その3
幸いにも僕が起きた時間は早かったみたい。お昼までにはまだ十分に時間がある。
おやっさんに聞くと、仲間は総勢10人くらいだそうだ、ならば僕の得意な料理……いや、みんなが喜ぶ料理をとにかく大量に作らないと!
厨房に駆け込み、使える食材があるかどうか探してみた。だけどわずかな野菜くらいしか残されていない……。こりゃ買出しに急いでいかないとダメだってことで、そこのところをおやっさんに説明したら、すぐさま握りこぶしいっぱいの銀貨を僕にくれた。
よかった、信用してくれているみたいだ。
おやっさんは続けて「荷物運びでも力仕事でも、必要ならあのバカ犬を使え。あいつは頭は悪いが馬鹿力だけはあるからな」だって。
助かった。僕一人じゃ10人分の食材なんて持ち運ぼうとしたらすごい時間がかかってしまうし。だから僕は大急ぎでまた二階へと向かった。寝室で眠っているバカ犬……じゃない、ラッシュを起こしに。
おやっさんが教えてくれた部屋の前まで行くと、ドアの向こうから大きないびきが響いてきた。驚かさないようにゆっくりと扉を開けると……
く、臭い……!
真っ暗な部屋の中に、使い古されたモップをたくさんため込んで、そのまま何年も放置していたんじゃないかってくらいの、僕の繊細な嗅覚がひん曲がりそうになるほどの臭さ。そんな中であいつは大いびきをかきながら眠っているんだ。
息を止め、部屋の窓全てを開ける。彼の名前なんてまだ知らないから、とにかく起きてと叫んだ。何度か耳元で怒鳴りつけてようやくあいつは目を開けてくれた。
しかし泥で汚れまくりのベッドといい、ゴミの散らかりまくった部屋の床といい、とどめに彼の臭いといい、いつかきれいさっぱりとしてあげなきゃって。僕はその時、心に誓った。
けどいまだに実現してないけどね。あいつ強情だし。
「なんだよ親方ぁ……仕事終わった後は一日寝かせてくれるってぇ約束だろがぁ」
まだ寝ぼけてるみたい。というか、あの人のことは親方って呼んでるんだね。
ともあれ、僕がさっきの経緯を一生懸命説明すると、あいつかようやくその汚れた臭いモップのような身体を起こしてくれた。
「時間がないんだ。僕は昨日ここへ来たばかりだから、買い物をしようにもどう行けばいいのか全然わからない。おやっさんのために10人分の食事を一人でお昼までに作らなきゃならないんだ。もちろん君もおなかすいてるでしょ、いっぱいおいしいご飯作ってあげるから」ってね。
「親方の会合が終わったら、メシたっぷり食わせてくれるんだろうな?」
僕の説明が終わるや否や、あいつは大あくびをしながらそっけなく答えた。もちろんだよって。
「ハラ減ってるし、それに親方が困ってるンならとっとと行かねーとな……よっしゃ!」
するとあいつは突然僕の首根っこを掴んだんだ、まるでカバンでも持つみたいに。
そして……
ここ、二階だっていうのにさ! 窓から飛び降りたんだ!
いくらがっしり掴まれてるとはいえ、一気に血の気が引いた、なんなんだよこいつ、昨日も今日もハラハラさせて!
「さて、どこの店に行くんだ? 肉か? 魚か? それとも野菜か?」
ずれていたメガネを慌てて直す僕に、今度はあいつの方から聞いてきた。
「にに肉屋から先に行こう。っていうかさ、きききみの名前まだ聞いてなかったんだけど?」
すっかり忘れてたんだ、まだ彼の名前全く聞いてなかったことにね。
すると、走ってたあいつの足がピタッと止まった。
「……んあ? そんなのねえぞ」
へ? 無いって一体どういうことなのよ、名無しでずっと生きてきたっていうのかい?
……でも、そういえばおやっさん、彼のことはずっとデカ犬とかバカ犬って呼んでたっけ。まさか本当に名前を持ってなかったのかな?
「ンじゃあよ、お前は何て呼ばれてるんだ?」
「ぼぼぼ僕のなな名前は、ドドド、ドゥガーリっていうんだ!」
焦ってついつい、いつもの訛りが出てしまった。
「……変な名前してンな、うーん……よし、チビメガネ。いや、メガネでいいか!」
ちょっと、そんな変な呼び方勘弁してよ! とは言ってもあいつは妙にその名前が気に入ってしまったらしく、以降しばらくの間、僕はメガネという名でこのギルドで暮らすことになる。もう、大好きな名前なのに。
メモはあいにく砂嵐で無くしてしまったけれど、大丈夫。僕の頭の中にはこういう時のレシピくらいは全部記憶している。
来客の時。お爺さんの300歳の誕生日、妹が生まれたとき……
僕があの時に作った大皿料理や煮込み料理を振る舞えば絶対いける!
