飛行機に乗って、故郷へ
飛行機に乗って座席に着くと、潤子(うるこ)は私の方を向いて、にっこりと幸せそうにうなずいた。
「よし、準備万端。いつでも出発してオーケーよ。客室乗務員のお姉さん、とっても綺麗ね。私が男だったらきっと用事もないのに声をかけているわ」
「ほんと、でも潤子、あんたも彼女らに負けないくらい美少女よ。小説家をやめて、客室乗務員に挑戦してみたら」私は潤子の可愛らしい頬をつついて言った。
「お客様相手だと、ほんとうに仕える態度がないと駄目よね。私にはきっと足りない部分でもある。だから悲しいけどやめておくわ」
「そうよね。おとなしいお客さんばかりではないからね。なかなかそこが難しいところ」
飛行機は滑走路を勢いよく走って、中に浮いた。あっという間の出来事だ。潤子は窓からその光景をじっくりと眺めている。
「ああ、なんて素敵なんだろう。車があんなに小さく見える。ここからじっくりと観察していると、全てがなんだか切なく感じる。私の手のうちに包み込まれるような、とても考え深いものがある。車の中には運転している人がいるんだよね。私と同じように呼吸をして、家族がいたりテレビを見たり、美味しい食べ物を食べたりしているんだよね。でも、そのことを感情移入することができない。それってほんと寂しいことだわ」
「そうね、私たちってどうしようもないほど、トンマな生き物だから。でも小説を通して、映画やドラマを通して、感情移入することができるのよね。思ってみれば実際の人たちから、心を動かされることってそうないことに今気づいた。なんでだろうね。私たちって生きていると映画のような複雑な感情の動きってあまりないじゃない。ほとんどの時間、私たちは仕事に専念していたり、無心に料理とか作ったり、日常で感動する場面てないよね。そのなかで占めているなにか自分にとって必要なもの、重要なものって、物語性があることでしか心に響かないんじゃないかな。でも、私たちは語るとき、自然と自分のなかで、実際に起きたことを少し改変して人に語っているんじゃないかな。嘘とは違う、なんて言ったらいいのかな、私たちは現実を直視しては生きていくことはできない、だからこそ、テレビを見たり、本を読んだりすることによって、自分の心の隙間にある空白を埋める作業をしているんじゃないのかな」私は今小学生の女の子と話しているんだよね。潤子相手に大人と同じような会話をしていることに今気づいた。
「みつきは小説を書いてみようって考えたことないの?いつも側に作家がいるじゃない」
「そうね、何度か自分が小説を書いている夢はみたことがある。でも自分に小説を書くことができるなんて想像したことってなかったな。今、潤子に問いただされて初めて自分には書けるかなって疑問に思った」私は潤子の瞳がキラキラと、ほんとうにクリスタルのように輝いているのを見て、美しいと感じた。その姿から、いかに彼女が小説を愛しているのかがわかった。正直になんて純粋さを秘めているんだろうと私まで心の中にたくさんの水滴が収まるような気分を味わった。
「きっと、みつきにも小説を書くことはできると思う。こんど挑戦してみたらどうかな。作家さんたちの添削をしているんだから、物語を書くこつはあるんじゃないかな。ひょっとしたら並みな作家より素敵な作品を書くことができるかも」
「作家と編集者の脳の形態って潤子が想像しているよりも大きな違いがあると思うのよね。実際に電車を運転している人と、ビデオゲームで電車を操作している人とがかけ離れているようなものね。作家は多くの場合、世界中を相手に戦っている。私たち編集者はその人の武器に弾丸を供給する作業をしている。そんな例えかな。それってほんと重要な任務なの。その作家が勝利したとき、私たちは心から喜ぶ。新しい新世界を作る為の努力が報われたことをひょっとしたら物語を描いた作家たちより感動しているかもしれない」
「ふーん、なんか面白そうね。私も編集者に興味をもった。みつきの例えって心に訴えかける。私も真剣になって、生半可な姿勢で小説を書かないように励まされたわ」
