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恋も、仕事も ①

 ――わたし・篠沢絢乃が正式に会長に就任して、早くも一ヶ月が経過していた。

 わたしは高校生活と会長の仕事をちゃんと両立させられるようになっていた。とはいえ、その仕事は各部署から届く決裁の必要な案件メールに返信したり、各部署を激励がてら視察したりする程度。

 彼は母と約束したとおり、朝からは母の秘書として仕事をして、わたしの学校が終わる頃に車で迎えに来てくれて、それからはわたしの秘書として働くという、わたし以上になかなかハードな日々を送っていた。

 けれど、そんな簡単な仕事ばかりしていても、会長としての信用を勝ち取れるかどうかわたしには分からなかった。――もちろん、それも大事な仕事であることに変わりはないのだけれど。
 というわけで、この頃にはわたしなりに会社のためにやるべきことを考えるようになっていた。

「――桐島さん、わたしね、そろそろ本格的に会長としての仕事に励もうと思うの。それでね、この会社の中でいくつか改革したいことがあって」

 放課後に出社したわたしは、会長室のデスクのパソコンに繋がれたプリンターから吐き出された一枚のコピー用紙を彼に見せた。

「改革……ですか? ――拝見します。えーと、どれどれ……」

 その紙を受け取った彼は、戸惑いながらわたしがパソコンで書きだした内容ひとつひとつに目を通し、そこで浮かんだらしい疑問点をわたしにぶつけてきた。

「……えっ? お誕生日のパーティー、今年から廃止されるんですか? まあ、今年はまだ喪中だから中止するというのは分かるんですが……」

「うん。わたしが喪中だからっていうのも、もちろんあるけど。組織のトップとはいえ、いち個人の誕生日をわざわざ会社の経費を使ってまでお祝いしてもらう必要はないんじゃないかと思ったの。それこそ公私混同も(はなは)だしいし、経費のムダ遣いだから。そんなことに使う予算があるなら、もっと他のところに予算を割いた方が会社のためになるでしょ?」

「はぁ、なるほど……」

 この本社で行う会長の誕生日パーティーは、元々が父の同僚だった有志のメンバーで始めた会。それがいつの間にか会社の行事のようになってしまい、出席か欠席かで出世にも影響が出るなんて、ほとんど会社ぐるみのパワハラのような状況になりつつあった。
 そのことを、わたしはもちろん生前の父も以前から嘆いていたのだ。

「お誕生日は、個人的に祝ってもらえればわたしはそれで十分だから」

「……会長、それって僕に対するプレゼントの催促ですか?」

 彼にツッコまれ、わたしは自分の発言がヤブヘビだったと気がついた。

「……ちっ、違うわよ!? 別におねだりしてるワケじゃ……。まぁ、くれるのなら嬉しいけど」

 あくまで催促する気はなく、それでも厚意でプレゼントをもらえるなら遠慮なく受け取る、という意味で、わたしがどうにか弁解したところ。

「分かりました。善処します。ですがその前に、もうすぐバレンタインデーですよね」

「……うん、そうね」

 彼はニコッと笑って頷いた後、わたしに逆襲とばかりに釘を刺してきた。
 まさか、彼からチョコをねだられるとは思っていなかったわたしはたじろいだけれど、すぐにいつもの澄まし顔で答えた。

「まあ、頑張ってみるわ。美味しい手作りチョコ、期待しててね」

 甘いもの好きなうえに、クリスマスイブにわたしの手作りケーキを食べたことを覚えていてくれた彼は、〝手作り〟という言葉に舞い上がり、顔を紅潮させていた。

「いいんですか!? 手作りチョコなんて、僕が頂いても。会長はただでさえお忙しいのに、そんなことに時間を割いて頂くなんて! 光栄です!」

「うん、もちろんよ。日頃の感謝の気持ちも込めて作るから」

「ありがとうございます!」

 実はわたし、バレンタインデーに男性にチョコレートを贈った経験が一度もなかったので、一般的な男性側のリアクションがどんなものなのかも分からなかった。
 男性はみんな、女性からチョコを贈られる時こんなに喜ぶものなんだと、わたしは勝手に解釈していたのだけれど。それは違うのだと後から知った。