まず一品目は……そうだな、串焼きにしよう。鳥にするか、オーソドックスにバジャヌの肉にするか。そして次はさっぱりと、川魚の香草蒸しなんかいいかも。この街の魚屋に大きくて新鮮な魚があればいいんだけど。
付け合わせに蒸かしたジャガイモかパンも用意しなきゃね。それで盛り上がってきたら最後に大鍋料理だ。トマト、タマネギ、豆と肉…最後の決め手はアラハスの特製スパイス!
……あ、そうだった。
すべての買い出しが彼のおかげでスムーズに終わって、キッチンに戻った時、僕はようやく思い出した。
紅砂地、いや、アラハスの食そのものを代表する最高のスパイス「ガダーノ」を持ち合わせていなかったことに。
旅に出る時、僕はリュックに入れてたんだ。だけど……
そう、砂嵐ですべて飛ばされ、無くしてしまった。とても貴重な。
僕らアラハスの間では、神の香辛料とも称されるガダーノ。
僕らのいる地でしか売買することが許されていない、とっても、とっても貴重な……
「ダメだ……」両足から、ガクンと力が抜けてしまった。
僕の隣ではあいつが、これどうすんだメガネ。って大きな寸胴鍋を片手に聞いてきている。だけど今の僕には、メインディッシュをどうすればいいかで、もう頭の中がいっぱいになっていた。
自分が買って出た、ここ一番の大舞台でつまづくだなんて、今の今まで僕を信用してくれていたおやっさんに申し訳が立たない。
まぶしい陽の光が窓から照り付けてきた、じりじりと時間が迫ってきている。
「どうしよう……母さん、アラハスの神様……」
僕の手は、無意識に首から下げていたアラハスのお守りを握りしめていた。
旅立ちの夜に母さんがくれた、あの小さなお守り袋に。
その時だった、僕の鼻先に懐かしい香りが漂ってきたんだ。故郷で何度も嗅いだことがある、身体の奥底から力が湧き上がってくるような、熱い香り……!
間違いない、これはガダーノだ! だけど、一体どこから⁉
僕の周りに嗅覚を思い切り働かすと、それはどこでもない、僕の手のひらだった。
でもなぜ? ガダーノなんて触った覚えもないのに。
じっくり思い返してみる。手のひら……そして、お守り……
そうか、このお守り袋だ!
すぐさま袋の中身を開けてみると、擦り切れた紙包みの中から、一粒の大きな種がころりと転がって出てきた。
ああ、これはガダーノの種子だ! 僕は確信した。
本来なら料理に使うのは実を乾燥させたものなんだけど、種子の中身でも十分代用できる。
お守りを握り締めた際、偶然にも紙包みが破けたことで、ガダーノの種が外気に触れて香ったんだ!
母さん、そしてアラハスの神に感謝……!
……って祈ろうとしたところ、紙包みにうっすら文字が書いてあるのが見えた。これ以上破けないように、そっと爪の先で紙を開いてみると……
ー道は種の中にありー
紙に記してあった文章。
この字……間違いない。これは父さんだ!
僕たちアラハスの民は、長い爪にインクをつけて文字を書く。だから字体も独特。人によって様々。だからこれは父さんの文字だなって僕は一目でわかったんだ。
父さん……あれほど僕のやることに反対していたのに。
「ありがとう、父さん」思わず泣きそうになるのをグッとこらえて、僕は食事の支度へと取り掛かった。
時間は刻一刻と迫ってきている。まずは料理に集中だ。
胸の奥底まで大きく息を吸い込み、いざ開始!
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その時の僕の様子を、おやっさんとラッシュは話してくれてたっけ。
「ありゃ戦ってる時の目だな。今までずっととろんとしていた目つきだったっていうのに、いざ準備となった途端、動きが豹変しやがった。野菜を切り刻みながらフライパンで肉を焼きつつ、魚の下処理をして、でもって鍋の火加減を全部同時にやってたしな。しかもあのデカ犬に命令までしてたんだぜ、命令をよ!」
「いや、正直メシ作ってた時のメガネは怖いって感じたわ……アレやってる時は親方以上に逆らえねーよ。それに何話しかけても耳に入ってないみたいだし」
種を継ぎ目に沿って丁寧に割ると、中からきめの細かな茶色い粉が。
その香りだけで全身から汗が噴き出し、心臓は大きく高鳴り、身体中の血が熱くなる、これは魔法のスパイス。これだけあれば10人分くらいは楽にまかなえる。
あらかじめ仕込んだスープで煮つづけた肉が舌の上でとろけるくらいに柔らかくなってきた頃、外からたくさんの人の声がしてきた。
よし、間に合った!
