サクラさんが霧散するように消えてしまった。
朝六時に起きてテレビのニュースを何気なく、コーヒーを飲みながら見ていた。そのなかで、私は一瞬他人のことを報道していると思っていた。でもその画像には私たち二人が、つまり私と潤子が出会ったかけがえのない友人であるサクラさんの姿が映っていた。途中からの映像だったので、初め一体何が起こっているのかわからなかった。でも注意深く聞いてみると、東京に飛行機で向かったまま、十日間音信不通だという。私はサクラさんと出会った時の印象を思い浮かべた。彼女の晴れやかな、純粋な笑顔、そして何もかも見透しているような瞳。私の心を見つめて全てを理解してくれたような安心感を与えるその姿。いつまでも少女のような純真で、それでいてちょっと意地悪を企んでいそうな雰囲気。でもそれは本当の悪意ではなくて、いたずら心をもっているという感じ。そのサクラさんが行方不明?誰かに拐(さら)われたのだろうか。それとも自分の意志で何かの理由があって消え去ったのか。私はサクラさんの携帯番号とメールアドレスを知っている。それで彼女の携帯に電話を掛けることにした。
コール音が十秒ほど続いた後に女性の声がした。
「はい、小林です」
「こんにちは、高瀬です。サクラさんですか?」
「サクラの母です。サクラのお友達ですか?」不安の入り交じった声だった。
「サクラさんのお母さんですか。テレビのニュースを見て、お電話したのですが。サクラさんは大丈夫でしょうか?気になって」
「携帯電話を置いて出て行って。それで警察に連絡して、飛行機で東京に向かったことがわかったの。今までこんなことなかったのに。必ず行き先を告げて時間通りに帰ってきたの。高瀬さんって言ったわね。何かサクラのことを知っていないかしら?」
「いいえ、でも東京に向かったのなら、私にできることはあるかもしれない。でもご両親にも伝えなくて何か動機はあるのでしょうか?」
「さあ、どうかしら、ただ無事でいてくれたら、それだけで良いんです」
「何かサクラさんのことが分かったらすぐに連絡します」
「ありがとう。ほんと、感謝します」電話を終えると私はソファーに座り、天井を見上げた。テレビは他のニュースを放送していた。この間にもサクラさんの身に危険が迫っているのだろうか。サクラさんのご両親はさぞかし心配だろう。私も彼女のことが気がかりだ。東京には何の予定があったのか。誰かと逢う約束でもしていたのだろうか。私でないことは確かだ。多分、きっと私に連絡をするはず。
私は後ろ髪を引かれる思いで会社に行くべくシャワーを浴びてから、給湯器で手早くインスタントコーヒーを淹れて、ソファーに座ってため息をついた。きっとサクラさんには理由がある。私はそんな気がして、きっと元気な姿をあらわしてくれる。そう信じた。ご両親もきっと大変だろう。こんな朝早くに電話にでるなんて。ひょっとしたら充分な睡眠もとれていないのかもしれない。私にできることはなんだろう。とりあえず、潤子にも話してみよう。私は会社に出社するべく準備をした。途中の駅のマクドナルドでいつものようにコーヒーを飲むことにした。ほんと、いつもコーヒーを飲んでいる気がする。店内は早朝にもかかわらず、客で賑わっていた。そこで私は潤子にメールを打つことにした。スマホを取り出して文章を書き込む。
「潤子、おはよう。テレビのニュースで見たんだけど、サクラさんが失踪したの。ひょっとしたら、サクラさんから連絡なかった?とてもお母様が心配していた。何か分かったら教えてちょうだい」