「でもあまりにも真剣になりすぎても、ちょっとどうかなと思う。ただ、純粋な気持ちを忘れないようにね。小説のなかに偽りがあってはいけない。小説は虚構ではあるけど、そこには自分の頭の中に流れているイメージを文章に写しとるという行為だから、そこには人々を楽しませるとか、悲しみを覚えさせるといったこと、様々な複雑な行為が交差しているけど、大事なことは自分を信じて最後まで書ききることね。言葉がだれることってあるけれど、毎日少しずつでも書いていくことね。塵も積もれば山となる。これこそどんなことにでも当てはまることなんじゃないかな。例えば一日に原稿用紙一枚小説を書くとして、それを365日続けるとしたら一年で一冊の長編小説が出来上がることになる。とっても大切なことだね。一番重要なことってなによりも自分の頭のなかに漂っている映像を書き取るってこと。今までに誰も描かなかったような描写を文章にすること。まるで作詞作曲をひとりでするみたいな感じだよね。今は昔と違って自分の小説をたくさんの人に見てもらうことができる。まるで一人一人がテレビ局みたいなものよね。小説を出版する為にはできるだけ多くの人に本を買ってもらう必要がある。でもネット小説では、たった一人の読者の為に書くこともできるんだ。それって素晴らしいことだよね。まるで今みたいに大空を飛ぶみたい。お金を払えば私たちは鳥になれる。それは素晴らしいこと。今の時代に生きていて、とても貴重なことはいろんな世界を見てまわることができる。たくさんの人たちと繋がれる」私はまわりに搭乗している人たちが楽しそうに笑顔で恋人や家族とにこやかに話している様子を見て穏やかな安心感を抱いた。
ジャンボジェットは順調に雲の上を飛んでいる。潤子は鞄から文庫本を取り出して、静かな呼吸をして読んでいる。私は周りの人たちの喜びに満ちた、そしてその興奮を抑えようとしている姿に感銘を受けていた。私たちは同じ思いをもっている。この今の瞬間を切り取りたいという感情が沸き起こってきた。この光景をずっと心のうちにとどめておきたい。毎日生活しているときにも思い返すことができるだろうか。きっと人間的な不完全さのせいで今感じているような鮮明さは薄れてしまうだろう。でも、できるだけこの思いを脳内に記憶させるため、目をつぶって映像として記憶させることに努力した。客室乗務員が気分のよくなるような自然な微笑を浮かべながら歩いてきた。とても優雅な、人を穏やかにするような、まるで素敵な絵画を見るような雰囲気にさせてくれる。それは値のつけようがないものだ。彼女たちのそんな気分を清々しいものとしてくれる彫刻像のような肢体、とくにスラリとした脚を眺めていると、きっと男性なら恋を抱いてしまうのではないか。
視界に大陸が見えてきた。北海道の大地だ。飛行機は着陸体勢に入って、潤子は窓ガラスから、その流れる様子を見ている。口を開けて、赤い舌がなんとも可愛いらしい。
「みつき、とても綺麗な景色だよ。なんだか私の肺のなかにも新鮮な空気が入ってくる感じ」
「ほんと、素敵な風景もそうだけど、早く美味しいものを食べたいな。空港にもたくさん品揃いが豊富だから、何を食べたらいいか迷っちゃう。潤子なに食べたい?」
「やっぱり新鮮な刺身が良いな。お寿司か海鮮丼。あとスイーツも食べたいな。ほんと迷うわよね」
飛行機は新千歳空港に到着して、私たちは飛行機を降りた。空港内は観光客で混雑していた。お土産を売っているお店がたくさんある区域には、お馴染みの北海道銘菓がならんでいる。潤子はすっかり魅了されているようで、私の手を掴んで軽く握り返してきた。
「みつき、私が考えていたより空港、大きいね。なんだか迷いそう。それに凄い食材の宝庫って感じ。色んなものが売っている」
「ほんと、そうね。私もなんだかお腹空いちゃった。空港内じゃなくて、札幌の中心街まで行って美味しいものを食べようか」
「うん、なんかお肉も食べたくなっちゃった。ジンギスカンなんてどうかな。まだ一度も羊肉食べたことないんだ」
「それじゃ、お昼はジンギスカンにしよう。それと、潤子に連れて行きたいところがあるの。じつは私、まだ世間に知られていない芸術家の卵のような人たちの作品が展示している画廊があって、そこに私の部屋にも飾っている作家の絵画があってね、資産として購入しているのではなくて、純粋に気に入った作品を買っているんだ。きっと潤子も興味を抱くと思う」インターネットでも新人の作家が自分の作品を公開しているけど、札幌の画廊では実際にこの目で見ることができる。全ての作品がプロとして通用しているというわけではないけど、その幼稚といったら失礼かもしれないが、その部分ですらいとおしく感じる。
