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第6話 そよ風のような教誨師

私達の部屋の家具は白を基調に揃えられている。それは紅葉さんが推したコンセプトを飲まされた形だ。私が決めたのは主に家具の形状である。私にとって家具の高さというのもセンスある部屋の条件で、クローゼットなどは低めに統一した。

総合して、結構高校生にしてはいい部屋に住ませて貰っていると思う。風変わりなところをあげるとしたら、中田愛弓のグッズで溢れていることくらいだろう。

「明日さ、元町に服見に行かない?」
紅葉さんがソファでパソコンをカチャカチャしながら尋ねる。
「なんか、そこまで頻繁にデートしてたら逆にアリバイ工作感半端なくないですか?」
「いいじゃん。そこまで誰も気にしてないって」
ここぞとばかりに彼女はこちらに近寄ってきた。紅葉さんに好き放題デートをする口実を与えてはいけなかったかもしれない。

あの一件の翌日から、町から飛び出すようにして私は横浜で紅葉さんと同居していた。付き合っている、というわけではない。オソノイを好きだという気持ちを持ったまま紅葉さんと付き合うことは不誠実だと思えた。それでも、私の中で紅葉さんの立ち位置はどんどん大きくなっていくし、同居生活もまあ、理想的な日々だったといえる。

あの計画を飲んだ10月20日。私は条件通り、オソノイとの交友は一切断った。彼女を説得して出ていくことは難しいと考えて、何も言わずに飛び出した。だってさ、女子高生二人での新天地同居なんて、親よりもオソノイの方が認めてくれないもん。

それから私は、心配したオソノイからの連絡を捜索届を出されない程度にいなす方法についてずっと考えていた。しかし、オソノイからの連絡は一切来ず、失恋経験者の紅葉さんにずっと慰めてもらっていた。私も大概恋愛にはポジティブだが、これって事実上の失恋なんじゃないかという気づきには目を逸らしている。

今の私達の仕事は、紅葉さんとの仲の良さをSNSでアピールすること。これはもちろん、オソノイへの疑いを薄めるためである。それに、親密な友人を他に作るとそっちにも被害が及ぶから、紅葉さん以外との関係は断ち切らなきゃならない。周りからは病んでるタイプのカップルと思われていることだろう。

そんなこんなでみなとみらいからシーパラダイスまであちこちに義務観光をしたのだが、正直楽しんでは、いた。一線を超えることは避けていたし、紅葉さんも気を使ってくれてはいた。でも、そうはいっても同居をしている以上徐々に私達の距離は縮んでいくことは避けられなかったし、紅葉さんは私を口説くチャンスだと思っているんだから、オソノイとは考えもつかなかったようなデートや同衾などもする機会があった。

それでも未だにオソノイの事を思い返すと胸が痛んだし、くじらの小部屋を見返す日課はずっと続けていた。彼女はSNSをやっていないから、現状を知れないのが残念だが…。

そんな日々も五ヶ月を過ぎた頃、とうとう『メトロトレミー』の舞台が発表された。反応は凄まじく、当時の思い出を語る人が増え、中田愛弓にも再びスポットが当たったりもしていた。中田愛弓を出せ!という声も多かったが、舞台の大失敗を知っている私からすれば、彼女は一切関わってほしくなかった。それに亜萌天子は中学生のキャラだし。

引っ越し一つ取っても、色々なやらなきゃいけないことがあって、大概多忙な半年だったといえるだろう。

なのに何故か。

くじらの小部屋のサイトに新着の更新を見つけた時、私はようやく時計の針が進み始めた感覚を覚えていた。

辻凜花:今まで世話になったが、私はこれ以上いられないようだ。舞台も楽しみだな。皆ももう、『メトロトレミー』に興味はないかもしれないが、一度、観に行ってみるといいだろう。

それは、三年ぶりの投稿だった。毎日チェックしていたものが突然更新されると、なかなか実感が湧かない。内容に関係なく、条件反射的に喜びが溢れる。

そしてそれは本当に条件反射に過ぎず、内容を読み込んだ私はすぐにオソノイに電話していたのだった。

XXX

私の電話はオソノイではなく彼女の母親が受けてくれた。
「瑞羽ちゃん。あの子はピンピンしてるから大丈夫。なーんにも気にしてないから、今月の間かな?ちょっと暇な時だけ顔を出してあげて」
私が泣きそうな声をしていたからか、優しい声ではあったが、今月の間という言葉から彼女が危ない状況にあることは察せられた。

