静かな夕方、きっと私たちは空も飛べる。
私は潤子(うるこ)の将来を想像した。青空にはたくさんのトンボが編隊飛行をしていた。数えきれないほどの群れの塊。それらは同じ方向に進んでいた。彼らは何を考えているのだろう?私にはわからない。ただ、知っていることと言えば、あとわずかしか生きられないということ。それでもその哀愁と呼べばいいのか、その整然と進む姿を見つめていると、私たち人間の生きざまを写しているようにも思えた。生きられる月日はトンボと人間では比べられないほどのものがあるかもしれない。しかし、生を受けて死ぬまでの期間、それは生き写しのようにも思われる。それに彼ら、もしくは彼女らは自分が死ぬとは思ってもいない。それは私たちにもいえることではないか。人間は死ぬことを知っているはずなのに、そのことに、まるで見向きもしないかのように生きている。死を意識して生きること、それがきっと、というか、たぶんとても重要なことではないかと思う。そうすれば、少なくても人生観が変わるのではないか。無意味なこと、とるに足りないことを避けて、私たち一人一人にとって重要なことにもっと時間を割くのではないか。いったい、私たちは何処へ、何を目指して歩んでいるのだろう。世界中には無意味なこと、無くてもよいことが氾濫しているのではないか。例えば私が携わっている小説。本当にそれは無くてはならないものだろうか。そう思うと、とても私の心は傷ついた。私たちが必要としているもの、そしてこと。それは世界にどのくらいあるのだろうか。私は自分の感性を信じなければいけない。自分が信じた道を歩まなければいけない。だから、今度から、これからは作家たちに、もっと大切なことを語らなければいけない、そう思った。そう、真に人々に感動を与えるもの、人生にとって必要な深い愛をだ。それは陳腐なことと思われるかもしれない。今さら何を言っているの?そう言った意見を言われるかもしれない。でも、それでも私は世間に向かって語らなければいけないのだ。なんだか体が熱くなってきた。久しぶりに私の心は燃えている。これは、良い調子だわ。これも潤子(うるこ)に出会ったせいかもしれない。潤子、あなたの為に頑張るわ。そうよ、自分の為に頑張ることが本当は重要なのかもしれないけど、そうではなくて誰か人の為に労力を厭わないこと、そのことが今の時代大切なことなのかもしれない。今の時代、あまりにも情報が氾濫している。その中から真実を発見するのはなかなか難しいことかもしれない。全世界に流布していることが正しいものとして広がっている。でもはたしてそれが本当に真実だといえるだろうか。むしろその事を疑ってかからなけらばいけないのではないだろうか。これは逆転の発想でもある。それが真実に至る道、真理に近づいていくことになる。そして物語こそ、その人々が抱えている矛盾に満ちた世界を解放するための手段となる。私はそう感じた。考えてみれば、昔から、そうだった。物語は人の凝り固まった考えを飛躍させるための手段として用いられていた。ただ生計をたてるだけのものではなくて、人々の感情を喚起させるもの、心を揺さぶるようなそんな本を造るべきだ。私は的の中心に矢を当てたような、安心感というべきか、安堵の気持ちを抱いた。早速作家たちに会ってみたい。そう思った。私のこの気持ちを伝えたい。きっとみんなわかってくれるだろう。だって作家だもの。人の心の機微に長けた人たち。私の心の動きを感じてくれるにちがいない。
空にはトンボの姿が消え失せていた。まるで私の思いが何かのきっかけで伝染したように。でも、そんなことは今の私にとってはどうでもいいように感じた。この熱情を心に秘めたまま、一日を過ごしたくなかった。誰かに伝えたい。そうしなければ満足できないだろう。最初に頭に浮かんだのは、石毛コウキだった。私はスマホを取り出して、彼の携帯に電話をかけた。
「もしもし、コウキさんですか?高瀬です」
「はい、どうも石毛です」
「今から会えますか?」私の心は弾んでいた。この気持ち彼に伝わればいいのに。
「今からですか、ちょうどパソコンで小説を書いていたところです。僕の家に来ますか?」
「はい、今から向かいます」
「それよりなにか良いことあったんですか?言葉に力強さを感じますよ。彼からプロポーズでもされたみたいに」
「もしかしたらそれよりも良いことかもしれない」
「わかりました、待っています。楽しみだな、どんな話をされるのか」コウキさんも私の心の琴線に触れてなにかを感じたようだった。それが嬉しかった。
私は駅に向かった。コウキさんのマンションまでおよそ二時間半はかかるだろう。その間、序曲のように私は心を落ち着かせようとしていた。彼に会ったら私は自分の心の内にある思いをうまく話せるだろうか?それはわからない。とにかく私の姿を見てほしい。それ以外、信じるしかなかった。
電車に乗り、周り人たちは無言で携帯を操っていたり、目を閉じて、安心したように呼吸していた。息の音が聞こえてきそうだった。オーディオプレーヤーで音楽を聴いている人たち、吊り輪につかまりながら友達と会話している人。なぜか懐かしさを感じた。これから私の人生は変わってしまう。そんな予感がした。でも、不安は感じなかった。この光景はずっと、私が死ぬ直前までも失われることはない。私は安心して眠気に誘われた。でも寝てしまうわけにはいかない。できるだけ今の、生きているこの世界を見つめていたいから。ありがとう、誰に呼び掛けているのだろうか。きっと世界中の人たちだ。まだ見たことのない大勢の人たち。みんな血が繋がっている。私は独りではない。みんなの心を動かすような本を造ろう。隣の人が鞄から本を取り出した。それは潤子(うるこ)が書いた自費出版の本だった。私も潤子の本を鞄から出して、彼女に話しかけた。
