⑥
海の向こうの王子様。そんな存在が近くにいたなんて。
夜、建物の屋根裏の部分にあたる小さな自室で髪にブラシを入れながら、サシャはぼんやりと考えた。
もう夜半をとっくに過ぎていて、月は真上を越していた。弱い月の光が窓から入ってくる。
小さなアパートの一部屋を間借りしている、サシャの自宅。
借りているのは、リビング兼ダイニング。
父の部屋。
自分の部屋。
その他、風呂やトイレなどくらいしかない、小さな、小さな家。そんな自分が海の向こうの王子様という身分を持ったひとと話したなんて信じられなかった。
ふわふわの髪はもつれやすいので、サシャは毛を切らないように丁寧にブラシでとかしていく。お風呂に入って、髪も洗って、トリートメントをしてタオルで水分オフ。今日の仕事では、アップにまとめて整髪剤で整えたので、固めた状態になっていていつもより念入りに洗う必要があった。なので必然的に、髪も多少は絡まっている。
髪の手入れは少々手がかかるが、もうすっかり慣れている。なので髪に過度に集中する必要はなく、考え事をしてしまっていた。
昨日、夕食を共にしたシャイのこと。ヒミツの話……それは『ヒミツ』どころか機密事項ともいえるほど壮大なものであったのだけど……まぁ、そういう話をしたこと。
そのときは、変わらない、と思った。
でも自分がそれを知ってしまったという事実はある。
それは確かに『変わってしまった』こと。
シャイは自分の前ではただのカフェウェイターでいたいと言ってくれた。
それがどんな意味かはわからない。単に『王子という身分を意識したくない』という気持ちかもしれない。けれど、『自分のことを、ただの女の子として扱いたい』としてそういうふうに言ってくれたのなら。
王子様なのだ。庶民の、そして立派とは言えない……バーで歌って生計を立てているような、どちらかと言うならば卑しい身分にも近い女子を本来、そのように扱ってはいけないだろうから。
シャイはいつもサシャに良くしてくれる。一人の女の子として、対等に接してくれて。自分もその関係を続けたい、とサシャは思う。
だから。
髪も綺麗にとかし終わって、サシャはブラシを置いた。
心に決める。
昨日、聞いたこと。無かったことにはできないし、しない。
けれど、自分にとってはシャイ。『ロイヒテン様』ではない。
なにも変えやしない。彼がそう望んでくれたのだから。それならサシャがなにか変えてしまうほうが彼をがっかりさせてしまうだろう。
だからいいのだ。このままで。
そろそろ寝なければ、と思う。明日も学校だ。サシャの通う学校は朝が遅いほうで、だからこそ夜遅いバーの仕事なんてことも並行しておこなえているのだが、流石にもう寝なければ。
寝支度を整えてベッドに入る。しかしなかなか寝付けなかった。
シャイ。
ロイヒテン様。
その、二人であり一人である人物のことが、交互に頭に浮かんでしまった。