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 四月一日
 浮き足立っている新大学生をかき分け俺はゼミ室へ急いでいた。
 ぶっちゃけ急ぐ必要はないのだが、急がなければ要らぬことを考えてしまいそうなので急いでいる。下手すれば六歳近く年の離れた異性と、しかも初対面なのにラブコメの相談をするというラブコメみたいなシチュエーションにいきなり放り出されたのだ。この状態に平静を保てるのはたぶんブッタかイエスだろう。

 だが投げ出すわけにもいかない。実際、今のラブコメでは連載に持っていけないのは理解した。このチャンスを無駄にはしたくないのだ。

 そうこうしているうちにサークルの部室こと美術室の前へきた。呼吸を整える。神奈月遙…一体何者なのか、教授の言ったことはどこまで本当なのか……。
 軽くノックをしたのちドアを開け中を確認する。

「いや良く考えればまだ昼飯も終わってないわ」

 現在午前十一時。高等部はがっつりホームルームの時間である。
 自覚以上に緊張していたようだ。

「まあいいか、神奈月遙が来るまで漫画を描くことにしよう」

 誰もいない部室に入るといつも座る席に座った。やはり定位置はいい、落ち着いて物事を進めることが出来る。久しぶりにいいネタが思いつきそうだ。

 しかしやっぱり落ち着きを取り戻せてはいなかったのだろう。俺は失念していた。
 こういう時、十中八九…俺は寝る。

 ♠♡♢♣♤♥♦♧

 やべぇ寝てた…

 未だ浮いている意識を掻き集め、目を開く。描きかけのネームが無くなっていた。

「あの…芥川先輩……すか?」

 声のするほうへ身体を向けると一人の少女がいた。

(おっぱいは大きくないな)

 流麗な黒髪にガラス細工のようなくりくりの瞳。そして当たり前のように整った顔から零れる自然な微笑、それなのに子供のようなあどけなさも感じられる。
 外からの逆光と寝起きのぼやけた視界もあって一瞬天使と錯覚した。

「あぁ、そうだ」
「やっと……」
「?」
「あ、はじめまして私が神奈月遙です!すいません先輩が描いてた漫画読んじゃいました!なんというか下手くそですね!」

 前言撤回、こいつ悪魔だ!

「なんだよいきなり!」
「和田センセの言う通りめっちゃくちゃ童貞臭いです!」
「お前、俺のファンって聞いたんだけど!?」
「ファンですよー?ファンだから駄目だしするんですよー!愛のムチってやつです!」

 ぼやけた視界がだんだん回復してきたので改めて神奈月遙を見ると目が三日月だった、盛大にニタニタしてやがる!なにが愛のムチだ!
 俺が返答しあぐねていると神奈月遙は畳み掛ける。

「えー、おほん。私…留学することに決めたのーーー」

 妙に芝居がかって読み上げているのは俺が突っぱねられた新作の一部だ。

 ヒロインは重い病を患った妹がいる設定。
 主人公への恋心か海外留学かを悩み抜いた結果、留学先から提示された妹の医療費全額負担を選ぶ。
 そして空港でプレゼントのイヤリングを返して主人公に別れを告げるシーンだ。

「だから…これ返すね」

 神奈月遙は髪の毛を耳にかけると付けてたピアスを俺に渡して目配せした。俺に男役をやれということか?

(なるほどな、ここで神奈月遙をトキメかせることが出来ればいいってわけか)

「分かった……でもこれは持っていてくれ」

 俺は神奈月遙からピアスを受け取ると漫画の展開であるピアスを付け直す体勢を取った。
 髪の毛をかきかげるとふっくらした耳たぶが目に映った。

 さて、さんざん童貞童貞と言われていた俺だが実際のところは本当に童貞なのか疑問に感じている者もいるだろう。結論から言おう。
 俺は童貞だ。

「っ…!」

 無残にも俺の童貞バンドは神奈月遙の耳たぶに触れられず明後日の方向へ逃げてしまった。反動で身体まで後ずさる。

「………ふっ」

 神奈月遙はニタニタしながら近づいてきた。
 その反応を待ってましたとばかりに…。

「どーしたんですか先輩?まさか…ときめく以前にシチュ再現も出来なかった感じですかーw」
「む、虫が飛んでたんだよ」
「なるほどなるほど……じゃあ仕切り直しましょう、それっ!」

 神奈月遙は俺の手を引くと自分の耳たぶにまで持ってきた。
 冷たくて柔らかい感触が指に伝わる。

 あといい匂いもした。ねぇ俺たちって同じヒト科だよね?

