バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

潤子と空港で

北海道へ行く当日に、私は朝早くに起きた。早朝の5時だった。また新聞配達の人にひょっとしたら会えるかもしれないと思ってブラインドをあげた。しかし配達員の姿は見えなかった。まだ薄暗くて太陽は見えなかったけど、私の心は輝いていた。目の前に見える一軒家の玄関の前に猫がうずくまっている。ソファーに座ってテレビをつける。早朝にもかかわらず、アナウンサーがニュースを読み上げていた。昨夜、都内で小学二年生の女の子がトラックにひかれて死亡したということだった。私は、ただそのアナウンサーが話す言葉だけに注意をしていて、亡くなった女の子に対して、悲しみを感じることができなかった。しかしそれが普通の感情なのかもしれない。これが潤子(うるこ)に起こったことであれば、きっと心を蝕まれるだろう。死はあまりにもごく日常的に起こることであるので、それに対していちいち感情を動かされることはどんな人にもほとんどないだろう。例えば長崎と広島に原子爆弾が落とされて何十万人もの人が亡くなったことは悔やまれることであるけれども、その人たちの苦しみを感じることはできない。でも私にもっとも近しい人、愛する人を失うならば、その何十万人の死よりも、その人を失ったことを悲しむのではないだろうか。そのことから、いかにたくさんの人が亡くなってとしても、自分の身近な人を亡くすことのほうが打撃は大きいということがわかる。私は今生きている。でも、この私だっていつかは死ぬことになるのだ。そのことを実感した。でも本当にそのことを理解しているだろうか。人は死に向かって歩んでいる。生まれ出た瞬間から私たちはそのようにプログラムされているのだ。今から百二十年後には、この地球に生きている人はたぶん一人もいないであろう。でも私たちは、愛の結晶である子孫を残すことができる。しかし、そのことに何の意義があるのだろう。私たちの思想、喜び、悲しみを受け継ぐことに、意味はあるのだろうか。そのことをあやふやにしていくことはできない。でも何処に答えがあるのだろう。その答えを見つけることはできるのだろうか。きっと、どんな偉人にもその悩みを解決することは無理だろう。私たちは最も重大な疑問に対する正解を見いだせないまま、前に向かって進んでいかなければいけないのだ。でも、できるだけその問題の答えに近づくことが大切だ。その為に毎日を貴重なものとして送ることが求められる。ちょっと飛躍し過ぎてしまうことかもしれないけど、死に対する問題を考えることよりも、いかに人を喜ばせることができるか、そのことのほうが重要なのではないか。そうも思ったりする。ああ、あまりにも考え過ぎだ。でも現実を直視すると最終的にそう陥ることは否めない。でも生きることに向かって歩むことも大切だ。とりあえず今私は北海道へ行く。潤子と一緒に。生き抜くことを心がけよう。与えられた鍵を手にとって前に進もう。そうすれば、きっと何かの回答は得られるかもしれない。私は冷蔵庫を開けて炭酸水をコップに注いで一息に飲み干した。炭酸の心地よい喉ごしを味わって死の束縛から解放されたことを少し知った。まだ朝早いにもかかわらず、お腹が空いていることに気づいて、インスタントのキムチラーメンを作ることに決めた。その時、階段を上る足音が聞こえてきた。私は心の中で、おはよう、と言おうとしたけど、実際に声に出して言うことに決めた。
「おはよう、新聞配達員さん。お勤めご苦労様です。いったいどのくらいの人が日本中で、もしくは世界中で、こんな早い時間に働いているのでしょうね。頑張ってください」私はその言葉を小さな声で、まるで自分に対して語るように話した。久しぶりに言葉を発したことに自分でも思ってもみなかった気分の良さを味わって、早く潤子に会いたいと素直な気持ちを持つことが、そして彼女の住んでいる家のアップルパイを食べたいなあと感じていることに、それが凄い欲求になっていることに気づいた。その自然な甘さとパイ生地の小麦粉とバターの香りの心地よいハーモニーを想像できて、朝食に最適じゃん、って、普通にコンビニやスーパーのパンコーナーで売っている100円くらいのパイとの違いを的確に見分けることができた。その潤子の実家のアップルパイの偉大さを実感することで、いかに大量生産品と手作りの差というものが如実に表れることを知るのだった。
キムチラーメンを食べ終わって、シャワーを浴びてから化粧をし終えると、潤子からのメールが入ってきた。
「ヤッホー、みつき、おはよう。起きてる?私はもう準備万端だよ。昨夜は楽しみ過ぎてあまり眠れなかった。ほんと、期待で胸が張り裂けそう。こんなに楽しみにしたのって初めて。自分の小説が本となって書店に並んだ時以来だよ。早く飛行機にも乗りたいな。きっと、鳥のような気分になるんだろうな。なんか小説の構想がもりもりと沸き起こってきそうな予感がするんだ。ファンタジー的な要素があるんだよね。空港で会うことを楽しみにしているよ。それじゃ、また」
ふふ、潤子、興奮が収まらないみたい。それは私も同様だ。潤子の熱源に照らされて私もヒートアップしてきた。きっと、最高の思い出を作ることができるだろう。
