36 埋まらない齟齬
『フランツ・ヒューバート。ルフトヴェーク公国ルーファス公爵領の軍事顧問だ。国内では、公爵領の位置をとって〝
『……軍事、顧問?』
「ルーファス公爵領は、第一皇子の直轄領だ、バレット卿。国軍が別にあるが故の、軍事〝顧問〟――第一皇子直属軍の
最後は疑問形になっていたものの、会談において口述筆記を務める予定のクルツには、従前よりの知識がある。
単語の一部を聞き取り損ねたエルフレードの為に、カーヴィアル語で言葉を添えた。
ああそう、と答えたエルフレードは、渋々と言った
「レアール…さん…」
ただ「そうではない」事を知るオステルリッツが、キャロルの右腕の服の袖を、軽く引いている。
「…そうですね…この齟齬を、別の理由で埋めるのは…もう難しいでしょうね……」
諦めたように息を吐き出して、キャロルが天井を仰いだ。
「レアール、どうした?」
「バレット卿、イング書記官。殿下からは、必要にかられなければ、敢えて話す必要はないと言われていたのですが…実は、今回のこの大使館の件には、
「……何?」
「おかしいと思いませんでしたか?ルフトヴェークの大使館職員が凶刃に倒れたのに、なぜ、ディレクトアのフォーサイス将軍がわざわざ、本国へ戻ろうとしているのか」
「言われて…みれば…」
「ルフトヴェークのあのお二人には、今からその前日譚をまず、説明します。あの机に積まれた、大使館関係者の
殺された大使館員を含めたルフトヴェークの関係者は、ディレクトアの駐在武官たちによって、庭に丁寧に埋葬された。
その際、たとえ血に
少なくとも今、そのうちの一つが家族の手に返るのだから、ディレクトアの駐在武官達も、報われた気持ちでいるだろうと、キャロルは思う。
「その前日譚と、この大使館の件とは、リンクしています。逆にその事を、私は彼らに確かめたいので――すみませんが、それまでは、後ろで何も聞かないでいて頂けますか」
キャロル、エルフレード、クルツの視線が、一瞬交錯する。
そして、クルツとエルフレードも視線を交わし合ったが、無言で頷いたところを見ると、反対はしないと言う事なのだろう。
ややあって、分かった、とエルフレードが言った。
「そもそもの、その前日譚とやらを、アデリシアがキチンと把握しているのなら、差し出口は控えよう。情報の制限も操作も、アデリシアの
「カーヴィアルが一枚岩ではない印象を与えるのも、好ましくないだろうから、確かに、内心はどうあれ黙っている方が良いのだろう」
クルツも、隣で頷いている。
軽く頭を下げたキャロルは改めて、ヒューバートに向き直ったが、オステルリッツがそこで再び、キャロルの服の袖を引いた。
「レアールさん、話なら私もフォローしますから、ご自身の左手と首の手当てを、あまりなおざりになさらないで下さい」
「……むしろ、言わないで欲しかったかも。せっかく喋って気が紛れてたのに……」
左手の痺れもそうだが、右の首筋が、紙で指を切った時のように、痛い。
首筋を指でなぞれば、うっすらと血が付いてきた。
「いやいや、紛らわせないで下さい⁉脳筋集団が訓練中に我慢大会と化しているのと、事情が違うんですから!」
「えっ、私、脳筋じゃないですよ⁉」
「いいから、とりあえず座って下さい‼」
桶に入った水と、布が資料室に持ち込まれたところで、オステルリッツが無理矢理キャロルを近くに座らせた。
『
今更ながらヒューバートも、キャロルの服の首元に、血が滲んでいるのに気が付いたらしい。
やや顔色が悪くなっているのを、チラリとキャロルが見やる。
『まぁ…誰につけられた傷かは、おいおい話すね。多分、あれもこれも、背後の糸は一本のようだし、そこも順を追って。その後、私も――聞きたい事があるんで。内容は…想像出来るよね?』
『……っ』
『あの……』
そんなヒューバートとキャロルの間に、呆然としたような、ハシェスの声が割り込んだ。
『この
『……まずは、そっちだよね』
キャロルはもう一度息をついて、話し始めた。
ルフトヴェークの侍従武官を名乗る青年が、カーヴィアルではなく、ディレクトアの駐在官邸に倒れ込んだ事を、まずオステルリッツが告げて、キャロルが訳した。
ルフトヴェークでの
『兄さん……っ』
財布を握りしめたまま床に崩れ落ちたハシェスを、その場の全員が、痛ましげに見やった。
『多分だけど…カーヴィアル国内で遭遇したのなら、あなたのお兄さん、大使館関係者だと思われたんじゃないかな。そうでなければ、駆け込んだ先のディレクトア駐在官邸が、無傷で済んだ筈がないから。大使館関係者なら、急襲するのに一石二鳥だと、その場では誰も深追いしなかったんだと思う』
『―――』
『
『うーん…事態はもっと姑息で、残酷で、複雑…かな』
『何?』
話をしながら、キャロルが僅かに顔をしかめたが、それは、腕に触れる井戸水の冷たさにであって、ヒューバートに威圧されたからでは、もちろんない。
キャロルが後を引き継いだ、ルフトヴェーク語での会話は、クルツが口述筆記の要領で、エルフレードとオステルリッツに内容を教えている。
『ただ、
いったん言葉を切って、キャロルはヒューバートの顔を覗き込んだ。