私は「はい、はい」としか言えず、病院の場所を聞くとすぐに、新幹線で市内の病院に向かった。紅葉さんも一緒だ。

「オソノイ、そんな病気だなんて一度も言ってなかったんです!」
「とにかく、まだ間に合うよ。急ごう」

私はくじらの小部屋に返事をしようかとも思ったが、これからの事を考えるとそれも憚られた。
甘王寺高校の近くにまで帰ってきた私は、走って病院に向かう。

「瑞羽ちゃん、あれ!」紅葉さんが叫ぶ。
病院の手前には、背筋の曲がった、いかにも学校に行ってませんという感じの青髪をした女が待ち受けていた。長身痩躯という言葉がぴったりで、顔は綺麗なのだが自ら影を作るような暗色の重いメイクをしていた。

「よっ」
病院道中の壁に寄りかかった彼女が軽く手を挙げた。
「青葵…」
「よく分かったな。写真、見たことあったんだけ」
私は紅葉さんから彼女の写真を見せて貰っていた。正直ひきこもりの彼女と会うことになるとは思っていなかったが、予想に反して彼女の立ち振るまいはとても堂々としていた。

「青葵。なんでここにいるの」
「あんたと一緒さ。大事なくじらの小部屋のお見舞いにな」
彼女の表情は、信じられないことに愉悦に満ちていた。まるで、「ざまぁ」とでも言いたげに。

「青葵。頼むよ。もうこんな事やめて。人が死にかけてるんだよ」
「あんたなぁ。私何もしてないじゃん。勝手にオソノイから離れたのは播川瑞羽で、勝手にくたばろうとしてるのは辻凜花…オソノイで、そしてその二人を離れ離れになるよう仕向けたのはそこの秋窪紅葉だ」
「じゃあ、どいて」
「別に立ち塞がってねえだろ。挨拶しただけ、こんな細いワタクシが道路を塞げるわけないじゃん」
紅葉さんが「行こう」と青葵の方へ向かっていく。

言葉の通り、沖宮青葵は道を塞ぐような事はしなかった。
そのまま私達が通り過ぎようとすると、青葵は大きな声で「そういえばぁ」と叫んだ。

「秋窪紅葉さんは、オソノイちゃんの病気のこと知ってたんだっけ~。死ぬギリギリまで隠してたってわけだ!やるじゃん!!」

沖宮青葵はわざわざそのことを伝えに来たらしい。背中しか見えないが、正面ではきっと喜色満面の笑みを浮かべていることだろう。秋窪紅葉は動揺して速度を緩めたが、私は時間が惜しく、彼女を置いてオソノイのところへ向かった。

XXX

〈オソノイ目線〉

近頃の私はといえば、すっかり病人らしくなっちゃって、薬は発作の痛みを和らげるだけとは聞きつつもすっかり頼っちゃったりしている。副作用的なサムシングで大胆なダイエットにも成功していた。

最近は、『メトロトレミー』の舞台開演までは生きていたいという目標ができたが、ちょっと果たせそうになくてそれが心残りにはなっていた。

そんなわけで、余命間近の私はVtuber小田之瀬積み香の配信を嗜んで、それ以外の時間には仏教の本とか歴史の本を読み漁っていた。元々人と会話が噛み合わないことでお馴染みの私だったが、最近は家族とも会話が噛み合わなくなってきていた。死の恐怖でおかしくなったというわけでもなく、単に投げやりになっているだけである。

でも今日起きてから、|そ《・》|ろ《・》|そ《・》|ろ《・》|だ《・》という気がしている。死期を悟る、なんてかっこいいもんじゃない。私の病気なんて心臓以外には大した症状もないにも関わらず、視界が霞んでいるのだ。こんな状態になれば誰だって自らの死期が近い事は分かるだろう。

それに加え、瑞羽ちゃんの幻覚も見えてきた。これが走馬灯という奴だろうか。

病院に来てくれた彼女は、いつも罵倒してくる脳内瑞羽ちゃんとは違い、私を見てとっても悲しい顔をした。
「ねええ、オソノイ。死ぬってほんと?」
どう見ても死にかけじゃない?とも思ったが、叱るより前にまず涙が溢れてきた。末期というものは涙もろくなっていけない。でも泣いてちゃいけない。これはチャンスなんだから。

