横須賀の海は静かに諭し、私を誘(いざな)った
横須賀に着くと、電車を降りて自然と空を眺めた。雲ひとつ無くて青々と光輝いている。微かな潮の匂いが鼻腔をくすぐる。美味しいコーヒーを飲んだ時の安堵感が沸き起こった。この近くに住んでいる人たちがうらやましい。海が近いし海産物とかもたくさんあるんだろう。なんだかお寿司が食べたくなってきたな。坂を登って潤子の家を目指す。これを乗り越えれば新興住宅地に着く。そしてその先に幻想めいた潤子のパイ工房と銘打った喫茶店がある。太陽が高くから私の体に光を照射している。とても気持ちの良いものだ。みんなこの清々しい空に向かってにっこりと笑っているのだろうか。それともなにか悲しくて寂しい気持ちを抱えて打ち沈んでいるのだろうか。そんな人がいるのなら、私は今自分ができること、少しの喜びを分け与える為に、素晴らしく感動を与える小説を世に送り出すことだ。頑張っていこう。坂道はまるで私に試練を与えるかのようにきつくなっていく。でも潤子に会えること、それが希望となって、原動力となって私を支えてくれる。その時、私は一瞬だったけど、脳裏に小樽で出会った青年の姿を思い出した。そう、石田恵太さんだ。突然に彼のピアノを弾く光景が広がった。滑らかに続く演奏。また聴いてみたい、そう思った。この温もりは大事にしまっておこう。いつの日か、今照りつけている真っ赤な太陽のように私の全てを奪い尽く日が来るのを。それは期待でもあり、自分がやり遂げなければいけない大切な仕事を完遂するまでの道標となってくれることを願ってのことだ。風が私の頬をなぜた。まるで石田さんが遠く北海道から熱い息を吹きかけてくれたかのような、そんな印象がした。私も大きく息を吸って、肺の中に溜まった空気を力一杯吐き出した。きっと、彼なら気づいてくれるだろう。そう願いながら。
新興住宅地まで上ると、そこは未来への希望で満ち溢れたといえるほどの華やかさがあった。新しく建っている住宅、まだ基礎を据えたばかりの宅地、幼い子供たちの叫び声。世界がこんなふうに喜びで満ち溢れていればいいのに。ここには希望に満ちた風景があった。なんて素敵なんだろう。そういえば私が小学校二年生の時に引っ越した住宅地も同じだった。でも今はほとんどの住民が定年を迎えている。子供たちが自転車に乗って私の前を通りすぎた。その子らの幸福を願った。みんなに笑顔であたたかい愛情を注げますようにと。
住宅地を抜けて鬱蒼と茂る木々を越えると潤子の暮らす喫茶店が見えてきた。なんて気持ちが良い家なんだろう。ほんと物語に出てきそうな家だ。駐車場は車でいっぱいだった。ここは一種の観光地のようになっているのだろう。今はネットが普及しているから、ここのアップルパイが美味しいことなんて、すさまじいスピードで知れわたっているのだろう。人々の喜ぶ姿が思い浮かぶ。賛嘆と驚愕とまるで大好きな人と接吻したような喜び。そして夜は深い闇に覆われた唯一の避難所といえる潤子のお父さんが作るカクテルやウイスキー。静かに喉を潤しながらの気の合った仲間たちとの調べ。少年たちに帰って、自分の過去に犯した過ちや、悲しい出来事もここでは告白にも似た形で語り合うことができる。そうだ、私たちにはどうしてもそんな自分の罪をそそいでくれる場所が必要なのだ。
私は店のドアを開けた。カランカランと鈴の音がして中に入ると真正面にサクラさんの絵画が静かに鎮座していた。今まで見てきた絵には無いほどの圧倒的破壊力。これは言い過ぎかもしれないけど、私個人に宛てて書かれた手紙のように心を揺さぶってくる。その絵の隣に潤子が立っていた。まるで絵画の中から出てきたみたいにしっくりとしている。
「みつき、久しぶり。元気にしてた?」
「うん、ここにこれて、とっても嬉しいよ。潤子、一段と成長したみたいね」私は潤子の目の輝きと、そして唇の形というか色艶が注目に値するほど厚くなっているような気がした。
「みつき、早速だけどアップルパイ食べたくない?できたてのほっかほかだよ」潤子はなんとも可愛い意地悪そうな表情で言った。