「へえー、素敵、小説に通用するわね。私今まで絵画に興味をもったことなかった。みつきにそんな趣味があったなんて知らなかったわ。私も自分へのご褒美に買ってみようかな」
「ぜひ、お薦めするわ。ひとつの作品が一万円くらいで売っているから、潤子にも買えるとおもう」
「そうなんだ。楽しみだな。素敵な作品があったら、私のお店にも飾ることができるかもね。ありがとう、私の目に写らなかった風景を提示させてくれて」
快速エアポートに乗って札幌を目指した。電車内は静かだったが、私たちと同じように観光客が多かった。これからの風景や感情を膨らませるような期待感が分厚い層のように高まっているのがわかった。車窓の風景はだんだんと都会に近づいていることを知らせていた。潤子は流れる景色を飽くこともなく眺めている。きっと気に入ってくれているのだろう。ご機嫌な表情で笑みがたえない。その様子を見て、私までウキウキしてくる。この電車内にいる大勢の人たちは小説を読んだりするのだろうか。そんな疑問が沸き上がってきた。たまに読書をしている人を見かけることはあるけど、ほとんどの人はスマホを操作していることが多かった。でも今はネットでの携帯小説が普及しているから、ひょっとしたら見てくれているかもしれない。私の担当している作家にも私の会社が主宰するサイトで書いている人がほとんどだ。そこで評価された人だけが書籍化することになっている。今の世の中初めから小説家としてご飯を食っていける人はいない。なかにはアルバイトをしながら小説を書いている人も大勢いるのだ。ネット小説から人気が出て、書籍化されるという機会もある。でも有名な作家でさえ印税は僅かなものだ。それだけで生活できる人はいない。一生懸命自分の命を削るような文章を書いて、報われる人たちは数少ない。私はそんな作家を見てきている。ほんとうに小説を書くことが大好きな人たち。この社会はひたむきな人たちで満ちている。全ての人たちが自分の大好きな職業をしているわけではない。でも生活をすることはできている。必ずしも望んでいる仕事をしてはいないけど生きていく為には働かなくてはいけないのだ。世界的に有名な作家のなかには生活保護を受けながら、カフェでせっせと物語を紡いで数億冊を売った人もいる。でもそれは恵まれてはいるけど、それは数少ない例だ。小説を書く人のなかには、有名になりたい、巨万の富を得たいといった気持ちで書いている人は少ないだろう。一番大切なのは自分のことが大好きな人だ。自分の書いた文章を読むことが好きで、自己愛といったら良いだろうか、今作家に求められているのは、自分が大好きで大好き仕方ない、といったことではないだろうか。作家は普通の人とは違う人種だ。でもそれを言ってしまえば世の多くの人は自分の存在や意思を信じているのではないだろうか。そうとも言えるだろう。でも明らかに違うところは作家には喜びと悲しみといった感情を文章として、文字に変換して人々に提示することができるということだろう。物語というのは素晴らしい絵画のようだ。どんな風景でも描くことができる。それは神が世界を創造したように、美しい花や動物を作ったように、作家もどんな奇想天外なことも書くことができるのだ。もちろんどんなことも形作ることはできるけど、あまりにも脱線し過ぎると、読者はその小説が偽りのものであることを認識して読まなくなってしまうだろう。だから実際に映像として脳裏に浮かびあがるような描写を心がけなくてはいけない。そこが絶妙な塩梅で、人の心を揺るがす、感動を呼び起こす文章を書く必要がある。なかなか難しいけど血のにじむような努力というんだろうか、さまざまな苦しい精神的な感情を乗り越えて初めて人を感動させる物語を創造することができると信じている。
