久しぶりの北海道への帰郷に思いをはせる
私は生まれも育ちも北海道の札幌市だ。東京に住んでいると、故郷のことが、そこに住んでいる人を含め、とても憧憬の気持ちが高まって思い出される。お盆休みは十日間もらうことができた。両親は私が二十歳の時に離婚して、母親は別の男性と結婚している。父はいまだに一人だ。二人の間に愛が無くなって別れたというのが原因だ。よくあることだ。私は両親に会うことが億劫になって、十日間借りられるアパートに住むことに決めていた。札幌の中心街は東京や横浜や大阪と変わらない雰囲気だ。それで小樽に滞在することを計画している。小樽の少し古ぼけた感じというのだろうか、なにか懐かしさを感じさせる風情が心に染みる。町全体はなにか夕張を拡大したという感じだ。そこに古くから住んでいる人たちが羨ましい。私もつかの間だけど、その住人になりおおせることができる。まるで地元の人なんだよ、って感じで小樽の空気に触れるのだ。ほんと楽しみだ。まだ休みには一週間ほどある。その間に山積している仕事を片付けなければいけない。作家から送られてくる原稿を読んで添削したり、新しい小説の構想について話し合う。作家の抱えている悩みを聞くことも私の役割だ。鬱屈した心の底にたまっている気持ちを汲み取って自信を持たせる。居酒屋に行って小説とは全く関係ない話をしながらお互いの信頼を強めて絆を深める。とても大切なことだ。それらは経費で落とせる。
仕事が終わって電車で石神井に向かうなかでガラス窓に写る自分を見つめながら、私は今とても充実しているな、と思った。そして自分自身に少し見とれて、私も捨てたものじゃない、と勇気をもった。周りは誰も知らない赤の他人。でも何かのきっかけで、例えばお年寄りが車内に入ってきて、我先に椅子から立ち上げって、どうぞお座りくださいって言う時に感じるお互いの温かな、連帯感、自分だけが血の通っている生命体だとは思っているけど、なにかのきっかけで、相手の人に対して友情を培うことができると思うと、世の中捨てたものじゃないなと、気持ちを新たにするのだった。電車を降りて近くのマックに寄ってコーヒーを飲むことにした。このままアパートに帰るより、少し気持ちを落ち着かせたかった。タバコは吸わないけど、一服するといったみたいに。店内は学生やスーツを着た人で混んでいた。私は窓側の二人座れる席でコーヒーを飲む。鞄からタブレットを取り出して、担当している作家の文章を見る。新人作家の音崎健(おとさきけん)の原稿だ。彼の躍動する文章というか、作家になったことがとても嬉しいというような雰囲気で溢れている。技術的な面ではまだ改善すべき点はあるけど、幼稚な部分がアクセントとなっている。そこは残したほうがいい。隣の席の二人組の女学生が学校の予習をしていた。私も昔、学生だった頃を思い浮かべて、その当時はまさか編集者になるなんて思いもしなかったなあと、過去を懐かしんだ。そして突然潤子(うるこ)のことが頭に浮かんだ。彼女は今何をしているのだろう。そうだメールを送ろう。私はスマホお取り出して潤子へメールを打った。
『こんばんは、潤子、元気してる?私は今、マックでコーヒーブレイク中。ちらっと潤子のことが思い浮かんだからメールしてみた。何してる?』私はスマホをテーブルに置いて、彼女からのメールを待った。
すぐにメールが着た。
『どうもー、今小説を書いているところ。佳境に入っているわ。創造力で頭がいっぱい。タイプする手が追いつかないところ。だから誤字脱字でこまっている。ほんと大変だわ。ある程度まとまったら、メールで送るから感想聞かせて。頼みます』
潤子も頑張っているんだな。私の魂も燃えてきたわ。これから家に帰ってから夜遅くまで孤軍奮闘しなければ。いいや、独りではない。私の回りにはたくさんの人たちがいる。けっして孤独ではないのだ。見ず知らずの仲間たち。そう、世界中の人たちが私の同志なのだ。そう想像すると穏やかな気持ちになれた。でも世の中には自分の悩みと戦いながら苦しんでいる人が大勢いる。その人たちに、あなたは決して独りじゃないんだよ、と、わからせていけるような、心を躍らせる思いを抱かせるそんな物語を提供する、それが私の終着点でもある。そう気分がのってきた。それを作家たちに伝えよう。私は早速メールで作家たちにその思いを綴(つづ)った。その反響は凄かった。私が担当している作家たちからメールで、
『ありがとう、それは盲点だった。そうだよね、基本的なラインを忘れていたよ。一番重要なことだよね。物語で、人々を結びつける、とても大切なことだ。気づかせてくれてありがとう』そんなメッセージが送られてきた。私も心が弾んで帰りの道を踊るように歩いた。
アパートに着いて二階の階段を昇っていると、隣の部屋のドアがちょうど開いた。
「こんばんは」私は声をかけた。
