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82 泡沫にて(1)

「あれは……聖樹(セイジュ)学院の…図書室…だよね?改築前…校史に載っていたのしか、見た事ない…古い…建物だけど……」

 問われたランセットが、ゆっくりと目を(みは)る。
 二人が共通して、夢のように見ている意識の先にあるのは――全ての始まりの地。

「貴方はもしかして……〝エールデ・クロニクル〟を…読んだ、人…?」
「キャロル様……」
八剣(やつるぎ)深青(みお)

 自分自身を指差すキャロルの、真正面からの視線に、ランセットが小さく息を呑む。

「もしかしたら、貴方とは時代が違うのかも知れない。私が知っているのは、もっと新しい校舎で、図書室。だけど――」

「……(かのう)柊已(しゅうや)…です…」

 一拍置いて、絞り出すように、()()()()()は答えた。
 そんな風に()()()を名乗る事さえ、何時(いつ)ぶりなのだろう。

「ただどうか、もう…ランセットで…お願いします。(かのう)柊已(しゅうや)と名乗ったところで…失った時間は戻らない。今、生きているランセットとしての己を否定されてしまっては…生きていく為の(よすが)が…消えてしまう……」

「―――」

 姫君を守る騎士、とは少し形が違うかも知れない。それでも、唯一と決めた(あるじ)に仕える事が出来ると言う意味では、同じだ。

 ようやく、ようやくこの世界で、地に足が着いた。

 元の世界に戻れない。この世界でも、願った姿になれない。
 そんな絶望は――味わいたくない。

 顔を歪ませるランセットに、キャロルは続けようとした言葉を、一度呑み込んだ。

 日本で暮らしていた時間は、もう戻らない――そう言い切られてしまうのは、深青(みお)の胸にも、突き刺さる。

「私が…転生者でも、貴方が剣を捧げてくれるのに…値する……?キャロル・ローレンスとしても……死体損壊罪確定な、酷い事をしたけど……?」

()()()()()がされた事は…刑法上の『緊急避難』に値します。また、私もヘクターも、今はそれを()とする、職業倫理で動く人間です。〝エールデ・クロニクル〟の世界に生きる限りは…何人(なんびと)がそれを非難する事もありません。命を奪う(とが)は、自分が背負うとおっしゃいましたが…私もヘクターも、それを共に背負いたいと思っているんです。そして私もヘクターも、キャロル様を仰ぐと決めました。以前、日本人であったかどうかなど――もはや、些末事(さまつごと)でしかありません」

「……ランセット……」

 (かのう)柊已(しゅうや)と呼んでくれるな。その圧力を強く感じて、キャロルは、深青(みお)としての感覚を、全面的に表に出す事は出来なかった。

 それでも少しだけ、懐かしいと思う気持ちを(ほの)めかせる事は、許容して欲しいと思う。

「…ねえ。一度だけ、一度だけで良いから、母と3人でお茶をして欲しいな。私より、母の方が、貴方の時代に近い気がする。自分が日本で暮らしていた――それが、自分の妄想じゃないって、母の気持ちを、少しで良いから、安心させてあげたい」

「………カレル様、ですか?」

 虚を突かれたランセットに、カレル・ローレンス――現在のカレル・レアールも、華森(はなもり)志帆(しほ)として生きていた時代から、図書室で〝エールデ・クロニクル〟を手にして、突然飛ばされてしまった事。キャロル自身は、その志帆の物語を読んでいる途中に、志帆の娘として、突然こちらで2周目の人生を過ごす羽目になった事とを、簡潔に話した。

 ランセットは今度こそ、絶句している。

「でも()()()()は、私のように、誰かの物語を読んだ訳じゃないって言ってた。ゲームの設定資料集、あるいは攻略本のような仕様で、最後は『あなたなら、誰になってみたいか』で、締められてたみたいで…。志帆さん自身は、皇女とかには興味がなかったからって、漠然と『花に関わる仕事を生涯続けられる事』と『物語のような、素敵な恋に落ちる事』を望んだら、どうなるんだろう――って考えたら、その途端に、こっちで侯爵家のお抱え庭師の娘として、産まれてた…って」

「設定資料……」

「私と母は『八剣深青と華森志帆』として、二人きりの時に、時々日本にいた頃の話をするけど…それでも時々、私が自分に話を合わせてくれているんじゃないか…って、揺り戻される事があるみたい。きっと貴方も加わってくれたら、母も――志帆さんも、喜ぶと思う。貴方の見ていた景色が古いのに、貴方が志帆さんより若い事に関しては、何でかな…とは、思うけど……」

「……それは」

 ここまでくれば、ランセットの好むと好まざるとに関わらず、キャロルの話を疑う余地はない。

 何より、過去を割り切っているランセットと違って、カレルが時折、日本にいた頃の事に揺れ戻されて、憂いていると言うのなら…それを取り除く手助けは、夫であるデューイにも、出来ない事だ。

 ランセットは観念して、自分が日本で恐らく40年以上前に、聖樹学院の教師だった事と、懸賞応募の為として〝エールデ・クロニクル〟の設定資料集を書き上げたのも、自分である事とを、正直に吐露した。

「エ…〝エールデ・クロニクル〟を書いたぁ⁉」

 思わず声を上げたキャロルに、ランセットが大きく両手を振った。

「いや…っ、書いたと言うには語弊が!私は本当に、それぞれの国と歴史を、初期設定として定めただけで!どうして、各国に何代も皇帝や国王が就任した歴史がもうあって、自分がその世界に飛ばされているのか、いくら考えても分からなくて……!た、ただ私が…カレル様よりも大幅に後の時代に飛ばされる事になったのは、恐らく…私が願った事が関係しているとは思いますが……」

「ランセットが願った事……?」

「…美しい姫に仕える騎士になってみたい、と……。恐らく、キャロル様の時代になるまで、そんな風に剣を捧げるに値する方が…いなかったのではないか、と……」

 自分で言っていても、厨ニ(ちゅうに)病感が半端ない。

 実体の方は、恐らく青い顔色のままなのだろうが、こちらのランセットは、顔を真っ赤にして、ソッポを向いている。
 キャロルは何とも言えない眼差しで、それを見つめた。

「…ありがとう…で、良いのかな……」
「そう言う事にしておいて下さい……」

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