ち着かなかった。
「――絢乃さん、今日もお仕事お疲れさまでした。では、僕はこれで――」
彼は我が家のゲートの前に着くと、普段通りにわたしを降ろしてさっさと帰ろうとしていた。もう、わたしからのチョコはないものとすっかり諦めているようだったので、わたしは慌てて彼を引き留めた。
「あっ、ちょっと待って! 今日、バレンタインデーでしょ? 約束してたから、ちゃんと準備してあったの。――史子さーん!」
ちゃんと指示したとおりに彼女は待っていてくれて、わたしがチョコを手渡した時の彼の驚きと、嬉しそうな笑顔がわたしは今も忘れられない。
その夜、彼から「チョコ、ありがとうございました。美味しく頂きましたよ」と電話がかかってきた。どうやら、わたしがあげた分を真っ先に食べてくれたらしい。
――実はあのチョコが本命だったと彼が知るのは、もう少し後のことだった。
E N D