恋も、仕事も ④
だから、この日の帰りの車内での彼の行動には、わたしもさすがに驚きを隠せなかった。
まさか、彼があんな大胆な行動を起こすなんて……。
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――この日はわたしもだいぶ疲れが溜まっていて、彼の車に乗り込むなり眠り込んでしまった。
もう本当に完全熟睡で、彼に話しかけられていたのかどうかも分からなかった。
三十分くらい眠っていたような気がする。――もしかしたら、眠っていたわたしに気を遣った彼が、わざわざ遠回りしてくれていたのかもしれない。
車が一時停止したかと思うと、突然、唇に何か柔らかな感触を覚えて、わたしはその拍子にパッと目を覚ました。
「…………んっ!?」
目を覚ましたわたしは、車が大きな交差点で信号待ちだったことを知り、続いて彼が運転席でハッとした表情をしていることに気がついた。なぜか少し青ざめていたような気もする。
「……なに? 今のって……。 ――って桐島さん!?」
「絢乃さん、申し訳ありません! 僕はあなたにとんでもないことを……っ! 本当に失礼極まりないことを……」
彼はわたしに謝罪したかと思うと、この世の終わりでも来たかのようにガックリと項垂れた。はぁ~~~~っと大きく息を
わたしにも一応は恋愛の知識があったので、自分の身に起きたことが何なのかは何となく理解ができていた。――あの感触は、多分キスだと。
でも、もちろん初めてのキスだったので、怒ってはいなかったけれど簡単には受け入れられず。気がついたら彼にこんなことを言っていた。
「……桐島さん。わたし、さっきのがファーストキスだったの」
「はい……」
彼は絶望感に打ちのめされていたのか、呻くように返事をした。このままわたしにクビにされるかもしれない、と思っていたらしい。
その直後、信号が青に変わった。
「信号変わってるよ。……別にわたし、怒ってないから。今は運転に集中して」
「……はい」
怒っていないと言っているのに、彼はわたしの顔色を窺い、素直すぎるくらい素直に返事をして、再びアクセルペダルを踏んだ。
好きな人からのキス。いくら初めてだったとはいえ、怒るわけがない。わたしも正直
彼に辞められて一番困るのは、誰でもないわたし自身だったのだから。
それよりも、わたしには彼がどうしてあんな行動に出たのか、その方が気になっていた。
彼だってもちろん、わたしを困らせる気はなかったのだろう。多分、わたしの寝顔を眺めているうちに、衝動的にキスしてしまったのだと思う。
そして、わたしがそれで目を覚ましてしまったのでハッと我に返り、どっと後悔が押し寄せたのだろう。
真面目な彼のことだから、それで動揺してしまったのは分からなくもない。でも……、そこまでわたしに怯える必要なんてなかったのに。一体、わたしのことを何だと思っていたんだろう?
わたしはただ、彼のことが好きなひとりの女の子でしかないのに。
「――あの、絢乃さん。着きましたけど……」
「うん。――ちょっと待って、桐島さん。さっきの弁解、ちゃんと聞かせて?」
家のゲートの前に着いてもわたしは車を降りず、助手席で腕組みをして彼に向き直った。
彼はそんなわたしが怖かったのか、オドオドしながらしどろもどろに弁解を始めた。
「……はい。あのですね、先ほどの僕は……その、魔が差したというか血迷ったというか、トチ狂ってしまったというか――」
「ご託はよろしい。っていうか全部同じ意味じゃない」
そのせいで、彼の言い訳は全部似通った意味の言葉になっていたので、わたしはすかさずツッコミを入れた。
「あ……、すみません。とにかく、本当に衝動的な行動で、僕自身が一番驚いてるんです。ですからその……、お願いですからどうかクビにするのだけは……」
「クビになんてするわけないじゃない。貴方には辞めてもらっちゃ困るの。だから、そんなに怯えないで! わたしはホントに怒ってないから」
「……本当に、怒ってらっしゃらないんですか?」
「クドい! さっきからそう言ってるでしょ?」
「……ですよね」
彼はそこでやっと安心できたらしい。少々引きつってはいたけれど、笑顔が戻っていた。
そして、わたしは考えた。彼が衝動的にわたしにキスしたということは、それこそが彼の本能的な行動で、理性で抑えきれなかったのではないか、と。
そこにひとつの仮説が成り立った。……つまり。
「――桐島さんって、わたしのこと好きなの?」
思いきって疑問をぶつけてみたけれど、彼からの返事はなかった。
「……………………。お疲れさまでした。今日のことは、本当に反省してます。――明日から春休みだとおっしゃってましたね?」
長~い沈黙で間を取った後は、一応普段通りの彼に戻っていた。わたしは何だかはぐらかされたような気がして、肩透かしを食らわされたような気持ちになった。
「……うん。学校は午前中で終わるから、昼食は家で摂ることにしてるの。だから、一時前に迎えに来て」
「了解しました。では、また明日。失礼します」
彼はそれだけ言ってしまうと車からわたしを降ろし、さっさと帰ってしまった。
「結局、どっちなのよ……。どうして答えてくれなかったの……?」
わたしには彼の本心が分からず、首を捻るだけだった。