空港に向かう時に何故かコンビニに寄って書籍コーナーで立ち読みしたいという欲求に駆られた。きっと妊婦さんが酸っぱいものを欲しがるのと同じ現象だ。駅前のコンビニに立ち寄り、店内に入ると、そこには私が住んでいるアパートの住人のこの前挨拶をした女性が雑誌コーナーに立っていた。彼女は私には気づいていない。真剣な眼差しで週刊誌を見ていた。そこで私は彼女の視線の先にとても重要な答えがあることを悟った。そう、彼女はとても有名な芸能人であることを知ったのだ。それに何故気がつかなかったのだろう。でも、まさか著名な芸能人が五万円のアパートに住んでいるなんて思わなかったし、ほとんどノーメイクのまま出会って、まさかドラマの脇役とはいえ、毎週のようにテレビに出ている人だとは知るよしもない。私は彼女が見ている雑誌に、本人のインタビューがのせられていることに気づいた。私は彼女から注目されないようにその雑誌を手にとって、レジに向かった。会計を済ませると、彼女に気配を悟られないように駅に歩いて行った。もうすぐ飛行機に乗って久しぶりの帰郷だ。心が踊っていた。潤子(うるこ)にも会えることが楽しみでもあった。彼女の書く小説にもきっとこの旅で経験した事柄が影響して、良いイメージを育むだろう。それがとっても期待が高まった。
電車に乗って、通勤客たちに揉みくちゃにされながら、羽田に向かった。ターミナルはたくさんの観光客で賑わっていた。私はスマホを取り出して、潤子に連絡をしようとした。そのとき、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。潤子が手を振っている。私も手を振り返して、彼女のもとに歩いて行った。
「久しぶり、潤子、元気そうだね」
「うん、ぜんぜん眠れなかった。もう心ワクワク状態。みつきはどう?」
「私も興奮しすぎてあんまり眠れなかった。潤子と同じ気分。なんせ久しぶりの帰郷だからね。潤子、北海道は初めてだよね。自然を満喫して、美味しいものをたくさん食べようね」私たちは空港に入った。
「そうだ、みつき、私新しい小説を書いたんだ。短編だけどね。あとから読んでもらえる?」
「ええ、楽しみだわ。潤子が書く小説って、誰の真似でもない、自分の気持ちが滲み出たオリジナルっていうのかな、そしてそこには奥深くに人を労る気持ち、とっても人自体に興味があるという不思議な文体で描かれていて、また、ふるさとに帰ってきたみたいな安心感がある。懐かしさと、過去と未来が混ざりあった独特な滲みが出ていて、安らかな吐息をつかせる。旅行の友にはうってつけだわ。それがまさか小学生が書いたものとは思えない。なんか力強いシングルモルトウイスキーを飲んでいるみたいな気分になる」
「シングルモルトウイスキーか、お父さんが夜のお客さんに出すお酒ね」
「そう、とてもパンチがある、慈しみ深い、男くさいお酒。潤子がなぜ、そんなまだ幼いにもかかわらず、年を経た文章が書けるのか、ほんと、貴重な、陳腐な言いぐさかもしれないけど天然記念物的な、発見をして私幸運だと思っているの。だから潤子にはこれからも、その独自性というか、自分の感性を信じてぶれないで書いて欲しい」
「きっと私がこうやって書けているのは、読書量に比例しているんだと思う。毎日たくさん読んでいるからね。それが私を培っているんだ。身体中を流れる血液みたいに、文章を吸い取っている。そう感じるの」潤子は私の右手をつかんだ。そこには全く意識した素振りはなくて、とても自然な行為だった。まるで潤子の母親が潤子にキスをしたのと同じように、とても、とても、滑らかだった。
「みつき、あなたの手ってとてもしっとりしている。温かくて薪ストーブの近くにいるみたい。いつまでも見ていても飽きがこない、そんな雰囲気っていうのかな。私を守ってくれるお姉さん。なんだか私が生まれたときから見守ってくれている、そんな感じがする。みつきには兄弟はいるの?」
「ううん、潤子と同じ一人っ子よ」
「そうなんだ。なんか珍しいよね。お互いに一人っ子って。兄弟がいたらよかったって思うときある?」潤子は私の手をつかんだまま歩きながら言う。
「そうね、でも親からの愛情をいっぱい受けて育ったっていうことは、とても重要なんじゃないかな。だから、孤独とか寂しさってあまり感じなかった。潤子はどう?」
「私もあまり一人っ子ってことにこだわりはないかな。みつきの言うように親からの関心を独り占めにして幸せに毎日を過ごした。そんな感じかな。他の家族が子沢山で楽しそうにはしゃいでいるのを見ても羨ましいとは思ったことなかった。それにこうして、みつきみたいに実際に血が繋がっていなくても、精神的な繋がりがあることのほうが重要なんじゃないかと思う。私はそのことを、世間に訴えかけたいな。小説を通して」潤子の手が強く握り締められた。潤子にはまだ、人々に語りたいことがたくさんあるのだろう。私にはそのような強い意思があるだろうか。たぶん今まではそんなことを考えずに生きてきた。これからは強い気持ちで大衆に向かって、そして私が担当している作家たちに、世界中に生きている人たちに自分の信念を伝えていこう。潤子のようなまだ幼い女の子でさえ、なにかを訴えかけたいという、自分の感情を文章にしているのだ。私も人は一人じゃない、みんな孤独ではないんだと、お互いに繋がることはできるのだと、そんな大切な事柄をできるだけ多くの人に発信したい。私は編集者という利点を利用することができるのだ。そのことを最大限活用しよう。このように、潤子の手を握りながら、私は強い気持ちを抱くことができている。そう、人は一人じゃない。私は世界中の人が手をとりあって、喜びに満ちた表情を浮かべている様子を頭にイメージした。

しおり