「瑞羽ちゃん、病気のこと、言えなくてごめんね」
私は、この幻覚が神に親しい|某《なにがし》かからの計らいだろうと思った。だから、瑞羽ちゃんに言いたくて言えなかったことを打ち明けることにした。
きっと、私にとって。打ち明けることこそが大切なのだから。
「ねえ、瑞羽ちゃん。私さ、多分もう少しで死ぬんだけどさ。『メトロトレミー』の舞台あるって話みた?あれさ。一緒に観に行きたいんだ。瑞羽ちゃんと、一緒に」
これはきっと叶わない夢だと想う。今私が目にしている幸せな幻はきっと最期のご褒美で、神様はきっと、死に際誰にも看取られない人には一律でこんな幻を見せてくれているんだろう。そう思った。

そうだとしても、私が死ぬまでにしたいことといえば、瑞羽ちゃんに今更だろうが病を打ち明けることと、舞台を見ることくらいだった。いや、本当は瑞羽ちゃんがきっと開いてくれるであろう、お別れ会のような物の妄想をしたこともあったのだが…。

瑞羽ちゃんは私の手を両手で包んで、「うん、ひっぐ、うん」と泣きじゃくりながら繰り返していた。
声を出すのもやっとな瑞羽ちゃんは、いつも脳内に思い描いている冷たい瑞羽ちゃんと違って、とっても優しくて、私を拒絶する素振りなんて、微塵も見せなかった。でも、いつも私を傷つけた脳内瑞羽ちゃんと違って、この子こそが、私の好きだった瑞羽ちゃんなんだと思った。そうだ、冷たい子じゃないのだ。何故私はあそこまで真実を打ち明けることを怖れていたんだろうと思う。
死の間際になって、私の想像力が限界を突破したのだろうか。

瑞羽ちゃんは私の手を擦り続ける。死に際っぽいことするなあ、と思いながら私は彼女の頭に手を伸ばした。これだけは絶対に言わなきゃいけない。
「ありがとう。瑞羽ちゃん。ずっと一緒にいてくれて。私さ、どうせあのままじゃ一人だったと思うし、瑞羽ちゃんがいてくれてよかったと思う。ほんとに。それに、流行を沢山教えてくれたおかげで、私Vtuberにハマったりしてさ。瑞羽ちゃんがいないと、きっと私の人生、つまらなかったと思うから」

私が頭を撫でると、彼女も感情を爆発させる。
「オソノイイイ。私も、遠ざけたりしてごめん。うああああああん」
やっぱり無視してたんかい、とショックを受けたが、落ち着いて話を聞いてみると、彼女は引っ越していて私が学校に来ていなかったことも知らなかったらしい。

私が引きこもると同時に引っ越すなんてすごい偶然である。死の際の想像力とはここまで凄まじいか。そこから彼女は、堰を切ったように話し出した。

「ずっと黙ってたことがあるの」「私くじらの小部屋の亜萌天子だったの」「それでオソノイが辻凜花の正体だって気づいてずっとつきまとっちゃってたの」「オソノイのことを中学時代から探していたの」「私は『メトロトレミー』ファンの中でも過激派だったの。…脅迫犯なの。それで、ずっと話を避けてたの」

要約するとこんな感じだが、大抵は「それ死の間際にいうことか」というようなことだった。それでも彼女は、どうやら本気で悩んでいたようで「ごめんね…ごめんね…」と繰り返していた。確かに、くじらの小部屋のメンバーの事は気にかけていたが、それが瑞羽ちゃんだなんて事あるはずがない。

神様もこういう伏線全部終盤に回収しちゃってごちゃつくみたいな事あるんだぁと笑って流す。でも、ちょうどいい機会だから、くじらの小部屋に対する未練も晴らすことにする。

「私さ、あの舞台実は中学の頃から楽しみにしてたんだよね。あの時の私はさ、ネットで知り合った人と現実と会うなんて考えもしなかったけど、もし瑞羽ちゃんだって分かってたらさ、絶対に誘ってみた方がよかったよね」瑞羽ちゃんは俯いて涙を零しながら震えている。「一緒に入れたら絶対楽しかったよ」と私は言い切った。