「それを食べる日を楽しみにしていた。ほんっと、身体中が枯渇したみたいにアップルパイを求めてるって感じ」私は潤子のお母さんがカウンターから微笑ましく私たちを眺めている様子を見た。とても幸福そうだ。毎日、潤子は両親からこんなふうにいっぱいの愛情を受けて育っているのだろう。いつもこんな最高な、素敵なお客さんにも囲まれてほんと幸せなんだろうな。毎日がお正月みたいな感じっていえばいいんだろうか。ここに来ると身体中がスッキリとして爽快感を味わうことができる。みんなが繋がっていてお互いに他人同士なのに微笑み返すことが容易だ。たとえ天気が悪くてもこの空間だけはいつも喜びを誘う空気で満たされている。
潤子ができたてのアップルパイを持ってきてくれた。私は席に座ってまだ湯気をたてているパイにフォークを入れた。サクサクと生地が分かれてシロップ漬けのリンゴが現れて甘い香りが鼻腔の奥に達した。思わず充足のため息が出て、なんて幸せなんだろう、潤子はこれを毎日食べているということを改めて知って、羨ましく思った。材料があれば、私にも作れるかもしれない。今度チャレンジしてみようか。得意な豚汁と違って時間がかかるかもしれないけど、試してみる価値はある。手間をかければそれだけ美味しくて有意義な贅沢をして心も体も豊かになることができる。なんか人生って凄いな。生きているいだけで、呼吸をしているだけで最高の気分だ。私は今、過去を思い返して一番機嫌が良いと思った。心の内に火花が散り、体全体を温めていく。目をつぶりながら最初の一口を味わう。口中にリンゴの食感とバターと小麦粉の絡み合ったフレーバーが広がる。大自然が目の前に現れて、大きなリンゴの木が燦々と太陽の光を浴びている。その木の下に少年と少女が手を繋いで立っている。葉が生い茂り、陽光を遮っている。そして風が木々を揺らせ、潮の香りが鼻腔をくすぐる。遠くからやってきた風は何処へ行くのだろうか。私は目を開くと潤子がとてもキラキラと輝いた瞳で私を見つめていた。
「みつき、何処へ行っていたの?なんか遠くまで旅をして戻ってきたって感じ」
「凄い大きなリンゴの木があってね、そこにサクラさんが描いたこの絵に描かれている少年と少女が立っていたの。ほんと一瞬夢を見ていた。昔、私が幼かった頃、まだちっちゃかった時のことを思い出した。なんだか懐かしいなあ。たったひとつのアップルパイを食べるだけで様々な情景が浮かび上がるなんてね、ほんとこの店のパイの威力は半端ないわ。これだけを食べる為に横須賀に来るだけの価値はあるわね」私は店内にいるたくさんの客を眺めた。この物語の世界から生まれてきたような店はそれ自体がメルヘンチックであり、大人から子供まで全ての人を夢中にさせる。ここに一日中いたいとそう思わせる。それもきっと潤子のお父さんとお母さんの滲み出る個性の賜物なのではないか。そして潤子の。私はつくずく潤子と出会えたことを幸福だと、そして何処か懐かしさを感じさせる横須賀という街に愛着を抱いていることを誇りにした。近くで海を見たい。そのさざ波の音を聞きたい。まるで母親の胎内で聴いたことのある鼓動にも似た音を。きっと夜の海は静かで誰をも詩人にしてしまう何かをもっている。ここの店の夜もきっと素敵だろう。微かに聞こえる音楽、まるで天使が囁きかけているようだ。
「潤子、夜になってから海に行かない?きっと素敵だと思うんだけど」
「うん、いいわ。きっと物語の題材になるものが転がっていると思う。自分の心の内に眠っている何かを呼び覚ますことができるんじゃないかな」