大所帯が来るやいなや、すぐさま宴会は始まった。壁の隙間から確認してみると……
よかった、みんな喜んで食べてくれているみたいだ。
でも最後のガダーノを効かせた大鍋を出す直前、僕の張り詰めていた意識は一気に切れてしまった。
無理もない、短時間であれほどの量の食事を一人で切り盛りしたことなんて生まれて初めてだったから。故郷じゃいつも母さんや親戚の人と手分けして、何日も前からした準備してたくらいだし。
あ、そうだ。
そういえば、ガダーノの種子から採ったスパイスって、確か……
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僕がまた目を覚ました時、外はすっかり日が暮れていた。
おやっさんはというと、散らかったテーブルの上を片付けている。
そうか、僕が眠りこけている間に宴会は終わっちゃったんだ。できれば僕の作った食事の感想をぜひとも聞きたかったな……
「おう、ようやく起きなさったか、本日の主役さんよ!」
起き上がった僕を見たおやっさんが、満面の笑みで僕の頭をパンパンと叩いてきた。でも、僕はまだまだ喜ぶには早い。
これからが本当の勝負だ。僕はおやっさんの前に座り、両手をついた。
「おおお親方さん、ぼぼぼ僕の一生のおおおお願いです!」
一生のお願い、そう、それは……
「ぼぼっ僕をこここのギルドの食堂で働かせ……て!」
生きてゆく途はこれしかない。戦うものとしてではなく、ここでコックとして働いていくこと。他には何も残されてはいない。僕の唯一のスキルに、全てを賭けるしかないんだってことに。
自信を持て! ドゥガーリ!
だけどやっぱり無理だ、声が続かない。厨房であれほどまでに威勢を張っていたというのに、いざとなると怖気づいてしまう。
「バカやろう、今さら何言ってんだ。礼を言うのはこっちの方だぜ!」
僕の身体は小刻みに震えている。でもそれをしっかり支えていてくれているのは誰でもない、目の前にいるおやっさんの大きな手だったんだ。
「確かにおめえ傭兵稼業には全然向いてなさそうだしな。そんだけ武器になりそうな爪が生えてるっていうのに、肝っ玉は小せえときやがる。だがな……」
そうだ、僕はあのラッシュみたいに強くも大きくもない……
おやっさんはひざまずいた僕の目の前に、大きな寸胴鍋を持ってきてくれた。
僕がさっきまで料理で使っていた鍋だ。だけど今はおやっさんが片手で持てるくらいに軽い音がしている。
「中を見ろ、今日来た連中が全部平らげちまったぞ、あんなになみなみと作ったっていうのに、玉ねぎのかけらすら残っちゃいねえ。まあ、正しく言えば、あそこで居眠りこいてるバカ犬が残っていたのを全部食っちまったんだがな」
おやっさんが親指で背後をくいっと指した。
その先にはラッシュが、ソファの上で大いびきをかいて寝ていた。
よく見るとそのお腹は、はちきれそうになるくらいパンパンに膨れ上がっている。
「あいつはな、ああ見えて結構舌が肥えてるんだ。今まで何人もの腕自慢のコックがヤツのせいで辞めさせられたことか……こっちの懐事情も考えねえで」
そうなんだ、全然そんな感じには見えなかったけどね。ただ力持ちなだけで。
「まあ、これでわざわざ新しいコックを雇わずに済んだってワケだ」親さんの煙草臭い大きな手が、僕の頭をなでてくれた。
「いいかメガネ。今言ったとおり、俺んトコのギルドはあんまり金が無い。それとお前を行き倒れから助けた分も含めて、当分の間は給料ナシだぞ。まあ嫌とも言わせねえがな」
それじゃあ……僕は合格ってこと⁉ ここで働いてもいいってこと?
「その代わり、あいつがメシでちょっとでもヘソ曲げたりでもしたらタダじゃ済ませねえからな、それだけはきっちり覚えてろ!」
わかった、頑張る……僕、ここで一生懸命頑張るよ!