瑞羽ちゃんと仲良かったのはたった一年だが、くじらの小部屋で一緒にいられたのなら、もうすぐ五年来の大親友だ。なんとなく私は彼女の頭を撫でながら言った。「舞台まであと一月らしいんだけどさ。それまでは頑張って生きたいと思ってるんだ」

瑞羽ちゃんはずっと泣きじゃくっていて、キャッチボールをしているというよりはお互いの語りをずっと続けているしかない状態だった。しかしようやく落ち着きを取り戻し、初めて会話成立の兆しを見せていた。

「きっと、私達が望んでいるような舞台じゃないよ」
あまりにぞんざいな物言いに思わず笑ってしまった。その舞台、わしの最期の生きがいなんやが?

「なんかさ、昔『メトロトレミー過激派』とかっていってそういう風な事いう人達いたよね。でもさ、出来はどうだっていいよ。舞台観に行くのは夢みたいなもんだし、瑞羽ちゃんと一緒に行ったならさ。くじらの小部屋の頃みたいに、凜花のセリフ回しがダメだったとか愚痴りまくるのも楽しそうじゃない?」
そういうと、ようやく瑞羽ちゃんは少し笑った。
「そうだね、オソノイはセリフに厳しいもんね」
くじらの小部屋での出来事が彼女に憶えられていることが恥ずかしいが、私も笑った。

すると、瑞羽ちゃんは意を決したように顔をあげた。
「本当はさ、オソノイが楽しみにしてるような舞台はないんだよ。舞台ができる最後のチャンスはあの時だったんだ。あの頃の、中田愛弓じゃないと。あの時しかなかったんだよ。今は全員が、自分のことばっかりで、誰も『メトロトレミー』の事を考えてない」
それは懺悔のような言葉だった。彼女が何を知っているか分からないし、言っていることも半分は分からない。でも何かが彼女を苦しめているようなのは間違いないと思った。

私は彼女を抱きしめて言う。
「私さ、よく分かんないんだけど。ダメだったなんてことはないと思うよ。きっと今回ダメだったとしても、|本《・》|当《・》|に《・》|好《・》|き《・》|だ《・》|と《・》|思《・》|う《・》|気《・》|持《・》|ち《・》さえ残っていればさ、舞台はいつかは絶対に成功するよ。今日だってきっとその気持ちがあったから、私達はこうして逢えたんだと思うよ」
口に出してすっきりした。私と瑞羽ちゃんのはこの一年間すれ違っていて、結局最後まで再開は出来なかった。でもこうして瑞羽ちゃんの本当の姿を思い出すと、彼女もどこかで私を思っているんだということが分からない私ではない。お互いを本気で思いあっているから、逢えないなんてこと関係ないんだ。それを伝えるために、この天使は私の元に舞い降りたのだろう。

瑞羽ちゃんは、「そうだよよね」といって立ち上がった。すると、悲痛な面持ちで「ちょっと待ってて」といって飛び出していってしまった。

心地いい風が病室に吹き込んだ。私がうとうとし始めているというのに、外からは口論する声が聞こえてくる。あれ、あの瑞羽ちゃん、もしかして本物だった?

XXX

〈播川瑞羽目線〉

私はオソノイの病室を出ると、すぐに沖宮青葵に掴みかかった。彼女は直接私が後悔する瞬間を見に来ていたのだろう。青葵は胸ぐらを掴まれ私と目を合わせようとしないながらも、口元には嘲るような笑いを宿していた。
そして言い放つ。

「お前のせいだからな。あの女は、お前が傷つけた『メトロトレミー』のファンの代表だ」
彼女は用意していたセリフを吐いたが、今の私にそんなことを気にかける余裕は生憎存在しなかった。

「青葵、阿古照樹できるでしょ。ずっとなりきってたんだからさ」
青葵は「は?」というような顔を見せた。
「何勝手なこと言ってんのさ。そんなこと、するわけないだろ」
私は言い返す。
「何言ってるの。するの。青葵も聞いてたんでしょ!今、ここに、『メトロトレミー』を|本《・》|当《・》|に《・》|好《・》|き《・》|だ《・》|と《・》|思《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|る《・》のは、オソノイしかいないの!本当にあんたの大好きな『メトロトレミー』の舞台をできるのはオソノイのいる間だけなんだよ!」

