とりあえずシッミ―ってのはどうだ?
こ、この人は……! 本当に自分の立場を分かっているのだろうか?! ……いや、そもそもお嬢様はまだ十二歳。本当は『まだ十二歳』ではなく『もう十二歳』と言いたいところだ。
やはり頭がちょっとあれなせいで、今の自分の立場を理解するのは少々難しいのか……?
アザレアをスラム街の孤児だと知らせず、ラナンキュラス家の養子として迎え入れさせた後に、アザレアの正体を知ったラナンキュラス家ご夫妻はきっとお怒りになる。
だったらここは最初から素直に話すべきだ。アザレアの出自について――
「あなたって本当に心配性よね。たまに心配しすぎてあなたが倒れないか心配になるわ」
「だったら……俺に心配させるような事しないで下さいよ。これじゃあお嬢様のせいで胃に風穴が空きます」
そうなったら一週間どころか一ヶ月くらいの休暇を旦那様にお願いしよう。
「リヒト。あなただったら分かるでしょ? あのご夫妻なら大丈夫だって」
「それは……」
お嬢様の言葉に俺は黙り込む。右拳に力を込めて視線を下に投げた。
確かにあのご夫妻ならば、アザレアがスラム街の孤児だと知ったとしても、きっと笑顔で迎え入れてくれるだろう。
そう、あの時の俺のように――
「記憶のなかったあなたを保護してくれたは、他の誰でもないあのご夫妻じゃないの。得体の知れない、素性も知れなかったあなたに温かい食べ物を与えてくれて、着る服も与えてくれた。そして今の居場所までも与えてくれたのですよ」
「お、お嬢様それは――!」
「そんなご夫妻だからこそ、アザレアの事をお願いする事が出来ると思うのです」
窓の外を見つめていたお嬢様は、こちらに目を向けると優しく微笑んだ。その姿を見た俺は力を込めていた拳を解き、苦笑しながらお嬢様へと頭を下げる。
「そうですね……。お嬢様の言う通りあの方々ならきっと――」
俺は目をつむってあの時の事を思い出す。
「何だお前、こんなところに座り込んでどうした?」
「っ!」
真冬のなか行き場がなかった俺は、薄い毛布に包まりながら路地裏に身を潜めていた。そこを偶然通り掛かったユリウス様が俺に気がつくと、しゃがみ込んで顔をじっと覗いてきた。
「な、何だお前……! あっちに行けよ!」
「ふむ……この我の事を知らないのか? なぁ、少年。お主はなぜこんなところに座り込んでおる? 寒いのか?」
「み、見れば分かるだろ!」
「そうか……では、我と共に来い」
「は、はぁ?! あんた何言ってんだよ! こんな見ず知らずのガキを助けるって言うのか? はっ! それとも奴隷にでもするつもりか?」
毛布の中で緑色の瞳を鋭く光らせながら、真冬の夜に輝く翡翠色の髪を持った男を睨み上げた時、首根っこを掴まれた俺の体は軽々と持ち上げられた。
「うわっ、何だこの軽さは。お主まともにご飯も食っていないだろ?」
「ばっ! は、放しやがれ!!」
「黙れ少年。大人しく我に助けられろ」
「っ!」
その言葉に恐る恐る顔を上げ、ユリウス様の金色の瞳をじっと見上げた。そんな俺に気がついたユリウス様は、優しく微笑むと頭を優しい手つきで撫でてくれた。
そこからユリウス様の温かい何かを感じ取った俺は、ユリウス様の優しさに触れてみっともなく大声を出して泣き出してしまったんだ。
「よしよし、もう大丈夫だ。お前の事はこの我がどうにかしてやろう」
ユリウス様に優しく背中を擦られながら、俺はラナンキュラス家の屋敷へと足を踏み込んだ。
それから自分の名前の事や、両親のこと、どこからやって来たのかという事を尋ねられたが、俺は全ての事に対して頭を左右に振った。
「なるほど、記憶を失っているのか」
その時部屋の中には、お嬢様のお父様であるアース様もユリウス様に呼ばれてやって来ていた。
「アース。お主もこの少年の事を見たことがないのか?」
「あぁ、残念ながら見たことないな」
アース様は座っていたソファーから立ち上がると、俺の前に立ってまじまじと顔を覗き込んできた。ヴァイオレットモルガナイト色の瞳の中に、不安そうにしている自分の顔が映り込んでいる事に気が付き、俺は視線を左に逸した。
「金髪に……緑色の瞳か……。おそらくどこかしらの貴族の出だろうが、今のところ行方不明届けは出てないな」
「そうか……では、この少年の家族を見つける事は難しいか」
「まぁ、そうだな。だったらいっそ、お前ん家で引き取ったらどうだ?」
「我の家でか? 我とカトレアは別に構わぬが、なんせこの少年は頭を中々縦に振らんのだ。理由を聞いても『嫌だから』の一点張りでな」
「まじかよ!? あのラナンキュラス家の養子になれるって言うのに、珍しいガキも居たもんだな。……あっ、記憶がないからラナンキュラス家って聞いても分からないか」
ユリウス様とアース様はどうやらこれからの俺の行き先について議論しているようだった。その頃の俺は別にラナンキュラス家の養子になっても構わないと思っていた。でも俺は何故か『嫌だ』と思ってしまった。理由は分からなかったけど。
俺は首から下げていたアンティーク調の懐中時計をじっと握りしめた。
この懐中時計は記憶を失った時にはもう俺の手の中にあった。しかし懐中時計のガラスにはひび割れが走っていて、壊れているのか時計の針も16時44分を指したところで止まっている。
「なら、少年。俺の屋敷で執事見習いをやってみるってのはどうだ?」
「え?」
執事見習い? それって何だ?