「どうも、こんばんは」久しぶりに隣の人の顔を見た。夜の仕事をしているのだろうか。お化粧も派手で洋服もこれから街に出るみたいな服装だった。とても美しい人で高級なワインが似合うといった雰囲気だ。それともこれから彼氏とデートの約束があるのかも。それにしても、美しい人なのに、その表情がなにか不安を抱えているような感じがした。私は微笑んだ。すると、その人も緊張を解いたようになって、笑顔になった。よかった、私にも人の役にたつんだ。と、嬉しくなった。これからはできるだけ笑顔でいよう。部屋に入ると、そのままシャワーを浴びて気分が落ち着いた。夕食はバニラアイスクリームにキャベツの千切り、それから鶏肉をフライパンで炒めただけのシンプルな料理。それからお酒はスコッチウイスキーのシングルモルトのラガヴーリン。少しだけワイングラスに入れて、香りを楽しみながらチビチビと飲む。アイスクリームとのマリアージュ、これがなんとも言えないほどに美味しい。
夜の十二時まで仕事をした。主に作家から送られてきた原稿を見て、引っ掛かる部分とかを訂正するといった作業だ。作家たちの血の通った形跡を見つめるというのは不思議に心を慰めるものだった。気持ちを開いてその作家たちの涙といってもよいだろう。それをすくいとると、感動というか、作り手の熱い思いが伝わってきて、目を閉じて受けた胸の高鳴りをじっくりと味わうことができた。醍醐味だ。あとの残りの作業は職場ですることにしよう。でも心が高ぶってなかなか眠れなかった。少しの睡眠をとり、また起きては暗闇の中、ブラインドから差し込む街灯の明かりを見つめながら、自分が生きていることの価値とか、重要性などを微かに考えながら、また眠りにつくのだった。でも、そんな気分も悪くない。その時、帰宅した時に出会った女性のことが浮かんだ。それは夢の中でのことだったのかもしれない。そこが曖昧だ。でもわかるのは、二度とその女性が私の前に姿を現さないということだった。でも、また会いたいな。その笑顔をもう一度見せて欲しい。ただ、それだけ。私が望んでいるのは僅かなこと。そう、今もっともいただきたいのは、喜びに満ちた歓喜の表情なのだ。それは千金にも勝るもの。世の中に欠如しているもの、もっとも貴重なもの、それを求める人こそがチャンピオンになることができるのだ。
朝起きると、新しいひらめきが心にのぼった。そうだ潤子(うるこ)を北海道に誘おう。そう思うといてもたってもいられなくなって、スマホを握りしめて潤子に連絡をした。
「潤子、朝早くごめん、でも凄いことを思いついたの。潤子一緒に北海道に行かない?」私は胸の高鳴りで、早く彼女の反応を聞きたかった。
「えっ、それって本当?嬉しいわ。是非とも行ってみたい。北海道になんて一度も行ったことないから」
「そう、私十日間、休みをもらったから、潤子も休み大丈夫?」
「うん、お父さんとお母さんに相談してみる。たぶん、オーケーがでると思うけど」潤子の声が弾んでいた。よほど楽しみなのだろう。
「美味しいものいっぱい食べようね。小樽を根城としていろいろな所に行きましょう」
「わー、楽しみだなー。今からワクワクするわ。綺麗な景色も見られるんだろうなー。小説の構想がきっと溢れるほど考えつくと思う。みつき、誘ってくれてありがとう」
「ひとりで旅するより心通った仲間がいれば、最高の旅情を噛み締めることができるからね。それじゃ、また連絡するから。また、近いうちに会いましょう。潤子の家に遊びに行くわ」私はスマホをパソコンデスクの上に置き、タブレットを持ってベッドに寝転がった。ユーチューブで、北海道、旅行、と打ち込むと、たくさんの旅行動画が現れた。美味しそうな食べ物を撮したり、素晴らしい景色を撮影した心温まるような動画がいっぱいある。ネットでお勧めのお店とか観光地を検索していると、様々な名所が現れた。でも私は自分の思いでの場所に行くことに決めた。思い出がたっぷりと詰まったところ。その一つは拠点の小樽もそうだけど、夕張が今回の目玉だ。私の祖父母が住んでいたとこだ。青春時代、なにか悩みがあるときに心を慰めてくれた思いでの土地。きっと新たな発見があるだろう。潤子もきっと気に入ってくれるに違いない。それから札幌で美味しいものを食べる。新鮮な食材を使った料理。ジンギスカンに味噌ラーメン、お寿司にスープカレー、まだまだ、スイーツとかもいっぱいある。今からほんと楽しみだ。それと会社の同僚たちにもお土産を買っていかなければ。嬉しい悩みというか、困ったものだ。でも同僚の喜ぶ顔を想像すると、幸せだ。私自身喜んでしまう。お土産やプレゼントってお互いに感激し合うものなんだな。そのことを忘れていた。なんて素敵なことなんだろう。そうだ、潤子が喜びそうなもの。本をプレゼントしてあげよう。私が感動した小説がいいな。リチャードアダムスのウォーターシップダウンのウサギたちが良いだろう。この小説はほんと素晴らしい。北海道に行く時にあげよう。良い旅路の友となるだろう。きっと終生忘れられない記念となるにちがいない。私も一冊、なにか本をもっていこう。そのお供となる本選びがとても楽しい。今から何を持っていこうかと思い悩む。なかなかいじらしいものだ。そうだ、私の担当している作家さんたちに、私の北海道旅行に行くにあたって、なにか一筆書いてもらおうか。しかし作家さんも忙しい。でもこれは記念になることだし、短編くらいはきっと書いてくれるだろうと思う。それをいつの日か小説として本の形になることを約束すれば、きっと彼ら彼女のことだ。真剣に書いてくれるだろう。私はその企みの成功を願いつつ、作家さんたちにメールを打つことにした。多少の緊張を抱えながら。でも、そこんところは勇気をもって。