(5)
入浴を済ませてから一度二階の自室に戻ると、珠雨は普段使っている基礎化粧品を持ってきた。ドラッグストアで適当に買ったハトムギの化粧水と乳液だが、肌に合っている。禅一の前に椅子を持ってきて座り、前髪が邪魔なのでピンで止めた。
化粧をしないまでも、スキンケアだけは絶対にしてくれと氷彩に懇願された。どんなジャンルの恰好をしてもいいが、みっともない恰好だけはしないでくれと口うるさく言われた。
小さい時の一人称は「僕」だったが、成長するにつれ「俺」に変わった。それについて氷彩が口を出すことは何故かなく、女の子らしくしなさいと言われたこともない。受け入れてくれてありがたく思う。実際「有り難い」のだろう、と客観的に見て思う。
だから氷彩の言葉を守って、いつもスキンケアは怠らないし、だらしない恰好はしない。それは珠雨なりのけじめだ。
「触るよ?」
「……どうぞ」
少し緊張して声が強張った。よく考えてみたら、禅一に触られるのなんて初めての経験だった。子供の頃手を繋いだりはあったが、それはまた別の次元の話だ。
「珠雨の肌は、綺麗だね」
化粧水で湿った禅一の指先が触れた。
「いくら若くてもちゃんとケアしないと、こうはならないよ」
「……そういうの、いいですから。恥ずかしいんで」
至近距離で目を合わせづらいし、化粧水が入ったら嫌なのもあって、軽く目を伏せている。その為禅一の表情は見えないのだが、声だけだと色々想像してしまっていけない。
自分で言い出したことだが、一体何故こういうシチュエーションに陥ったのか、珠雨はわからなくなってきた。少し前の己を罵る。
「話しながらするのが、僕は好きだから。綺麗だねって褒めてあげると、心も潤うと思うんだ。肌と同じで、心もそういうのが欲しいんだよ。……緊張してるのかな。力、抜いて」
珠雨の頬や額、顔のあちこちに触れる禅一の大きな手。ただスキンケアされているだけなのにどきどきしてきて、珠雨は自分を持て余す。
(待って何これエロい)
己の中にある女の部分を無理矢理引きずり出されるような、妙な感覚に陥った。確かにこれでは過剰に女性ホルモンが分泌されてしまいそうで、とても困る。
言わない方がいいことを、言いそうになる。
「禅一さんて……そうやってうちの母を甘やかしてたんですか?」
「甘やかすのは好きだよ」
禅一の手の温度で、化粧水が肌に浸透してゆく。癖になりそうなくらい、気持ちいい。
「……ねえ、あざみちゃんはどうして」
「ん?」
無意識に昔の呼び方をしていた自分に気づき、珠雨は言葉を飲み込んだ。
「あ、違くて! ……禅一さんは」
「好きなように呼んだらいいよ。何かな」
「どうして、母と別れたんですか」
答えてくれないかとも思ったが、禅一は結構普通に答えた。
「大人には色々あるんだよ。僕が意識して黙っていたことが、結果的に氷彩さんを傷つけることもある」
「あざみちゃんが悪かった……ってこと?」
「少なくともこの件で氷彩さんが悪かったとは思ってない。僕が悪かったと珠雨が思うなら、それでもいいよ。だけどこの話はもう終わり。さ、つやつやのピカピカの出来上がり」
禅一の声はどこまでも穏やかだ。声を荒げて怒ったりしているのを見たことがない。それは幼い時の記憶でもそうだった。ずっと禅一の手のひらに包まれていたかったが、その手は珠雨から離れた。
喪失感。
触れるべき話題ではなかったのかも知れない。禅一は珠雨に何か隠している。
「睡眠も美容には大切だよ。もうおやすみ。僕はまだやることがあるから」
その態度はどこか珠雨を遠ざけているようにも感じた。珠雨の表情が曇ったのに気づいているだろうに、そのことについては触れずノートパソコンを控室からテーブルに持ってきて作業を始めようとしている。
「禅一さん」
「何?」
電子タバコをくわえてディスプレイを見つめている禅一に、唐突にも思える言葉が口からこぼれる。
「俺、男とか女とかそういう括りで環奈ちゃんと付き合わないわけではなくて。子供の頃からあざみちゃんがずっと理想の相手で、つまり……禅一さんが好きなんですよ」
返事はなかなか返ってこなかった。少し考えるような沈黙が落ちて、何か言い募ろうかとした時に、やっとリアクションがあった。
「迷惑かもしれないけど、僕は珠雨を本当の子供のように思ってる。僕も珠雨を好きだけど、そういう好きじゃ駄目かな」
にこりと笑んだ禅一は、昔見たあざみちゃんの笑顔と同じだった。どこかに憂いを含んだ、笑顔。
これは言ってはいけない言葉だったのだ。