そう決心した途端メガネの奥から涙が溢れ出てきた。
嬉しかった。今まで生きてきた中で……最高の喜び。
アラハスの、紅砂地の、母さんの、父さんの、そしてラッシュとおやっさんのすべての出会いに感謝しようと思ったら、急に涙がとめどなく流れてきちゃったんだ。
床が、メガネが、もうびしょびしょに濡れちゃって前が見えない。
「ほら、そうと決まったらさっさと掃除手伝え! 後片付けも仕事のうちだぞ!」
早速おやっさんの大きな声が飛んできた。
そうだ、これから僕はここでコックとして働くんだ、目一杯頑張らなくちゃ!
涙を無理やり押しとどめて僕は立ち上がった。これからが僕の新たな人生のスタートだ。
「おっと、それはそうとお前の名前はなんて言うんだ?」
ふとおやっさんの足が止まった。そうだ、昨日の時はまともに聞いてはくれなかったし、今度はちゃんと覚えてもらえるだろうか?
「ぼぼっ、僕の名前はドドド……ドゥガーリです」
その言葉に、おやっさんのため息が。
「面倒臭え名前だなあオイ、わかった、トガリで行くぞ、トガリで!」
ちょっとまってよおやっさん、きちんと呼んでよ!
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床をモップがけしながら僕は思い返していた。ガダーノの種のことを。
実からではなく、種子から採ったスパイスには、実は秘密があることを後で思い出したから。
今考えると、僕はとっても危険なことをしてたんだなって思う。下手したら僕の命もなかったかもしれない。
今はもうここのギルドでの仲間だけど、以前は僕の故郷でのマーケットの常連客だった、白毛イタチのルース。あいつとは年齢が近いせいもあってか、すぐに友だちになれた思い出がある。
最初にあいつの職業を聞いた時全身の毛が逆立っちゃったよ。
僕の仕事は薬師を兼ねた暗殺業だってね、こっそりと言ってくれた。
そんなルースが、ガダーノの種を買うときに話してくれたんだ。
「ガダーノは言わずと知れた神のスパイスさ。めったに取ることができないのは僕も承知している……稀少性はおろか、強烈な辛味を持った食欲増進効果と無限に舌に広がる深いコクと味わい。いや、それだけじゃない。こいつを精製すれば不老不死の妙薬にもなるって言い伝えもあるしね」
ーだから高値で取引されているんだね。
「うん、でも僕が欲しいのはこっちじゃない、種から取れるタイプのガダーノさ」
ーえ、でも父さんから聞いたよ、あっちは実から作る方より若干味が落ちるって。それでもいいの?
「大丈夫さ、人間にはそこまで細かい味の違いなんてわかりゃしない。僕が必要なのは、ガダーノの種に秘められている「悪魔」の部分なんだ」
ーえ、悪魔?
「そう、実は神、種は悪魔と僕らの中では言われている……なぜかっていうと、こいつを加熱して摂取すれば、胃の中の酸と結合して猛毒へと瞬時に変化する。だが食べた人間は、異変を感じることもなく、まるでその料理に満足したかのように、笑顔のまま椅子の上でこと切れてしまうんだ。幸せなまま死ねる猛毒……それがこいつさ」
ーえええ、そんな効果が種にはあったの⁉
「だけど、こいつには唯一欠点がある。それは酒だ。あらかじめ酒に浸したり、混ぜたり、食前酒を飲んだあとに摂取すれば大丈夫。無毒の普通のガダーノになってしまうんだ」
ー使いどころが難しいんだね……
「ああ、だから僕はこれを依頼者に渡す時、きちんと説明もするし、選択権も与えるんだ。作り手側に余地を与える……僕のちょっとした優しさなのかな、なんてね。ふふっ」
幸いにも、宴会のみんなは酒豪だったから助かったようなものだ。ここに来るまでにみんな一杯飲んで来てるって言ってたっけ。
それにこれをおやっさんやラッシュに話してしまったら、間違いなく僕はここから叩きだされていたことだろう。
だから胸にしまい……いいや、忘れないようにここに書いておく。
これで、僕の話は終わり。
もちろん今に至るまでにはまだまだ色んな話があった。ラッシュと大げんかしたりとか、ジールと初めて会った時とか。
いつかは話すことがあるかも知れないかな。
いや……もう少し時が経って、僕が大きくなった時かもしれないかな。
……そういえば、ラッシュはあの宴会の後、鍋に残った特製煮込みをみんな食べちゃったって言ってたっけ。
たしか、ラッシュって酒が一滴も飲めないはず、ジールも言ってたし、おやっさんに至っては「酒に頼ったり溺れたりするのは自堕落の証拠だ」ということで絶対に飲ませないと話してた。まあ飲めないから意味はなかったけど。
だから……その、酒なしであの料理を食べたってことは……
……なんで!?
なんでラッシュはガダーノの種の毒を食べても生きてるんだよ!?
トガリのこと。 終わり