私は窓の外の風景を見ていた。ごく日常の何にも変わらない景色。人々が一日を始める為に歩道を歩いている。でもそんな身近なものが、サクラさんの失踪といったことで、こんなにも変化してしまうとは。時間がいとも簡単に過ぎていく。コーヒーは温かさを失い冷めてきて、何の味覚も感じないただの液体へと変わっていく。隣の席に座っている女子高生がしきりにスマホを操作している。大好きな彼氏に今日も会えることを楽しみにしているのだろうか。サクラさん、あなたは今、どこにいるの?コーヒーを飲み終わって席を立つ。路上に出ると暖かな風が私を包む。私はサクラさんのことを本当に心配しているんだろうか。どこか遠くの世界で起こっている出来事のような、そんな感じだ。でもそれは無理からぬことなのかもしれない。もう一度、彼女に会いたい。その思いは絶対に真実だ。彼女の利発な明るい顔、陰りのない瞳、それらが私の心に刻み込まれている。何故かサクラさんは自分の意志で雲隠れしたのではないだろうか。そんな気がする。理由はわからない。きっと自分だけのためではなく、たくさんの人たちに対する、なんて言えばいいのだろうか、難しくて答えが出ないけど、深い同情とか、愛の気持ちから行動を起こしたのではないだろうか。その感情を上手く表せないけど。ひょっとして駆け落ちとかだったり。
駅の改札を通ってホームで電車が来るのを待つ。日常の風景でこの瞬間が心地よく感じる。まるで生まれてきて新鮮な空気を吸い込むみたいに。まわりにいる人たちは何を考えて電車が来るのを待っているのだろう。これから行う会議について考えているのか。人の心を読む気持ちがなければ作家とは言えない。当然のことだけど。ましてや私は編集者だ。そんなことを思っていると、ホームに設置されている椅子の上に一冊の文庫本が置かれていることに気づいた。私は何か導かれるようにその本に向かって歩き始めた。そしてその本を手にとって表紙に注目する。題名は、私、月に行って来る。だった。そして作者はサクラ。これは何かの啓示なのだろうか。私はページをめくり、本を読む。電車がホームに入ってきたけど、そのまま乗らずに本を読むことに徹してしまった。その文庫本は漢字にとても多くひらがながふっていて、若い人にとても親切と言っていいほど、まるで優しいお兄さんのようだった。それはとても新鮮な文体で書かれていてショートケーキのように甘くて鮮度抜群のイチゴが乗っている、そんな印象を与えた。私は審判員のように小説をジャッチする。思わず引き寄せられる。誰にでも分かりやすいし、難しい文章は無い。心の底で何かがむずむずと呼び起こされるような感覚がある。十代に帰ったような気持ちで読むことができた。この小説はサクラさんが書いたのだろうか。確かに彼女の思想が反映されているような感じがする。なんて言ったらいいのだろうか、でも彼女から小説を書いているとは聞いていない。もしも書いているんだったらきっと言ったはずだ。それにしても良くできている。そして描かれている情景はまるで絵画のように濃密で自分自身の奥深くに潜り込んでしまう、そんな己の過去を未来を探求せずにはおかない力強さを秘めている。私はひとまず本を閉じて、目をつぶって吐息した。ホームに電車がちょうど入ってきたところだ。その電車に乗って混雑している車内の乗客のさまざまな香りがこれからの会社に出社するんだと感じさせた。ああ、このオーデコロンの匂い。まるでお父さんって感じさせる。このなんとも言えない静寂さは深海の底で活動している魚を思わせる。私は静かな鼓膜を微かに揺り動かす仲間の呼吸に意識を巡らす。肺が収縮して二酸化炭素を吐き出し、拡張して酸素を取り込む。生きている限り無意識にその動作を繰り返して私たちは生を営む。本当に人間て不思議だ。大好きな人には愛情を注ぐのに、大嫌いな人にはまるでゴキブリを見たときの嫌悪感をみせる。でも私たちに求められているのはそのゴキブリも好きにならなければならない。あるいはそこまではいかなくても優しい目で見つめることができなくてはいけない。難しいことかもしれないけど。私はそう言いながら、はたして自分が言った通りに行動しているだろうか。でも私のまわりに苦手としている人は正直いない。だからそういう人たちが出現した場合、どんな感情を抱くか自分では今のところわからないというのが素直な気持ちだ。きっと否定や、躊躇といった気持ちが心から湧いてきてしまう可能性は否めないけれど、初めて出会ったみたいな、新鮮というか驚きも会わせもったみたいに素直な気持ちで対したい。車内は独特な沈黙で満たされていて背広を着たサラリーマンたちがまるで戦場へ行く兵士に見える。