札幌駅に到着した。ほとんどの人がここで下車する。わたしたちも乗客の後に続いて電車を降りて階段で改札口に向かった。スーツケースを片手で持ちながら、左手で潤子の右手を握って離さない。潤子も小柄なスーツケースを左手に持って、ごろごろと引きずっている。初日だけホテルに泊まることにした。最初にチェックインを済まそう。駅を出て歩いて中心街を目指す。有名な時計台を通り越してススキノにあるホテルに着いた。十階の部屋で窓からは札幌のビル群が見渡せた。ベッドはシングルは二つ並んでいた。潤子は早速ベッドに横たわって鼻を枕に埋めてクンクンと匂いを嗅いでいる。
「なんか、クリーニングした後の布団の匂いって私大好きなのよね。なんか遙々遠い地まで来て、これからたくさんの思い出を作れるってほんと幸せだよね。異世界に潜り込んだ感覚がある」潤子はベッドに仰向けになって大の字になった。
「潤子、あと十分くらい休んだら街を歩こう。美味しいジンギスカンが待っているわよ」
「うん、それって楽しみ。初めての羊肉だからね。あと、みつきが言っていた、画廊も楽しみにしている。気に入ったのがあったらお店に飾ることもできるよね」
街中を歩いて五分ほどすると、有名なジンギスカンのお店に着いた。この時間帯はそんなに混んでいないのだろう。すぐに店内の席に着くことができた。まわりは肉の芳しい香りで満ちていた。食欲をそそる匂いだ。私はビールを、潤子はサイダーを注文した。それからメニューを見ながら店員さんに話しかけて、おまかせコースにすることにした。独特な鉄板の上に肉をのせて焼いてくれた。ジューッ、という心を落ち着かせるような肉が焼ける音がする。焼き上がってタレにつけて口の中で頬張る。肉汁を羊肉独特の香りが口一杯に広がる。
「うーん、みつき、とっても美味しい。今までに食べてきた肉の中で一番よ。なんで日本中で売ってないのかな。不思議ね」
「そうだよね、きっとみんな、牛肉とか鶏肉とか豚肉が大好きなんだよ。美味しい肉が日本中に溢れているからね。でも私はこの羊肉がとっても懐かしさを伴う肉なんだよなー。さあさあ、食べて。このあとは美味しいパフェ屋さんに連れて行くから。潤子、スイーツは大好きでしょ?」
「大好きだよ。とくにバニラ味が好き。アップルパイを食べた後に、アイスクリームを食べるのが私たちの家でのしきたりになっているみたいなの。面白いでしょ」潤子はごはんに肉を巻いて口に入れて頬張った。
食事を終えて店を出ると、太陽がビル群に隠れて暗くなってきた。雪印パーラーというアイスクリーム専門店に向かう。天皇陛下が食べているというアイスクリームを味わうことができるのだ。店に到着して店内に入ると観光客らしき人たちで溢れかえっていた。席に案内されて、私たちは天皇陛下が食べていた、スノーロイヤルを注文した。まわりの人たちはパフェを食べている人たちが多かった。注文したものが来た。食べてみると、濃厚というよりは、あっさりとした印象で、ものすごい美味しいというのではなくて、毎日食べても飽きがこないといった感じだった。そうか、これが奇をてらうのではなくて、王道を進むということか。アイスひとつにしてもとてもよく計算されているんだなあと思った。まるで潤子の家のアップルパイと同じだ。主食のように飽きずに食べられる。ひょっとしたらこれは小説にもいえることなのかもしれなかった。味噌汁とごはんのような小説か。自分の身近なところで展開していくもの。そのなかで事件が起きて物語は進展する。なにかに使える気がする。穏やかな水面の下には様々な水性動物が活動している。その動きを見るにはまず潜ってみることが欠かせない。私は小説にたいして今までにそこまで頭を突っ込んできただろうか。編集者として真剣に作品に対して目を見開いていただろうか。まだまだできることはたくさんあると思う。もっと小説を浴びるように読んで、その文章から素晴らしい文字を抽出して取り込まなければ。大切なのは真摯な態度だ。これから気合いを入れて編集に携わらねばならない。これも旅行の効果なのだろうか。潤子のひたむきな姿勢もあるだろう。こんな幼い少女がひた向きに生きている。私にも年齢こそ違うけど、彼女と同じように前を見つめてできるだけのことをすることが可能だ。もっと、過去に残されている小説を読んでみよう。そこにはなにか宝物のようなものが隠されているにちがいない。必ず、私はその秘密を暴いてみせる。