 ――何だか話題が思いっきり逸れてしまったので、わたしは大きくひとつ咳払いをして、仕事の話に戻った。

「――で、他の改革案についてなんだけど。桐島さん、貴方の意見を聞かせてもらえる?」

 わたしが書きだした改革案は他にもいくつかあり、館内が全面禁煙になったことで持て余していた一階の元喫煙ブースを簡易のカフェスタンドに改装することや、サービス残業の禁止、さらなる福利厚生の充実など多岐(たき)に渡っていた。

「う~ん、どれも経費がかかりそうですが……。実現すれば、社員が喜びそうなことばかりですね。経理部の加藤(かとう)部長にも入って頂いて、あとは会議で決めましょうか。社長や専務には、僕から連絡しておきます。ではさっそく、この原案をもとにして、僕が会議の資料をまとめておきますね」

「ありがとう! じゃあ、次の会議の議題はこれでいきましょう。会議は……そうね、来週の月曜日くらいでいいかしら」

 この日は木曜日。彼が資料を作成するのには三日間の猶予(ゆうよ)があった。

 その日の分の決裁はすでに終わっていて、大きな仕事といえるものはこれですべて片付いていた。

「――桐島さん、コーヒーをお願い。いつものね」

「はい、了解です。――あ、そうだ。今日は取引先から頂いた美味しいケーキがあるんで、一緒にお出ししますね」

「わあ、嬉しい! ありがとう!」

「では、少しお待ちくださいね」

 わたしのはしゃぎっぷりに目を細めながら、彼は給湯室へ向かった。

 彼は恋愛に関して不器用だと自分では言っていたけれど、こうしていつもちゃんと女の子が喜ぶツボを押さえてくれている。一時期はわたしも、「この人って本当に恋愛下手なのか」と疑問に思っていたほど。

 でも彼だって、不器用なりにいくつか恋愛をしてきたのだろう。わたしより八歳も年上で、その八年分はわたしより厚みのある人生経験を積んできていたはずだもの。

「――もしかして桐島さん、わたしの恋心に気づいてるのかな……?」

 会長室にひとりきりのわたしは、コーヒーを淹れてくれていた彼を待つ間に、経営学の本のページをめくりながら独りごちた。

 母と里歩は知っていたけれど、このオフィス内ではわたしが彼――貢に恋をしていることは秘密だった。それこそ、ちょっとオーバーだけれど〝最高機密(トップシークレット)〟といっても過言ではなかったのだ。

 いくら思春期の女の子とはいえ、大財閥のトップが秘書に恋しているなんて、公私混同もいいところ。彼との関係がこじれて、経営面にまで影響が出てしまっては、トップレディの名折れどころか経営者として失格である。
 そのため、二人がキチンと婚約までして、もうこじれる心配がないと確信できるまでは二人の関係を(おおやけ)にするつもりはなかったし、それどころかこの頃はまだ、彼に告白するかどうかすら決めかねている状態だった。

 彼の方がわたしのことをどう思っているかも分からない状態で、わたしの気持ちに気づかれていたとしたら、二人の関係は気まずいことこのうえなかっただろう。
 それでも、ずっと気づいてもらえなかったとしたら、それはそれで悲しい。わたしの初恋は、そういうジレンマの連続だった気がする。

「はぁー……、恋って厄介ね」

 大きくひとつため息をつきながらも、それどころではなかったと思い直し、わたしは再び本のページをめくり始めた。

「恋も大事だけど、今のわたしにはこっちの方が重要よね」

 わたしは幼い頃から、両親に〝帝王学〟ならぬ〝女帝学〟を身につけさせてもらっていた。おかげで英会話もこなせるし、書道では段を持っている。学校の成績は常に上位をキープしていたし、料理もできるし、パソコンの扱いだってお茶の子さいさい。
 でも経営学だけは、実際に自分が(たずさ)わってみないと分からないことだらけだった。経営する会社や財閥の規模によっても違うし、働いている人たちの個性だって現場にいなければ分からない。
 だからわたしは、こうして会長の職務をこなしつつ、その合間に独学で経営について勉強していたのだ。

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