私は第二次世界大戦の日本のことを思い浮かべる。そして現代のアフガニスタンを掌握したタリバンのことを。日本は戦争に負けたけど、タリバンはアメリカを追い出すことに成功した。これは考えると不思議な構図になる。日本はタリバンに劣るということなのか。私がその戦争を経験しなくても世界では紛争だとか、そのような大きな戦いじゃなくても世界の縮図である家庭の中に不和がある。まず、世界の平和を考える前に家族の環境を改善する必要があるのではないか。でも実際に人が人を殺すということが無くて、でも人を憎むことが蔓延しているこの日本国内にはまだ人々を正しく導く必要があるはずだ。その役割に娯楽がある。人はそれを求めているし、とっても必要なものだと思う。ただ単に、笑わすだけでなくてその心の内に温かく気持ちを振るわせるもの、自分自身を見つめさせるもの、それがもっとも大切なことだ。今多くの人は生活に追われて仕事に重きをおいていて、家庭を省みることができないでいる。何が真実であるのか、いったい自分の人生で貴重な、大切なものは何か、悩みながら、もしくは頭を空っぽにして生活している。他人の幸福よりも自分の益を考えて、それでは社会が良くなるはずがない。人々はそれを知りながら、その事に背を向けて歩んでいる。この世は人々の横の繋がりを分断しようとしてしている。人々が結びつくことに抵抗を示している。自分の利権を守る為に人々が真実を知ることができないようにしている。そうではないのか。でも、インターネットの広がりによって人々は自分たちは一人ではないことに気づきはじめている。この世には弱いもの、無知な者を食い物にして自分を肥やす人たちもいるのだ。そのことに段々と人々は分かって、その矛先は私たちを侮蔑の目で見ている人たちに向かっていくことだろう。その日が近づいていて、新たな覚醒を人々は遂げていく。私はその一人として小説を通して読者を啓発して文学がいかに重要で人々の心の傷を癒すのか、そのことを世に問いたい。
駅のホームに電車が到着すると、私は大勢の乗客と共に降り、会社まで歩いた。コンビニに寄ってサンドイッチと緑茶を買う。シュークリームが食べたかったけど、健康とダイエットを兼ねて買うのはやめにする。会社に着くとエレベーターで5階に上がる。社内はとても活気に満ちていて、心がとても沸き立つ。創造を司るこの会社で働くことができることに誇りをもつことができる。自分のデスクに座りノートパソコンを開いて起動させる。私の担当している作家たちが送ってきた原稿を見る。徹夜して、それこそぶっ続けで構想を立てて眠らずに文章を打ち続けたのだろう。そこには鬼気迫る迫力があった。自分の心から出た言葉によって人の心を揺さぶることができる。その為に作家は自分の命を削って寝食を忘れて書いている。私も見倣わなければ。昼食前までそれらの原稿を読んで、昼食にすることにした。自分のデスクでサンドイッチを食べていると、編集長の田崎さんが声をかけてきた。
「仕事は順調かい。何か変わったことはなかった?」まるでお父さんのような温かみのある声音だった。私はそのまるでアルトサックスのような音色に思わずため息をつきそうだった。田崎編集長はにっこりと笑って私の肩を軽く叩いた。
「ちょっと大変なことがあって。知人が行方不明になったんです。画家としてこれから世に出ようとしていた矢先で。ほんと心配なんですけど、きっと、杞憂に過ぎないって信じています。早く見つかるといいんですけど」私は心底心配な表情を見せている編集長に心からいとおしく思った。さすが感受性が鋭くて敏腕編集長だけあるな、と田崎さんのことを誇りにも感じた。
「私にできることがあればいいんだけど。いつでも相談に乗るよ。大変だね。きっといい知らせがあると思うよ。それまでとても心配だと思うけど、毎日一生懸命仕事をすることだ」
