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あの人が、僕らの住むマルゼリの街にやってきたのはちょうど二日前だった。
僕が働いているお店の隅で、ずっと酔いつぶれている男の人がいて。
全然見ない顔だったし、それに思いっきり酔っているからか、見えない誰かと話してるみたいで、誰もそこに寄りつこうとはしなかった。
マスターに聞いても「いや、俺も知らん」とつれない一言。
でもなんとなく分かった。薄汚れたシャツの上からでもうっすらと見える、その筋骨隆々な体つきに、砂と焼け付く日差しでごわごわになった髪。
髭もかなり生えているけど、おそらくはどこかの戦地から帰ってきたんだなって感じの風体だ。
泥酔しているからって別に他のお客さんには迷惑をかけてないみたいで、とりあえずは安心。ケンカは苦手だし、仲裁するのはもっと苦手だ。
「ラム酒ばっかずっとあおり続けてるんだ、一応カネは持ってるみたいとはいえ、いい加減こっから出てもらわないとな」
「お、大人しそうだし、ぼぼ僕が起こしてこようか?」
聞けばずっと食事もとらずに、ラム酒ばっか浴びるように飲んでるとのこと。やっぱり気にはなるみたいだ。
カウンターで肉団子を頬張っている常連さんが僕にこう伝えてくれた。
「気をつけなメガネ。あいつ仕事なくなってここに流れ着いてきたっぽい。放っておいた方がいいぞ」
助言はありがたいんだけど、店としても……ね。ここは毎日盛況してるんだけど、あの酔っぱらいのおかげでテーブル一個分に誰も座れなくなってしまって。冷静に考えると稼ぎにそこそこ響いちゃうのもまた事実なんだ。
ということで、酔客の接待の仕方も勉強になるぞというマスターの言葉もあって、僕は意を決してあいつを起こすことにした。
何本酒を呑んだのか分からないほど、周囲には空瓶が散乱している。
「んだからァ、さっきっからオメエに言ってンだろうが、俺様があいつの首を取ったんだって」ずーっと寝ぼけた目で誰かと話している。テーブルの向かいには誰もいないのに。
大きく深呼吸して、僕は忠告した。
大丈夫、僕はこんなのよりずっと強いやつと毎日顔をつき合わせているんだし。歴戦の傭兵、ラッシュとね。それにいざとなったらマスターが来てくれるだろうし。落ち着けドゥガーリ。
瞬間。
僕が「ねえ」と声をかけようと口を開くよりずっと早く、奴の大きな手のひらは僕の頭をがっしとつかんでいた! まるでリンゴを鷲づかみするみたいに。
え、早……と思うまもなくだった。
ヤバいことしちゃった? 僕の頭握りつぶされる!?
「や、ややややめて! 僕ケンカするつもりいっさいないし!」それくらいしか抵抗する術は僕にはなかった。でも伸ばした手の向こうにいる酔っぱらいの目は真剣だった。さっきまでべろべろに酔っていたでしょ!? って感じもしないほどに。
ああ……うん。分かる。この人、ラッシュ並みに危険だってことが。
「……なんだ? アラハスか? なんでここで働いてんだ?」
驚いた、僕を一目見るなりアラハスって種族の通名で答えてくれた!
そう言ってくれる人、生まれて初めてだ! とは言っても僕はまだ恐怖でなにも答えることはできなかったけど。
男は手を離すと、今度はアラハス語で僕に話しかけてきた。
「その毛の色……紅砂地の生まれか。サパルジェ=ジャジャの爺さまはまだ健在か?」
サパルジェ……それは僕の村の名前。そして年長者を表すジャジャ。つまり紅砂地の長老の名前だ。僕が村を出るときにはもう500歳だった。それでもとっても元気だ。
落ち着きを取り戻した僕はゆっくりと彼に聞かせてあげた。長老はまだまだ元気そのものですよって。あ、もちろんアラハス語でね。
ずっとむっつりへの字だった彼の口元に、ちょっぴり笑い皺が見えた。