生贄
ジールの丸い爪先が、こつん、と目の前にある椅子を蹴った。
「勘違いしないでよね、ロゥリィ」
「いい、いったい何がだいジール?」その椅子に縛り付けられたキツネ目の男=ロゥリィの声がわずかに震えている。
それはもはや周りを欺く演技ではなかった。
この女ヤバい。という本当の怯え。
「私、人・の・命・を・守・る・た・め・な・ら・、人・の・命・を・奪・う・こ・と・く・ら・い・な・ん・と・も・思・っ・て・な・い・か・ら・」
「ま、またまたそんな冗談を……ね? 君と僕との仲じゃないかぁ」
「大方の予想はついてる。あの時の火事……あれもあなたの仕業でしょ?」
「へ……」
呆然とするロゥリィの目の前で、ジールは愛用の投げナイフに小瓶から取り出した液体を、その鈍く光る刃にちょっぴりかけた。
「そ、それはいったいな……に?」
「安心して、死ぬクスリじゃないから」
「だ、だからなんのクスリよぉ!?」
うろたえるロゥリィの言葉には答えず、ジールは淡々と話した。
彼の目は一切うかがわずに。
「先に……チビをどうする気だったの?」
「あ、あれ……キミの子ども?」
スッと、ロゥリィの尖った鼻先に刃先が添えられる。
「こっちの質問に答えて」
震える頬にぴたぴたと冷たいナイフが当たる。
「そうやって虚言で自身を隠すのが好きだった……昔も今も。仲間意識も全くなかったしね、お調子者」
濡れたナイフが、ロゥリィの指先を軽く突いた。
「ひ、ひゃぁぁぁあ!」
「私の前ではそんなの通用しないから」
「わ、わかりまひた! だから解毒剤ちょうだいいいい!」
「言ったでしょ、死ぬクスリじゃないって」
足元に水溜りができるほどの脂汗をかきながら、ロゥリィは答えた。
「ファゾム神さまのお告げさ……ここ数ヶ月近くここは記録的な不漁で、僕らが巫女に解決するための策を求めたんだ……そうしたら」
ファゾム神……海と漁の守護神であることは彼女も知っていた。そして武闘派な信者が多いことも。
「この月に西から来る子どもを生贄として捧げれば、全てはおさまるって……」
「それがチビってこと?」
震えはピークに達し、そのうなづきはもはや痙攣と変わらなかった。
「そう言うことに関してはすごく頭が回るんだよね……で、ラッシュとあたしたちを引き離した意味は?」
「まさに僥倖だったとしか思えない……ちょうど島でもトラブルが発生してたしね。もうすぐ船団が到着する。それで全て解決さ」
いつもの彼女の深いため息。そして……
その細い腕が、仕立て上げたばかりであろう上質なジャケットの胸倉に伸びた。
そのままぐいっと締め上げ……だがジールは怒りを胸の奥で押さえつけたままだった。
「島の人たちになにをする気?」
「欲しかったのさ! 漁業権なんて二の次、あそこは最高の真珠や珊瑚がたくさん採れることが分かったからね。頑固な島の連中だけどうにかできればいいのさ、あとは大したことない、連中なんかみんな捕まえて始末するだけ! そうだろうジール?全ては地位さ! 名誉さ! そしてカネ!」
そうか、つまりは自分たちは全ていいタイミングで来てしまったがゆえのこと?
心の奥でコイツを殺せと声が聞こえた。だが今ここでやってしまえばウェイグの行方が……
いや、違う!
ジール胸に爪を立て、ぐっと吐き出しそうになる気持ちを食い止める。
そうだ、こいつは、こいつは……!
「ロゥリィ……そこまであたしたちにウソを突き通す気!?」
「は、は、なに……を?」
押さえきれない衝動が、ロゥリィを椅子ごと突き倒した。
「ファゾムはそんなこと言わない! 利のために罪もない人を殺す神じゃない!」
息が上がる。胸の中の炎が、危険なほどに。
「人を守る神は、そんなこと言わない!」