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覚悟と恋の自覚 ④


****

 ――父の病を知った日のことは、今でもよく覚えている。というか、この先も一生忘れることはできないだろう。

 その連絡が母から来たのは、その日の午後。お昼休みも終わり、五限目の授業が始まって間もなかった頃だった。
 授業中に、制服のブレザーの右ポケットでマナーモードに設定してあったスマホが震えたのだ。開いてみると、発信元の表示は母の名前だった。
 直感的に、この電話で、父に何かあったのだとわたしには分かった。

「――先生! 母から急ぎの電話が……。出てもいいでしょうか?」

 授業中であったため、わたしはすぐに出られなかった。クラス担任でもあった国語の先生には事情をお話ししてあったので、彼女は「すぐに出て差し上げなさい」と言ってくれた。

「――ママ、お待たせ。……どうだった?」

 廊下に出て通話ボタンを押すと、わたしは第一声でそう訊ねた。

『絢乃……、いい? 落ち着いて聞いてね。――パパはね……』

「――え? 末期ガン?」

 母の答えを聞いた途端、わたしは目の前が真っ暗になった気がした。
 神様は意地悪だ。どうしてわたしたち親子に、こんなにも残酷な宣告をなさったのだろう?

『ええ、そうなの。元々はガン細胞が胃にできてたらしいんだけど、それがもう体中のあちこちに転移してて。後藤先生も外科医の先生も、もう手の(ほどこ)しようがない状態らしいのよ。余命宣告も受けたわ』

「そんな……。余命って、あとどれくらいなの?」

『もってあと三ヶ月、らしいわ。もういつどうなってもおかしくない状態なんですって』

「…………そう」

 わたしは重苦しい息を吐き出すように、それだけを言うのが精一杯だった。

「ねえママ、パパは入院しなきゃいけないの? 今日家には帰れるの?」

『そうね……、今日はとりあえず家に帰ってもいいって。会社のこともあるし』

 父が治療に専念することになれば、経営にも支障が出かねないということだった。母は会社やグループに(たずさ)わる人たちの生活面を心配したらしい。

「じゃあわたしも、先生に事情を話して早退させてもらうわ。電車で帰るから、時間かかっちゃうけど。コレばっかりは――」

『待って絢乃。寺田を迎えに行かせるから、あなたは学校の前で待ってなさい。電車じゃ時間がかかりすぎるでしょう?』

 母がわたしのために、寺田さんを動かすことはあまりない。この時ばかりは、緊急事態だからそうしたのだとわたしは思う。

「分かった。ママ、ありがとう! じゃあわたし、とにかく先生に事情を話すわ。寺田さんには、わたしが校門の前で待ってるって伝えてくれる?」

  母は「分かったわ」と言って電話を切った。

 ――その後、わたしはすぐに担任の先生に事情を話して、学校を早退した。
 本当はその場で早退届を提出しなければならなかったのだけれど、事情が事情なのでそれは翌日登校した時でいいと、先生は譲歩してくれた。

 校門の前でニ十分くらい待っていると、一台の黒塗りのセンチュリーが停まり、運転席から白手袋をした寺田さんが降りてきて、後部座席のドアを開けてくれた。
 彼は五十代半ばで、髪はロマンスグレー。篠沢家にはもう三十年近く仕えていて、母は高校時代から送り迎えをしてもらっていたらしい。――もっとも、元は五年前に六十代後半で亡くなった祖父のお抱えだったらしいのだけれど。

「お嬢さま! 奥さまから事情は伺っております。どうぞ、お乗りください!」

「ありがとう、寺田さん。――とりあえず、家までお願い」

 わたしは後部座席に乗り込むと、運転席でシートベルトを締め直している寺田さんにそう告げた。
 気持ちにゆとりがあれば、広々とした座席にゆったり座ってひと息つきたかったけれど。わたしの顔から緊張の色は消えなかった。

「心得ております、お嬢さま。では、安全運転で参ります」

 ハンドルを握りながら、彼はルームミラー越しにわたしの様子を心配そうに窺っていた。

「――お嬢さま。旦那さまのことがご心配でいらっしゃるんですね……。ですが、この車内では心を落ち着かせて下さって大丈夫でございますよ。お嬢さまは本当にお父さま思いでお優しい方ですね」

「うん。だってパパは、わたしのたった一人の父親なんだもの……」

 わたしの人生の目標であり、憧れであり、尊敬していた父が病に侵されているなんて……。父の苦しみを思うあまり、わたしは気がつけばひとり嗚咽(おえつ)を漏らしていた。

 そんなわたしを、寺田さんはただ好きなだけ泣かせてくれていた。

 ――気が済むまで泣いたわたしは、桐島さんに連絡しようと思い立った。
 でも、彼はその時間仕事中のはずだったので、メッセージを送ることにした。

〈桐島さん、さっきママから連絡がありました。
 パパは末期ガンで、余命はもって三ヶ月だそうです。ショックです。
 ガンって苦しいんでしょうね……。パパの苦しみを考えただけで、わたしは胸が張り裂けそうです。さっき、泣いちゃった。
 このメッセージに気が付いたら、何時でもいいので連絡下さい。 絢乃〉

