会長としてすべきこと。 ③
『んで? さっきの〝あ〟は何なんだよ?』
「うん……、いや。絢乃さんから、『付き合い始めたことは秘密にしましょう』って言われたから。ここ、まだ会社の中だし、誰かに聞かれてたらマズいと思って。――兄貴、頼むから妙な噂とか流さないでくれよ?」
彼は真面目なうえに、心配症でもあるのだとわたしは気づいた。お兄さまは社外の人なのだから、そんな心配は一ミリもなかったはずなのだけれど。
『分かってるっつーの。お兄サマを信じなさーい♪』
「…………」
そして彼は、明らかにお兄さまのことを信用していないようだった。
『何だべよ、その沈黙は? とにかく、絢乃ちゃんの誕プレは真剣に選んでやんな。――仕事中に悪かった。んじゃ、絢乃ちゃんによろしく』
「うん。……えっ!? ちょっ……! ――あっ、切れた」
彼はため息をついた後、スマホをわたしに返しながらグチっていた。
「兄貴のヤツ、好き勝手喋って切っちゃいましたよ。会長の携帯だっていうのに、まったく。――すみません、ウチの愚兄が」
受け取ったわたしは、そういえば悠さんも同じようことを言っていたなと思い出し笑いをして、ちょっとだけ彼を茶化してみた。
「桐島さん、心配しすぎるとハゲちゃうわよ? それか、胃に穴が開くかのどっちかね」
「やめて下さいよ」
彼は顔をしかめた。そして、彼が電話で話している間に洗い物が片付いていたことに驚いた。
「……あれ? 洗い物、会長がやっておいて下さったんですか」
「うん。これくらいの量なら、すぐ終わるから。だってわたし、お料理好きだし。将来はちゃんと自分で家事もこなせるマダムになりたいんだもの」
家ではほとんど毎食専属のコックさんたちに料理を任せている我が家だけれど、休日などには時々わたしもキッチンで腕をふるうこともある。
料理の先生はコック長だったり、史子さんだったり、母だったりと日によって違うけれど、この頃にはすでに作れる料理のレパートリーはかなり豊富になっていた。
彼に家庭的な面をアピールしたいわけではなかったのだけれど、人並みには家事もできるのだと思ってほしかったのだ。
「いつか、貴方にもわたしの作ったお料理、食べてもらいたいな」
すでに、手作りのスイーツは食べてもらっていたけれど、まだ家庭料理を食べてもらう機会には恵まれていなかったから。
社交辞令ではなく、わたしが本心からそう言うと。
「ええ、ありがとうございます。ぜひ」
彼も笑顔でそう答えてくれた。
オフィス内ではこういう
「あっ、じゃあ僕が拭いて片付けますので。会長はお仕事にお戻りになっていて下さい」
「うん、ありがとう。お願いね。――そういえば、お兄さまは電話で何ておっしゃってたの? なんか、わたしの誕生日がいつかって訊ねられたんだけど」
彼は小声で話していたし、スピーカーフォンにもしていなかったし、そのうえ水音もしていたので、兄弟でどんな会話がなされていたのかわたしは知ることができなかったのだ。
「……会長の、お誕生日のプレゼントについて……ちょっと。すみません、これ以上のことは……」
彼の答えは要領を得なかったけれど、多分彼自身の
「ふうん? 分かった」
一足先に会長室へ戻ると、パソコンに山崎さんの女性秘書からのメールが受信していた。
『先ほど会長にお話しした相談内容を、明日の会議に先駆けて村上社長とも共有しておくことにしました。
一覧にまとめて添付してありますので、ご確認をお願いいたします。 山崎』
「――これ、あのパワハラ案件の相談内容リストだわ……。えっ!? こんなにあったの!?」
わたしはその膨大な数を目の当たりにして、茫然となった。
山崎さんにはちゃんと資料を見せてもらったわけではなかったので、改めて自分の目で確かめると頭が痛くなった。
