キスの答え ④
「――あ、ありがとうございます」
「ううん、いいのよ。さっきは追い出すようなことしちゃってゴメンね」
わたしは彼に謝りながら、さりげなく彼の抱えているトレーをその場で受け取ろうとしたけれど、彼が遠慮して「コレは僕の仕事ですから」と譲らなかった。
「会長は悪くないですよ。言い出しっぺは兄なんですから」
彼はやっぱり、自分を
でも、彼自身は気づいていなかったみたいだけれど、悠さんのことを悪く言うわりには、それほど嫌ってもいないようだった。そういうところからも、二人の兄弟仲が本当はいいのだとわたしは測り知ることができた。
トレーを抱えたまま応接スペースまでやってきた彼は、ローテーブルの上にわたしの分のピンク色のカップと、悠さんの分であるお客様用の白いカップを置いていった。ちなみに、彼自身の分はなぜか緑茶だった。
「おぉ、サンキュー☆
悠さんの分を置く時には、全然そうは思っていない口調でお兄さまがそうおっしゃったので、カチンときたのかちょっと荒っぽかった。
「……兄貴、全然悪いと思ってないだろ?」
ムスッとお兄さまにそう言ってから、彼もトレーを自分の目の前に置き、わたしの隣に座って湯飲みを持ち上げた。ちなみに、悠さんはわたしたちと向かい合わせに座っていらした。
「あれ、バレてた? いや、参ったなぁ。ハハハッ」
「…………っ」
彼のコメカミに、薄っすらと青筋が見えた気がしたけれど。ここで兄弟ゲンカになってはみっともないと思ったのか、彼は気持ちを鎮めてお茶をすすり始めた。
「……美味しい。桐島さんの分のコーヒーも、一緒に淹れてくればよかったのに」
わたしはいつもどおりのミルク入りコーヒーを飲みながら、何気なく言ってみた。
彼はわたしの秘書になってからずっと、わたしの分は快く淹れてくれるのに、不思議なことに自分の飲む分のコーヒーを淹れたことは一度もなかったのだ。
「もしかして、わたしに遠慮してるの? だったら、その遠慮は無用よ。自分の分だって淹れてもらって全然構わないんだからね?」
だって、豆は会社の経費ではなく、自腹で購入しているのだから。もちろん彼にだって飲む権利はあるのだ。
それに、わたしだってできれば彼と一緒にお喋りでもしながら飲みたいと思っていたのである。
「……いいんですか? じゃあ、明日からそうさせて頂きます!」
わたしの言葉に、彼の表情はパッと明るくなった。
「――つうか、お前のコーヒー、いつ飲んでも美味いよなー。お前さ、会社辞めてバリスタになれば? んで、オレと二人で喫茶店やろうぜ。イケメン兄弟がやってる店なんて最強じゃね?」
たわむれに、悠さんがそんなことを言いだした。――でも、わたしには分かった。彼は不器用なりに、自分の弟が今でも会社を辞めたいと思っているのか試そうとしているのだと。
でも個人的には、この兄弟が経営する喫茶店には興味があって、ちょっと入ってみたいな……と思ったり、思わなかったり。
「俺は絶対ゴメンだね! もう会社辞める気ないし、バリスタはやりたいと思ってるけど、兄貴と一緒に店やるなんて絶対イヤ!」
「そんなに嫌がらんでもさぁ。……んじゃ、バリスタはいつやるつもりなんだよ?」
「……老後の楽しみ?」
それを聞いた途端、悠さんは大笑いした。弟である貢がもう会社を辞める気はないと知って、安心したのもあるのかもしれない。
「おま、老後って定年退職後っつうことか? 絢乃ちゃん、ここの定年っていくつよ?」
「ウチのグループ企業は全社、六十五歳が定年です」
「つうことは……、四十年後じゃん! ――あ、ここって灰皿ある?」
悠さんはまだ笑いつつ、ジャケットの胸ポケットから煙草のソフトパッケージとライターを取り出した。
彼が煙草を