「――お嬢さま、もうすぐ着きますよ」

 メッセージを送信し終えてスマホをポケットにしまう頃、寺田さんがわたしにそう言った。 

****

 ――家の玄関を上がると、スリッパに履き替えるのさえもどかしかったけれど、どうにか気持ちを落ち着かせて靴を履き替え、リビングへ飛び込んだ。

「ただいま! ――パパ、具合は……」

「おかえり、絢乃。お父さんは今のところ、何ともない。それより、お前の方が顔色がよくないぞ」

 父は明らかに強がっていた。そして自分の体調よりも、娘であるわたしの精神面を気遣ってくれていた。

「お母さんから聞いたんだろう? お父さんが末期ガンで、もう長くないと」

「うん……。パパも、告知されたの? 余命宣告も?」

 ガンを(わずら)った患者本人に、医師が直接病名や余命を告知することはあまりないらしい。治療に専念してもらうためなのだとか。
 なので、本人に席を外してもらうか、別室へ家族を呼んで病名や余命を伝え、家族から患者本人に伝えてもらうのが一般的らしいのだけれど。

「ああ。後藤はお父さんの性格を知り尽くしてるからな。下手に隠しごとはできないと思ったらしい」

「そうなの……。でも、ショックじゃなかった? 自分の死期がすぐ近くまで迫ってるなんて」

 わたしなら、到底受け入れられないだろう。いくらその医師が友人であっても、その言葉を信じられなかったと思う。
 でも、父はそれを受け入れた。それは友人である後藤先生との信頼関係からなのか、それとも潔い父の元からの性格からだったのかは、今となっては分からない。

「……そうだな。ショックじゃなかったといえばウソになるが。それでも隠されているよりは、正直に話してもらった方が、お父さんはむしろホッとしたな」

「どうして?」

 自分がもうすぐ死ぬと分かったのに、父はどうしてホッとしたのだろう? わたしは首を傾げた。

「それなりに覚悟ができるから、かな。死期が近いと分かったら、その分一日一日を大事に生きようと思えるし、お前とお母さんに遺言を遺すこともできるから」

「遺言、って……」

 その言葉はあまりにも重くて、わたしの胸はギュッと締め付けられた。
 そして、病を宣告された本人である父の落ち着きと、自分のことのように取り乱している自分自身との落差で、わたしの頭の中は混乱していた。

「……ママ、ごめんなさい。わたし、部屋にいるから。勉強しなきゃいけないし、一人になって頭を冷やさないと」

 父と母の前では泣けない。誰よりもその事態にショックを受けていたであろう両親の前で、当事者でもないわたしが泣くわけにはいかなかった。
 泣くなら自分の部屋で、一人になって思いっきり泣きたかった。

「……分かった。ああ、里歩ちゃんにはちゃんと連絡してあげなさいよ? きっと心配してるでしょうから」

「うん。もちろんよ。――じゃあ」

 わたしは頷き、リビングを後にした。両親を二人きりにしてあげたいという、親孝行めいた気遣いもあったと今は思う。
 まあ、お手伝いの史子さんもあの場にいたので、厳密には〝二人きり〟ではなかったけれど。

 母に言われるまでもなく、わたしはそうするつもりだった。里歩には父がこの日、病院で検査を受けることになっていたことは話してあったし、同じ学校で同じクラスなので、わたしがどんな理由で早退したのかも彼女は知っていたから。

 そして――、もしかしたら、彼からも連絡があるかもしれないと思っていた。

****

 部屋に戻ってからは、思いっきり泣こうと思っても泣けなかった。それどころか、何も考えられずに茫然としていただけだった。
 人間というのは、受け止めきれないほどの大きなショックを受けると、自動的に思考や感情を止めるらしい。

 わたしの部屋は、それだけで一般的なアパートの一室くらいの広さがある。彼が同居を始めた今となっては、別の部屋を二人の寝室にしたのでこの部屋はわたし専用の書斎になっているけれど。

 その広い部屋にクイーンサイズの大きなベッド、大きな机、テーブルと椅子のセット、ドレッサーがあり、専用のお手洗いとバスルーム、ウォークインクローゼットまでついている。
 部屋のインテリアは大好きな淡いピンク色で統一してあって、ラグもカーテンも寝具一式も全部、濃淡の違いはあってもこの色である。

 この後、わたしや母はどうなるのだろう? ――この時のわたしは、そんな答えの出ないそんな問いかけをずっと頭の中で繰り返していた。

 この家の財産は、当主である母が弁護士の先生とともに管理していた。だから父のガン治療にいくらお金がかかっても痛くもかゆくもなかったし、わたしの学費の心配だってなかった。

 でも、わたしが心配していたのはそういう金銭面のことではなくて、精神面でのことだった。

 わたしも父のことが大好きだったし、お見合い結婚だったにも関わらず、母も父のことをそれはそれは愛していた。
 父に万が一のことがあったら――余命宣告を受けたので、もうその確率はほぼ一〇〇パーセントに近かったけれど、わたしも母も、果たして立ち直れるだろうか? もう二度と、笑うことができなくなるのではないだろうか? ――そういうネガティブな想像ばかりが、頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。

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