総務課に在籍している社員はざっと四十人。その中の三十六人が労務災害の申請を出していた。島谷課長からのパワハラが原因で、精神のバランスを崩したと。もしくは、体調に何らかの異常をきたしている、など……。
数自体にも驚いたけれど、その内容にもさらに驚かされた。彼が受けていたパワハラなんて、まだまだ生やさしいとさえ思えてしまった。もちろん、被害に大きいも小さいもないのだけれど。
あまりの事態に、わたしが頭を抱えているところへ、片付けを終えた彼が戻ってきた。
「――ただいま戻りました。……あれ? そのメールは――」
「あ、お帰りなさい。――さっきね、山崎さんの秘書の人が送ってくれたの。あの件の、相談内容のリスト。貴方も見て」
「……えっ? はあ。――うわー……、マジっすか……」
彼も言葉を失い、素の彼に戻っていた。
「僕も十分ひどい目に遭ってきたと思ってましたけど、あんなのまだマシな方だったんですね。まさか、こんなにひどい目に遭わされてた人が大勢いたなんて……」
「ホントそうよね。信じられない。こうなったらもう、とことんまで調べて、島谷さんがぐうの音も出ないようにしてやるんだから!」
わたしの中に、メラメラと闘志が湧いてきた。それは彼を守りたいという気持ちと、トップであるわたしが何とかしなければという使命感と、両方からくるものだったと思う。
****
――こうして、わたしは初めての半日勤務を終え、定時である夕方六時に彼の愛車で帰宅の途についた。
「――なんか、春休みに入って早々、大変な案件抱えちゃいましたね」
運転席から、ため息とともに彼のそんな言葉が聞こえてきた。わたしはすぐに、それがあの件だと思い当たった。
「すみません。兄があんな話さえ持ち出さなければ、絢乃さんがこんなに頭を抱えることもなかったんですよね。パンドラの箱なんて開けなければ……」
「それは違うわ。お兄さまが悪いんじゃない。どっちみち、この問題は隠し通すことなんてできなかったのよ。だから、貴方が謝る必要もないの」
彼を宥めるように、わたしは優しくもキッパリと言った。
「こんなキッカケでもなければ、わたしはずっとこの問題に気づいてなかったかもしれないもの。ずっと
「絢乃さん……、なんかオトコマエですね」
彼はわたしの
公表したところで、マイナスのイメージは拭い去ることはできないだろう。それでも、ずっと隠蔽を続けた場合に比べれば、企業としての信頼回復に要する時間はずっと短くて済む。……わたしはそう考えたのだ。
「〝オトコマエ〟って……、わたし女の子なんだけど。まぁいいわ。――明日、村上さんたちもわたしの考えに賛同してくれるといいんだけどな……」
こんなことで、二人の重役と対立したくはなかった。もちろん彼らの意見も聞くつもりではいたけれど、わたしは自分の考えが間違っているとは思えなかったのだ。
「そうですね……。きっと大丈夫ですよ。――さて、着きましたよ」
「うん、ありがと。今日もお疲れさま」
彼は車を停めるとわたしを降ろし、そそくさと退散しようとしたけれど。
「……桐島さん、キスくらいして行ってもいいのよ? せっかく恋人同士になれたんだし」
「へっ!? ですが……マズいんじゃ?」
「大丈夫よ。ここはオフィス内じゃないんだし、ママも口固いから。……ね?」
「……本当にいいんですね? じゃ、失礼して――」
彼は遠慮がちに、わたしに唇を重ねた。でも、どこかぎこちなくて、もどかしくて。一度唇が離れてすぐ、今度はわたしからキスをした。
「……えっ? えっ? なんで――」
「じゃ、また明日ね。おやすみなさい」
耳元までを真っ赤に染めてあたふたしている彼に背中を向けて、わたしはホクホク顔で玄関アプローチを歩いて行った。