「おい、アース。この少年を助けたのはこの我だぞ。なのに勝手に決めてどうする?」
「まぁまぁそうお硬いこと言うなよ、ユリウス。俺とお前の仲だろ? それに執事が一人欲しいと思っていたのは事実だしな」
「執事が一人欲しい? ……あぁ、なるほどそう言うことか」
「そう、そう言うこと。だから一先ずここは俺に任せてもらえないか?」
ユリウス様は深々と溜め息をつくと渋々と頷いて見せる。了承を得たアース様は歯を見せてニカッと笑うと、俺の体をひょぃと抱きかかえた。
「なっ!?」
「おっ、本当にお前って軽いんだな。男のくせにひょろっちぃ。これからはちゃんと食っていかないと大きくならないぞ。それに体力負けするからな」
「は、放せ!! 俺をどこに連れて行くつもりだ!」
俺はバタバタと体を動かしながら、何とかアース様から逃れようとした。しかしがっしりと体を抱き抱えられているせいで、全然びくともしない。
この人……服を着ているせいで気づかなかったけど、思ったよりも体は鍛えられているんだな。腰に剣があるって事は剣士が騎士なのか?
それにさっき言っていた体力負けするってどういう意味だ? まさか本当は執事見習いにする気がなくて、剣士か騎士にでも育て上げるつもりなのか?
アース様によって馬車の中に連れ込まれてからようやく開放され、俺は居心地の悪さを感じながら窓の外をじっと見ていた。
「そういや、ちゃんとした自己紹介をしていなかったな。俺はアース・フレア・ド・アウラ・ロベリアだ。まあ名前は長いからアース・ロベリアって覚えとけ。そんでお前の事はユリウスからちらっと話は聞いてる」
「……そうかよ。それで俺をどうするつもりなんだ? 剣士にでもするのか?」
「剣士? いやいや、そんなひょろっちぃ体格で剣なんてもたせられるかよ。さっき言っただろ? お前はロベリア家で一ヶ月執事見習いをやってもらう。まぁ剣士になりたいって言うんならそれでも構わないが、なんせ俺の息子たちは手加減ってもんを知らない。大怪我したいってんなら止めはしないが?」
「うっ……」
ひょろっちぃってうるさい人だ。確かに今はひょろっちくて背も低い。子供だから力で大人に勝てるわけがない。だったらいっそ、一ヶ月間執事見習いって言うのやってみるか? もしやってみて駄目だったら、今度はユリウス様に頼んで養子にしてもらおう。
うん、そっちの方が下手に怪我とかしなくて良さそうだし何より楽そうだ。
「剣士には別になりたくない。だから執事見習いって言うのやってやる」
「おっ、言ったな。今の言葉忘れないからな、少年。いや……ずっと少年って呼ぶのもなんか可哀想だな」
「別に良いし、名前なんてあってもなくても」
「それは駄目だ。名前と言うのは、その人個人の存在証明をしてくれるものだ。まぁ身分証明書みたいなやつだ」
「は、はぁ……?」
「名前は……そうだな。正式な名前は後で決めるとして、しばらくの間は『シッミー』なんてどうだ?」
「……っ」
その名前に僕は分かりやすいように表情を歪めた。
は? シッミー? 何だその名前。めちゃくちゃダサくないか? てか、何でシッミーなんだ?
「なんだ、嫌なのか?」
「嫌に決まっているだろ! 何だよ、シッミーって!?」
「ん? 『執事見習い』から取って『シッミー』にしたんだが、分かりにくかったか?」
いや、分かりにくいだろ。この人まさか本気で『シッミー』なんて名前が良いと思ってんのか?
「そんなダサイ名前! 絶対に名乗らないからな!」
「う〜ん、そうか〜。実は俺の息子も娘も妻が名付けてくれていてな。俺が名付けようとすると決まって妻に『あなたはやめて』って言われるんだが、やっぱり俺が考えた名前はダサイのか?」
「……その人がそう言うなら、そうなんじゃないのか?」
一体この人は自分の子供名前にどんな名前を付けようとしたんだ。