103 雪の降る夜に
釣糸かピアノ線のような、素材不明、とにかく強度の強い糸としか、分からない。
素材は秘密だと片目を閉じながら、人の首でも落とせると笑った、ルスランが怖い。
さしずめどこかの〝仕事人〟か。
糸の先には小石が巻きつけてある。
キャロルは右手で
そうして左手に持っていた小石付きの糸を、低い姿勢のまま、前を行く馬車の後輪に向かって投げる。
「ユニ、離れてっ!」
糸の終わり部分を握ったまま
後ろに飛んだ反動を活かすように、糸を勢いよく引っ張ると、キャロルが予想していた通りに、後方の車輪が、音を立てて外れ飛んだ。
普通ならキャロルも地面に叩きつけられるところが、ここ数日の雪である。
道の端の、溶けていない雪の部分に、全身が落下。肩は痛いが他に怪我はなく、ただ、雪
「けほっ…痛たた……」
口に入った雪を吐き捨てながら、前方に視線を向けると、バランスを崩した馬車が横転して、地を滑った所だった。
…どうせ後ろ暗いのだから、多少の怪我は許容して貰おう。
キャロルは剣を鞘から抜くと、倒れた馬車の方へと近寄った。
とりあえず地面に投げ出されて
上向きになっていた車体に足をかけ、慎重に扉を開ける。
「……っ⁉︎」
その瞬間、中から飛び出して来た人影が、キャロルに斬りかからんと、剣を振り下ろした。
ある程度、予測をしていたキャロルは、後方に飛び
上着のボタンが複数宙を舞い、中の白シャツの部分が
「寒っ――って言うか、ユリウス皇子…っ⁉︎」
「何…っ?」
馬車の中から飛び出して来たのは、どこをどう見ても、ディレクトアでお目にかかった、ユリウス・ランカー・ルッセその人だ。
……エイダル公爵に命じられて、蟄居謹慎中ではなかったのか。
一方のユリウスが、キャロルを認識出来ずに、目を
何しろ、
横倒しになった馬車からは、もう一人
「…私が誰かを分かって、その剣を収めないと言う事は、エイダル公爵の手の者か」
地に降り立ったユリウスが、剣を構え直す。
「少なくとも、
普段ならキャロルの敵ではないが、今現在、キャロルには肩の怪我や、雪の上での戦いに慣れていないと言う、不利がある。力技や長期戦に持ち込む訳にはいかなかった。
短気に決着をつけるか、ヘクターが駆けつけるまでを凌ぐか、しなくてはならない。
ユリウスの方とて、どう見てもキャロル一人なのだから、
キャロルを斬り捨ててから逃げる方が、時間稼ぎになるに決まっている。
と言っても、
恐らくは「勝てる」とキャロルは思ったが、いくら相手に非があれど、剣に不慣れな皇族を斬るのは、さすがに面倒事が増える。
自分が今、出来る事を考えても、剣を弾いて峰打ち以外にない。そう考えて、一歩足を踏み出したものの――ユリウスの剣は、キャロルには振り下ろされなかった。
「………え?」
キャロルの目の前で、まるでVTRの
キャロル自身は剣を構えただけで、攻め込んでも振り抜いてもいない。
背後から、誰かがユリウスを刺し貫いたのだと…理解をするのに、一瞬の間があった。
ユリウスが、ゆっくりと自分の胸元から突き出た剣と――背後とを、見比べる。
「…あ…にうえ……?」
「彼女にはこれ以上…傷ひとつ、負わせない。例えそれが…
胸元から容赦なく剣を引き抜かれ、崩れ落ちるユリウスの
「……エー…レ…?な…んで……」
それ以上、とっさに言葉が出ないキャロルに、エーレはすぐには答えずに、動かないユリウスの
開いたままの瞳孔から、エーレ自身が目を逸らすように、片手で両眼の
「…ルスランから、報告を受けてね。エイダル公爵邸が襲撃されるかも知れない、と。この時間なら、俺が出ても、困るのはヒューバートとルスランだけだ。そのうち、追いついて来るよ。君の護衛は?」
「え…っと…この馬車が公爵邸から離れようとしていたから、とりあえず追いかけたと言うか…先に行くとは、一応言ってあって……」
「そう。……怪我は?」
「…大…丈夫。………エーレ?」
エーレの様子が、おかしい。
ゆっくりと近付くキャロルが、見えているのかいないのか、エーレは血
「俺は……この血を、覚えていないといけない」
「ただ、考え方が違うだけなら、共に国を動かす事は出来ると思っていた。フレーテ妃とフェアラート公爵だけが問題なら、いつか中央に戻せるかも知れないと、一縷の望みはあった。俺は今日…自分自身でその芽を摘んだ事を、この身に刻まないといけない。この先に待つのは……もう、独裁者の道なのかも知れない……」
「エーレ」
「
「エーレ‼︎」
剣を足元に置いたキャロルは、自分も片膝をついてエーレの隣に屈みこむと、血
「これは、私を助けてくれた、誇って良い血。決して、
「……キャロル?」
エーレの視線が、ようやくキャロルを捉える。
「この血の
「それは違う、キャロル!君は何も――」
「うん。だからね?」
キャロルは真っ直ぐに、エーレを見つめた。
――戸惑いは、もう無くなっていた。
今、自分の中で全ての覚悟が出来た。
この人に、こんな
させたく、ない。
「一緒に背負って行こう、エーレ?私の隣――エーレに、あげるよ」
「――っ!」
エーレが、大きく目を見開いた。
キャロルはもう一度、自分にもエーレにも聞かせるように、言葉を紡いだ。
「私の隣の席は、エーレのものだよ。もう、エーレの隣の席は空いていない?私の覚悟は、遅かったかな――」
言えたのは、そこまでだった。
右手から剣を落として、両膝を突いたエーレが、キャロルの左腕を掴んで、自分の方へと強く抱き寄せたのだ。
「……っ」
キャロルはエーレの胸に倒れこむ形になり、背中にエーレの両腕が回るのを感じた。
「……返さないよ?」
耳元、吐息がかかる程の近さで、エーレの声が聞こえる。
「俺の隣は…永遠に君のものだと、言った筈なんだけど…。君が、君の隣を俺にくれるなら……俺はもう、返さないよ?」
エーレの両腕に、力が加わったのを、キャロルは感じた。
心臓の音と――震えが、キャロルにも伝わる。
離れていかないで欲しい――言葉よりも、雄弁に。
「………うん」
良いよ、と言いかけた声は、言葉にならなかった。
血の付いていない、エーレの右手が、キャロルの頭の後ろにそっと回り、少し上向いたキャロルの唇に――そのまま、自分の唇を重ねた。
「……ごめん。雪が冷たかったね、キャロル」
軽い口づけでも、触れた唇に、雪の冷たさを感じる。
「エーレの髪も、雪……濡れちゃうね」
エーレの黒髪に、薄く積もる雪は、むしろ綺麗だと、キャロルは思った。
ヒューバートとルスランが追いついて来るまで、小雪の舞う中、エーレはキャロルを抱きしめて、離さなかった――。