「その小説面白いですよね。私、さっきその小説を書いた作家さんに会ってきたんです。横須賀のパイ工房っていうアップルパイを売っている店で」
「そうなんですか、どんな作家なんですか?」
「まだ十二才なんです。でも本が大好きで、一日中読んでいるみたい。とても綺麗な人ですよ。まるでモデルみたいでね。お店に行けば会えると思いますよ。アップルパイがとても美味しくてね、頭の中にアップルパイが直に詰まってしまうみたいになって、その味が忘れられなくなります」
「今度行ってみますね。教えてくれてありがとう」彼女は次の駅で降りて行った。私は奇跡が起こったような気持ちを抱いたが、それはきっと必然だ。世界には偶然なんてものはない。時刻表通りに動く日本の電車のように、きっちりと動いていくみたいに。
二時間あまり電車の中で静かに瞑想するみたいに呼吸を整えていた。集中していたので気分的には三十分ほどしか経っていないような気持ちだった。電車を降りて、駅の近くにあるコンビニに寄って、コウキさんの好きなレッドブルやモンスターのエナジードリンクを買う。歩いて五分ほどで、彼が住んでいるマンションに着いた。インターフォンを押してコウキさんがでると、自動ドアのロックを解除した。ドアを抜けてエレベーターで十階のボタンを押した。昇っている時にまるで真空の中にいるような、鼓膜を圧迫するみたいに空気の振動がした。十階に着いてコウキさんの部屋のインターフォンを押すと、ドアが開いた。
「どうも、高瀬さん、待っていました」
「お仕事順調にいっていますか?これ、コウキさんの大好きなエナジードリンク」
「わあ、ありがとう。ちょうど切れていたところなんです。遠慮せずにいただきます。入ってください」コウキさんと私は廊下を歩いてダイニングに向かった。
「どうぞ、ソファーに座ってください。今飲み物だしますから」コウキさんは冷蔵庫からペットボトルをだして、グラスの中に注いだ。
私は目を閉じて、部屋の中に漂う、微かな芳香剤の香りを嗅いだ。悪くない。コウキさんはテーブルに飲み物を置いた。
「普通の緑茶ですけど」
「ありがとう。コウキさん、小説のほうは前に進んでいる?」私は少しだけ緑茶を飲んだ。
「ええ、今日は原稿用紙十枚は書けています。少しずつですけど、前進しています。それより高瀬さん、なんかいつもと違っていますね。なにか劇的な事故とかに遭遇したみたいだ」
「そう見えるかな。実は大したことじゃないんだけどね、私、基本的なことを忘れていたような感じがしたの。これって一番大切なことなんだけど、小説にとって重要なことってなんだと思う?」
「そうだな、人の心を打つ、優れた文章を書くこと。それから感動させることかな」コウキさんは真剣な表情で言った。
「その通り、私が伝えたかったのも、その一言なの。優れた小説って人を感動させることに特化していると思う。様々な小説が百花繚乱咲き乱れているけど、その中にどのくらいの本が生き残っているかしら。おそらく残念ながらごくわずかじゃないかな。だからコウキさんには傑作を書いてとは言わないけど、せめて人々の心を揺さぶるような物語を書いてほしいの」
「高瀬さんの言っていることわかる。僕もそれを目指して頑張っていたから。もう一度原点に戻って、その事に注意して書くことにするよ。物語性を大切にするって大事だからね。そのためにはまず、自分が感動しなければね。それじゃないと人を感動させることはできないから。どうも筆は進んでも、そこの感情が乗っていないときがままある。それって要注意だよね。自分が感動することか、そうあるものではないよね。血の通った文章ってなかなか産み出せるものではない」
「コウキさんが最初に小説を書いたときに感じた思いを、イメージすること、そのことが大切かもしれない。簡単に言えば、原点に戻ること。たくさんの人のために書くのではなくて、一人の読者を喜ばす、そのことを心掛けること。それに尽きるんじゃないかしら」
「高瀬さん、ありがとう。自分が歩む道が誤りではないということを再確認できたよ。僕の思いは間違っていない、ますます自信を深めていける。一人の読者か、考えさせる意味深長なことだね。その人の為に、その人の心を動かすような、文章か。喉の飢えを癒すような一滴の露みたいなものを語れるようにしないとね」コウキさんは緑茶の入ったグラスを目の前に掲げてじっくり見た。そして緑茶を半分ほど飲み干した。そして窓際に立って、夕暮れに染まった外の景色を眺めた。それからカーテンを閉めて部屋の蛍光灯をつけた。コウキさんは私の右手を両手で掴み、それから私を抱き締めた。そこにはまるでヨーロッパ人がするようなとても愛情に満ちた行為だった。
「高瀬さん、ありがとう。あなたのお陰で僕は小説家になれたし、これまで何作も小説を世に出すことができた。これもみんな、高瀬さんが辛抱強く、忠告や励ましを与えてくれたことが契機になっていると思う。僕がわがままを言ったり、なかなか締め切りに間に合わないときにも、ほんと我慢してくれたよね。そのことを感謝したい」コウキさんは私を抱き締めたまま、静かに呼吸していた。なんだか体が軽くなったみたいだ。
「高瀬さんの髪の毛、良い匂いしますね」その一言でせっかくの抱擁が台無しになってしまった。でもこうして抱かれるのって気持ちが良いものだ。心の底で火が灯った。それは私の全身に伝播して、肌が心地よい震えで満たされた。これから先、こうして抱かれることはあるだろうか。そんな考えは忘れることにしよう。今この時間を大切にするのだ。まるで空も飛べそうな感覚だった。