「はい、ありがとうございます。田崎さんに話すだけで少し気持ちに余裕ができました。仕事頑張ります」私の体がすうっと力が抜けていくのが感じられた。気を取り直して自社の小説投稿サイトへとアクセスする。最初に感じたのは、投稿されているのはみんな同じような世界観をもった異世界もので、読むに値しないようなものばかりだった。こんなのは小説ではない。ただ自分だけ楽しめればいい、そんな感じだ。話も似たり寄ったりな、小説の題名も読者にまるで媚びを売るような、なんとも情けないなと思うものだ。一般大衆が読むことはないだろう。同じような物語で、たとえ出版化されてもその発行部数は数千冊にしかならない。私が望んでいるのは、数百万、数千万冊を越える文学を創出することだ。そんな最近あるインスタントみたいな小説ではなく、世界に影響を与える文学を、それがたとえ困難な道であるとしても創出していくこと、それが私の命題だ。その為には一人の読者でいい、心を沸き上がらせ、自分にとっての史上最高の小説だと思わせること。それさえできれば何も恐れることはない。きっと読者はいかに自分にとってこの小説が心を揺さぶるほどの感動を覚えたことを手紙で作者に知らせるだろう。そうすれば作者はファンからかけがえのない勇気と自信をもらうことになる。そんなことを考えていると、スマホに着信があった。潤子からだ。まったく連絡が遅いなー。そう思いながらも期待しながらメールボックスを開いた。
『ハロー、ごめんね、連絡遅れて、サクラさんのことだけど実は今東京のネットカフェに泊まっているんだ。そこから私のスマホに連絡が入ったの。画家として華々しい成功をおさめてそのことを知った彼女の元クラスメートが何度も彼女に付きまとうことがあって札幌を離れて東京まで来たんだってさ。サクラさんの画廊で展示されていた作品を全て買うと言っていたんだけど、彼女はそれを拒絶したんだって。まるでストーカーみたいにサクラさんのことをつけていたの。警察にも通報しようかと思ったけど、きっと相手にされないだろうから話さなかったんだって。それで私の家に泊まりに来ない、って言ったらぜひお願いするってことになったの。だから今後のこともあるから、みつきも家に来て欲しいと思ってね。いろいろ話すこともたくさんあるし。私、全てをオープンにして作家デビューすることに決めたの。そのことをみつきに伝えようと決意した。それじゃあ、これから物事が良いように進展することを私は確信している。サクラさんのこともね。連絡待っている』潤子からのメールを読み終えると私は早速彼女宛にメールを書き込む。
『潤子、サクラさんとそこまで仲が良かったなんて知らなかった。でも、事件に巻き込まれていなくてほっとしたわ。私もサクラさんに会いたいし、潤子にも久しぶりに、たくさん話したいわ。小説家になることも話し合わなくちゃね。その事も楽しみだわ。今週の土曜日に潤子の家に行けると思う。それじゃあね』私は今週中に担当している作家たちとのスケジュールを組み、休み前までに全ての原稿を読んで添削するつもりだ。きっと家に帰っても仕事をしなければならない。でもサクラさんと潤子に会えることを考えると、まるで休暇をとって旅行に行ける気分だ。最高の生活。それが今の心境。とてもとても、とってもとっても、心というか身体全体が震えるほどの、まるで宇宙にダイブしたような感じだ。どんなことがあってもこの感覚を忘れないようにしたい。潤子と会うたびに私は成長しているし、それに加えてサクラさんにも会えるのだ。まるで大好きな料理を、回転寿司ではないカウンターで食べるお寿司を365日食べているような感じ?でもさすがに365日は飽きるか、でも、ハーゲンダッツのバニラを毎日食べている感覚に近いかもしれないな。そんな気分でついつい笑顔で顔がほころんでしまい、それが周りにいる仕事仲間にも不思議に思われた。同僚の神原佐織にその事が見つかってしまった。
「先輩、なにそんなに嬉しそうなんですか?ひょっとして彼氏からプロポーズされたとか」
「それよりも良いことかもね。実は十二才の作家のデビューが決まりそうなの。これ、ここだけの秘密だよ」私はサクラさんのことは巧妙に隠すことにした。さあ、これからスーパーが付くような最高で最大の人生でもっとも素晴らしい生活が待っている。こんなにも調子が良いことがあるなんて私は幸せものだ。