「そうね、夜の海には私たちを太古へと誘う魔法のようなものがあると思うわ。恋人たちが海辺に近寄るのもわかる気がする。自分を見つめ直すもの、自分と語り合うことができるし、そこでは全てを許せる何かがあるのだろう。私たちに求められているもの、私たちが成し遂げていかなければならないものが、この夜の海にある。きっと私たちには知らない、もしくは知られていない何かがあるんだ。人は絶対に夜の海に行かなければならないと思う。きっと、私は感じるんだけど、宇宙から地球を見つめている、そんな風な感覚なんじゃないかな。そこには神秘と誰かに愛されているという感覚と、地球をひとつの生き物として捉えることができる。今までに社会で暮らしてきて感じることができなかった体験をする。だから少なくない人が海の側で暮らしているんじゃないのかな。そして不思議なことなんだけど、創造力を駆使することによって、まるで海辺に立ってその鼓動を聞く体験ができるのよね、人間には。だから私たちはそんな風景をいつも記憶の中にとどめて慎重にこの世界で生きていかなければいけない。この世は非情だとも言えるし、でも、温かいところもある。それは心の持ちようで変わることなのかもしれない」私は真正面に座っている潤子が唇をぎゅっと、収縮させていて、その動作が私の気持ちを興奮させた。
「私、夜の海って、そういえば行ったことがなかった。こんなに近いのにね。よくある灯台もと暗し、ってことね。みつきの話を聞いて、とても興味をもったわ。是非、行きたい。今日の夜に行こう」潤子はテーブルの上に置かれたアイスティーを飲んで、遠いところを見てから希望に満ちた表情をした。
私たちはアップルパイを食べた後、潤子の部屋に向かった。部屋の中には貸すかなラベンダーの香りがした。
「ほんと、小説家の部屋って感じね」
「ほとんどが古本屋で買ったものだけどね。ひとつひとつの本に愛着があるの。日本の文学と海外文学が半々っていったところかな。ドストエフスキーから宮部みゆきまでいろんな作家の本を読むのが好きなの。エド・マクベインやディック・フランシスとかもね。ほんとこの世界に本があってよかった。世の中には文字を持たない種族もいるでしょ、ああ、日本人に生まれてこんなにたくさんの本に囲まれて私幸せだな。今、私が読んでいるのは中国の歴史について書かれた本なの。ほんと昔の人って非情だなあって思う。一族郎党皆殺しって当たり前なんだから。そんな描写がたくさんあるの。でもいろんな登場人物が出てきて、君主に忠実に仕える人とか、司馬遷っていう人は、おちんちんを切られても、その恥辱を我慢して壮大な歴史書を書いたんだ。様々な人物模様が織りなされていて飽きないんだな」
「そうなんだ、私は中学、高校と日本の戦国時代に興味があって、いろんな作家の本を読んだよ。今は幕末に関心があるんだ」私は潤子の本棚に近づいた。
「潤子、ちょっと本棚見てもいい?」
「うん、いいよ」
私は本棚に収まっている本の背表紙を見た。指輪物語、失われた時を求めて、ディーン・クーンツ、ロバートAハインライン、スティーヴン・キング、松本清張、いろんな個性をもった作家たちの本がある。見ているだけで心がワクワクする。みんなオリジナリティーをもった人たちだ。潤子はその作家たちから影響を受けているのだろうか。
「いろんな作家の本を読むんだね。とても良いことだわ。まだこの世の中では知られていない作家、ほとんどの人は、あまり本を熱心に読まないから有名じゃないけど、読書を習慣にしている人たちにはとても印象に残っている作家だよね。みんな個性的な文章を書いて読者からとても評判が良い。海外文学からも影響を受けているんだね。私、思うんだけど、翻訳者って凄い働きをしている。もっと評価されても良いんじゃないかな。もちろん翻訳者は小説を読者に分かりやすいように、影の存在になって働かなければならないけど、それにしても影に徹し過ぎている、そう感じる。中国の歴史家の司馬遷とはいかないまでも、ローマ人の物語を書いた塩野七生みたいなふうな」
「彼ら彼女らはきっと文章を精密に訳すことが本当に大好きなんだと思うな。自分の濾過器を通して新たに自分の民族に提供できることが何よりも嬉しいんじゃないのかな。その気持ち、私分かるな。書き終えた時の達成感ってどんな感じなんだろう。思わず叫んじゃうみたいな、大好きな人に告白されたような、そんな最高の時間を味わう。凄いよね」