青葵は言う。
「『メトロトレミー』はもう終わった。終わらせたのはあんただろうか」
「じゃあ復活させる」
「お前自分が何したかまだ分かってないんじゃねーの?」
「青葵は今自分が何してるか分かってない」
「復讐。復讐だよ」
「その復讐は何のためなの?『メトロトレミー』のためだったんじゃないの?」
「ああ、そうさ。散っていた奴らの分含めて、お前の人生ぐちゃぐちゃにしてやる」
「本当に『メトロトレミー』の事を思ってんなら、|オ《・》|ソ《・》|ノ《・》|イ《・》がどれだけ『メトロトレミー』オタクか知っているあんただけは、オソノイに、舞台を見せなきゃなんないでしょ!」
青葵は少し黙った。彼女は私の事はだいっきらいだが、オソノイの事はそれほど恨んでいない事は知っている。

「一ヶ月で仕上げる。オソノイが死ぬ前に『メトロトレミー』の舞台をやり遂げないと、私の本当の贖罪は果たせない」

宣言をしながら、私は思い出していた。彼女と出会った頃の事を。

XXX

春の教室でのことだった。
「皆さん、初めまして。|小園井音《おそのいおと》といいます。中学の頃は、ずっと『メトロトレミー』のなりきりチャットルームにいました」
自己紹介の時間は、私語に寛容だった。木々のざわめきと少女達の囁き声は教室内で混ざり合って、当時の私にはまるで隠者の邪な噂話のようにも聞こえていた。

そこで彼女は臆することもなく「なりチャ」、なりきりチャットルームの事を言い放ち、自分の席に座った。その様子を、罪に囚われたままの私はぼーっと見ていた。

どうして、あんなに負い目なく『メトロトレミー』を大好きだと言い放てるんだろう。

不思議に思った私はこっそり声をかけた。「オソノイ、ちゃんだっけ?私も『メトロトレミー』好きだったんだ」彼女はこちらを見ずにいった「そうなんだ、でも私は小園井だから、オソノイじゃないよ」
「オソノイは、なりきりチャットしてたって、珍しいよね」
「だから、小園井だってば。そう、くじらの小部屋っていうんだけどさ」
「…それ、とんでもなく恥ずかしいから、あまり外で言い触らさないほうがいいよ」

そういえば、出会った頃のオソノイは、今よりもっと冷たかった。
でも中学生の頃からずっと変わらないものは、オソノイの『メトロトレミー』に対する想いだけだった。

XXX

「青葵さん、紅葉さん。聞いて下さい。私達はあの頃の失敗を乗り越えなければならないと思って、ずっと憎しみ合って、色々あったと思います。でも、彼女の、|オ《・》|ソ《・》|ノ《・》|イ《・》|の《・》|黒《・》|歴《・》|史《・》|は《・》|ま《・》|だ《・》|終《・》|わ《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|な《・》|い《・》んです!」
彼女は終わって久しい『メトロトレミー』のことが好きで、事件なんて関係なく純粋に内容そのものを愛していた。

それを聞いて、青葵は、何かを考えているようだった。横では紅葉さんが私の機嫌を伺うように目を向けてきている。私を落とすためにオソノイの病気を黙っていたという話を気にしているんだろう。そんなことはどうだっていい。私なんかのことはいいんだ。でも個人的な感情で、オソノイを傷つけたことは許せない。

「秋窪さん。すみませんが辻凜花の役をお願いします」
「え、私かい?」
「それと、中田愛弓さんに亜萌天子役として登場して貰います。連絡お願いします」
紅葉さんは困惑していたが、これからも私と一緒にいたいならそれくらいしてもらわなきゃならない。

「オソノイの余命は長くて一ヶ月だそうです。今から全力で舞台を作って、公演に間に合わせます」

なんとしても舞台をやり遂げてやるんだ。私は彼女に、一ヶ月間生き延びてほしいと、一緒に舞台を見に行こうと誘うため、病室の扉を開いた。

病室の窓からは日差しが差し、彼女と出会ったときと同じような桜が咲いていた。
ベッドには積み重ねられた本と、落ちた舞台『メトロトレミー』のチケット。
彼女はもう、そこにはいなかった。

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