「お、おい」
「あれもしかして先輩ピアス開けたことないんですか?見たところ穴空いてないですよね、じゃあなんであんなシーン描いたんですかw」

 好き勝手言いやがって!!

「まったく仕方がないですねぇ」

 ピアスをこうやって付けるんですよ。と手を重ねて指導しはじめた。なんとも言えない浮いたような時間が部屋を包みこむ。

「この構図…見覚えありませんか?」

 ふと神奈月遙の呟きによって気づいた。そして絶句した。

「分かりましたか?この構図だとブラはどうやっても見れないんです。だって女の子の制服は全部右前なんですからw」

 たしかに言われて気づいた。俺の漫画は右からイヤリングをつけている時に、読者サービスとしてヒロインの服の隙間から下着が見えるように描いていた。しかし神奈月遙の言う通り制服の造り関係で物理的にそれは不可能だ。逆にする必要がある。

 だがそこでは無い。俺はそっと目を逸らした。

「目を逸らさないで下さいよー、人と話す時はちゃんと人を見て話さないといけないって教わりませんでした?」
「あのな神奈月…」
「なんですかー先輩w」
「下着……見えてるぞ」
「へっ…?」

 おそらくさっき神奈月遙が俺を引き寄せた時だろう。ぶつかった拍子に神奈月遙の第二ボタンは見事に吹っ飛び、見えるはずのない下着が露わになったのだ。

 下を向いた神奈月遙はそのまま固まった。身長の関係で表情が見えない。
 仮にも初対面の年上をここまで弄ったのだ。同情するが天罰だろう。少しは反省して欲しい。

 しかし神奈月遙が発した言葉にはそんな要素など一欠片も無かった。

「ラッキースケベおめでとうございます先輩!!」

 ばっ、と顔を上げた神奈月遙はニタニタした表情を出しながら捲し立てる。
 だが先程のような怒りは湧いてこない。

「女の子のブラを見るなんて童貞の先輩には初めてなんじゃないんですかっ?」
「あのなぁ」

 なぜなら弄り倒そうとする言葉とは裏腹に神奈月遙の顔を真っ赤だったからだ。目も高速で泳いでいる。

「ねぇ!先輩ったら!!」
「無理すんなって!今日はもう帰れ!」

 だんだん居た堪れなくなってきた。しかしこのまま帰すとどうも具合が悪い。いや個人的にはとても趣きのある風貌なのでとても具合がよろし……って違う違う。

 うちの女子制服はブレザーとリボンだから隠して帰ることも難しいからだ。俺は着ているカーディガンを脱いだ。

「もうこれ着ろ!さっきのシチュと構図の修正がしたいから今日のところはひとまず帰ってくれ!」

 カーディガンを押し付けると、俺はネームと睨めっこを開始した。……なんかもっと言い方があったんじゃない?という指摘には肯定しかないが、情けないことに膝がガクガクだったんだ、許してほしい。

「………分かりました」

 神奈月遙はブレザーを脱ぐとカーディガンを着て一番上までボタンを止めた。
 それからドアを開けると

「カーディガンありがとうございます」

 小さくお辞儀をして去っていった。
 足音が聞こえなくなったのを確かめると俺は大きくため息をした。

「流石にこれはなぁ…」

 もう神奈月遙は来ないだろう。お互いにいきなり踏み込みすぎた。
 しかも事故とはいえ事が事だ。謝らなければ、でもどうすれば…。

「あぁ…くそっ、さっきの光景が頭から離れねぇ」

 やっぱり俺は童貞だ。
 理性で目を離しても、罪悪感があっても、本能が脳みそに焼き付けようとする。ドキドキと送られてくる血液を全部、そのために使おうとしているのが分かる。

 その時、ポケットにあるスマホが鳴った。LINEだ、新しい友達に【神奈月遙】と表示されていた。

『来週も来るんでバックれないくださいねーw』
「……あんのクソ編集ーーーーーーッ!!!!!」

 俺が和田教授に鬼LINEしたのは言うまでもない。
 ついでに罪悪感も無くなった。

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