「潤子も自分の内にたくさん読んだことを反映してそこからオマージュして新たな文章にしていく。とても楽しい工程だろうね。物語が頭のなかで動き出すって最高でしょ」私は本棚の一冊を取ってパラパラとめくった。
太陽が地平線に沈み、空が暗くなって私たちは海を見に行くことにした。なんだかこれから映画館に向かうみたいな感じだ。空気はまだ暖かく優しかった。潮の香りがして、海の表面を微かに削って運んで来たんだ。心が落ち着いて期待感を抱かせる。目を閉じなくてもそれと同様の効果を発揮している。身体中が暗闇のマントに包まれた気分。車が通り抜ける時のタイヤがアスファルトを擦る音が迫ってくる。ああ、私は生きている。なんか、今の地位や仕事とかどうでもいいや、って気持ちになってきた。すべてを忘れてこの瞬間を、かけがえのない大切なものとする、陳腐な言葉かもしれないけど、今、呼吸をしていることがとても偉大だと思った。暖かい夜風が体をなぜている。海岸が見えてきた。遠くにたくさんの漁船の灯りが輝いていた。私と潤子は波が足元まで届かないところまで来ると、砂の上に座った。鈴虫が鳴いている。なんて素敵な声をしているのだろう。そして私たちをなだめるように、まるで母親の胎内に戻ったような、そんな静かで心地よい穏やかさが全身を包んだ。潮騒って言うんだっけ?波の波動が直接耳を会さずに脳へと送られてじわりと心臓の鼓動がゆっくりと収縮した。血管を流れるのが血液ではなく、川の清流のような清い液体が巡っている、なんか心が浄化されたような感じがした。潤子も静かに海に見とれている。
「ああ、みんな、夜の海が好きなんだね」私は辺りを見回すと、恋人たちがちらほらと、岸壁や砂の上に座って海を見ている。みんなが同じように感動というか、感嘆の感覚をもって暗闇の中で微動だにせず、太古の昔からひいては寄せる波の音に聞き入っている。その海には数えきれない魚たちが生息しているだろう。海の中で生きるというのはどんな感じなんだろう。なんだかずっと海で生活していたらふやけてしまいそうだ。でも水中を泳ぐという特殊能力をもっているとは凄いことだ。でも、よく考えてみると私たちは胎児の時に母親の胎内で液体に包まれて成長していたんだよね。だからそんなに珍しいことではないのかもしれない。それにスイマーもいる。私は靴と靴下を脱いで裸足になって海に近づいた。砂浜まで行くと海水が私の足元まで届いた。とても冷たかったけど、その冷たさが脳まで達して爽快な気分になった。
「潤子、とても気持ちいいわよ」私は海水に手を浸した。
「ちょっと待ってね。私も裸足になるから」潤子は暗闇の中、靴と靴下を脱いだ。そして私に近づき、波のほうに向かって行った。
「ほんと太古の昔に戻ったきがする。とても落ち着くわ。まるで母親の胎内に戻ったみたい。だからみんな海に吸い寄せられるのね」潤子は両手を耳に近づけ波のさざ波を聴いている。ほんと、私たちは子供に返り、過去の経験を再構築して、原初の出会いを甦(よみがえ)らすのだ。これは読書をするという体験にも似ていなくはない。本を読むということは、映画を見ることにも例えられる。また、夢を覚醒した状態で体験しているとも言える。潤子は遠くに輝く漁船の光を眺めていた。
「ほんと、綺麗だね。あそこで漁師さんたちが魚をおびき寄せて一網打尽に網を引き揚げているのかな?私も体験したいな。でも網を引くには力がいりそうだね。私みたいに腕が細かったら足手まといになる。釣ってくれた魚を刺身でいただくか、焼いて食べるかするほうがいいわね」
「釣ってすぐに食べる魚ってどんな味なんだろう。最高なんだろうな。潤子、いつの日にか魚釣りしよう」私は潤子の手を握り、ぎゅっと力を込めた。潤子も握り返してきた。これから先、長い期間、お互いを詳しく知ることになるだろう。そんな意識の流れが運河のように強く穏やかに伝わってきた。そして潤子が超有名人になって世間から喝采を浴びる姿が浮かんできた。彼女の幸せを願わずにはいられなかった。鳥がなんの意識もせずに空高く飛び立つように、潤子も自然に羽が生えて空を飛んでいく、そんな光景が私の脳裏に鮮明に現れていた。