「ゴメンなさい! このビルは全館禁煙なので……。一階のエントランスを出たところに喫煙スペースが設けられてるんですけど」
わたしはこの建物の管理責任者として、そこはたしなめなければならないところだった。申し訳なく思いながら、手を合わせて言ったところ。
「そっか……。このご時世だしなぁ、しゃあない。マジで今の時代、喫煙者は肩身狭いわー」
悠さんは気分を害された様子もなく、肩をすくめて素直に応じて下さった。そのまま煙草とライターをポケットにしまいつつ、苦笑いされていた。
「だから俺が、前々から言ってんじゃん。いい加減禁煙しろって」
「ハイハイ、考えとく」
彼からの忠告も、悠さんは笑いながら、子供をあやすようにあしらった。
彼は〝素〟の自分をわたしに見せたくないようだったけれど、この兄弟のやり取りは見ていて微笑ましくて、自然体の彼を見てもわたしは全然幻滅しなかった。
むしろ、より彼のことを好きになっていく自分がいることを、わたし自身も心地よく感じていた。
「兄貴、笑いすぎ! ……って、会長まで笑うことないじゃないですか!?」
「ゴメン……」
彼は怒っているみたいだったけれど、わたしはその場の和気あいあいとした雰囲気がけっこう好きだった。
彼がひどいパワハラに遭っていたことを知り、何とかしなければという思いもあったけれど、せめて悠さんと三人でいる間だけは、空気抜きをしていてもいいのではないかと。
「……あ、そうだ。絢乃ちゃん、名刺もらっといていい? あと、キミ個人の連絡先も教えてもらえると助かるんだけど」
「ああ、そういえばまだお渡ししてませんでしたね。ちょっとお待ち下さいね」
わたしは一旦席を立つと、自分のデスクの抽斗に入っている名刺ケースを持って、再び応接スペースに戻った。
その中の一枚を取り出し、裏側に携帯番号とメールアドレスを書き込んでから、悠さんに差し出した。
「――お待たせしました! どうぞ」
「ありがとねー。コイツに何か変わったことあったら、連絡するよ。……あ、じゃあオレの連絡先も教えとこうかな」
悠さんはお礼を言ってわたしの名刺を受け取られると、今度はご自分のリュックからメモ帳を取り出して、その場で携帯番号とメールアドレスを書いて下さった。
「絢乃ちゃん、会社とかでコイツのこと持て余すようなことがあったら、いつでもオレに連絡してね」
「オイ、兄貴っ! 勝手に俺をダシに使うなよ!」
「ありがとうございます。そうさせて頂きますね」
「かっ、会長ぉ!?」
ニッコリ笑ってメモを差し出す悠さんと、それを笑顔で受け取るわたし。その間に挟まれた彼は、ひとりで吠えたりうろたえたりと忙しかった。
「――んじゃ、オレはそろそろ帰るわ。絢乃ちゃん、今日はありがとね」
コーヒーカップを空にした悠さんは、四時半ごろに腰を上げた。滞在時間はざっと一時間弱、といったところだろうか。
「いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました」
「うん。あと貢、コーヒーごちそうさん。美味かった。――お前も、たまには実家に顔出せよ? 近所に住んでんだからさぁ」
「分かってるよ。今度の週末、ちゃんと顔出すから。父さんと母さんによろしく」
「おう、伝えとく。――んじゃ、おジャマ虫はとっとと退散するとすっかな。見送りはここでいいから」
「うん……。っていうか、〝おジャマ虫〟って?」
お兄さまの姿が見えなくなった後、彼はしきりに首を傾げていた。
でも、わたしにはその言動の意味が分かっていた。「二人きりにしてあげるから、この機会にお互いの気持ちをキチンと確かめ合いなよ」という意味なのだと。
悠さんは見た目こそ軽そうだけれど、彼に負けず劣らずの世話焼きらしい。そういうところはやっぱり兄弟だなぁと、わたしは思った。