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三、空の果て 各務陽介

 虚ろな視界の済で、泣いている子どもの姿を見つけた。誰だろう、遠目には分からなくて。陽介(みょうすけ)は恐る恐る近づく。見るとそれは、幼き日の自分の姿だった。
 公園の隅、ブランコの前で泣き喚く自分の姿に、陽介は思わず言葉を失っていた。近寄ってみても彼はこちらに気づかない。ただただ、何かを待つように泣くだけ。駄々をこねるように泣き叫ぶだけだ。
「どうしたの」
 幼き日の自分がなぜ泣いているのか知りたくて、陽介はそっと声をかける。だけれど予想通りに、答えは返ってこなかった。どうしたものか。そう悩んでいると、背後から新たな声が聞こえてきた。聞きなれた声だった。だけれど、どこか遠くにいってしまった声。
「陽介、泣くなって」
 困ったようにそう言いながら、彼――幼き日の勘直(かんち)が陽介の元へやってくる。そうして手馴れた様子で慰めてくれる。見慣れた光景だ。ずっと昔から続けてきたこと。だからこそ、自分は変わりたくて。 変わった姿を、彼に見せたいと思って。
 陽介はそっと目を閉じた。思い出の景色を見ている。その感傷に身を委ねている。

   *

「――ぃ、おい、陽介」
「ん……んぅ?」
「やっと起きたか」
 心配したぞという声と共に、勘直が顔を覗き込んでいるのが見えた。その表情は、どこか安堵しているようにも見える。陽介は身体を起こすと、当たりをざっと見回した。白いカーテンに覆われたそこは、どうやら保健室のようだった。
「練習中に急に気を失ったんだよ」
 寝惚け眼を擦っていると、勘直がそう説明してくれた。それで思い出す。先ほどまでずっと、皆と共に劇の練習をしていた。
「何にせよ、あんまし無理はすんなよ」
 そう言って勘直は、陽介の額に手を当てる。自分のそれと比べて熱がないことを確認すると、優しく笑いながら頷いた。これもまた、見慣れた景色だった。陽介が短くありがとうと告げると、勘直は「ん」と言って陽介の頭をわしゃっと撫でた。小さい頃からの勘直の癖だ。兄弟同然で育ってきた故に、時々勘直は陽介のことを子ども扱いする。
 それが陽介には、少し不服だった。
「そろそろ、教室に戻るからな」
 そいじゃ。それだけ言い残すと、勘直は駆けるようにして保健室を去っていった。


 少しだけ、昔のことを思い出す。小さい頃から一緒の二人だ。分かち合った思い出も計り知れない。それでも陽介には一つだけ、忘れられぬ記憶があった。先ほど夢でも見た光景。
 あの日の空を、陽介は今でも忘れられない。

 小さい頃の陽介は、とても気の弱い子どもだった。いつも勘直の影に隠れて、皆の後からついて回るだけの、そんな子ども。今思えば本当に勘直の影に隠れて、目立たない子どもだったように思う。だけれど同時に、勘直が陽介を気にかけてくれるので、不思議と友達には困らなかった。勘直が仲良くなった人ともうまくやれていた。それも、小学三年になる頃までは、だが。
 小三になった時、初めて勘直と違うクラスになった。それまでの友達もあまりいないクラスに、陽介は一人放り込まれた。それからの一年間、クラスが変わるまでは、陽介にとって苦難の日々だった。
 靴をかくされることは序の口で、給食を机の上にぶちまけられることもあった。朝学校に来たら机がなくなっていることもあった。他でもない、それは陽介に対するいじめだった。クラスの男子と数人の女子が、よってたかって陽介をのけ者にしようとする。いわれのない中傷。
 陽介はそれでも、学校を休もうとは思わなかった。学校を休んでしまえば負けを認めているような気がして、嫌だった。それに何より、勘直が心配してくれているのを、陽介は知っていたから。彼のためにも休もうとは思わなかった。時々辛くなる時は、どうしてもあったが。
 そんな時だけは、陽介も学校を休んで。そうして、家の近くの公園でずっとブランコに座っていた。
 ボーっと空を眺めている間だけは、陽介は自由になれる気がした。学校のこと、親のこと、そうして何もしてくれない先生のこと。嫌なことは全部忘れて、何も考えないで過ごすことができる。その時間はとても自由だった。
 そうして、夕方にもなると勘直が帰って来て、陽介を見つけてくれる。そういう時決まって陽介は、勘直に飛びつく。来てくれてありがとうと言う。
 勘直は少しだけ呆れ気味に、陽介の頭を撫でてくれる。皆が心配してるぞなどと言いはするが、それが嘘なのは陽介にも分かっていた。本当に心配してくれるのは、きっと勘直だけなんだろうと陽介は思っていた。

 ある日のことだ。いつものように陽介が学校へ向かうと、教室内の空気がいつもとは違って見えた。気にせずに扉をくぐる。何人かがこちらを見てくすくす笑っているのが分かる。いつも通りだったかと思っていた陽介の目に、次の瞬間不可解なものが映った。
 全身から、嫌な汗が垂れるのを感じた。文字を見つめる。なんだろう、これは。そうやってずっと考えていた。先生が教室に入ってくる。黒板に書かれたそれを見つけると、いきなり怒鳴りつけた。あたりが騒然となる。笑い出す生徒もいた。そのまま先生が必死に文字を消す間、陽介はずっとその様子を眺めていた。そうして、黒板の文字が消えて先生が皆の方を向く頃、陽介はそっと教室を後にした。
 教室を出る瞬間、陽介はクラスメイトの一人が口元を歪めているのを、見た気がした。

 いつもの公園で一人、ジャングルジムに腰掛けていた。今日の空はどこか遠くて、どこか泣いてしまいそうで。そんな顔するなよと呟くと、下から「お前がな」と声がした。勘直だった。
勘直は素早くジャングルジムを登ってくると、陽介の隣に陣取って座った。
「先生から、何があったか聞いた。いきなりいなくなったから、先生心配してたぞ?」
 いつも通りの調子でそう言う。それが少し嫌だった。どうして勘直は、自分のことをこんなにも気にかけてくれているのだろう。それが不思議で仕方なかった。
 陽介は少しだけ意固地になって口を尖らせる。その様子を見て勘直が笑う。いつも通り、何も変わらない。あんなことを書かれたにも関わらず、だ。
 陽介は、意地の悪い質問だと理解しながらも、意を決して勘直に尋ねてみた。
「……勘直は、僕と一緒にいると馬鹿にされるんじゃないの」
 その問いに、勘直が首を傾げる。何でそんなこと聞くんだよ、とでも言うようなあっけらかんとした表情だ。陽介はよく分からなくなりながらも、話を続けた。
「皆は僕のことをいじめてる。勘直も、僕をかばえばからかわれちゃうよ。そんなの、僕嫌だ」
 精一杯の気持ちだった。零れそうな涙をこらえながら勘直を見ると、勘直は困ったように頬を掻いていた。
 陽介は矢継ぎ早に言葉を続ける。
「僕なんかと一緒にいたら、また勘直は変な噂を流されちゃう。そんなの嫌だよ。だから、もう助けてくれなくていいよ」
 僕は一人で大丈夫だから。そこまで言うつもりだったが、上手く言葉は出てきてくれなかった。
 勘直が「んー」と考えこむように空を見上げる。陽介もそれを目で追いながら、空を見た。しだいに朱に染まり、宵の近きを知らせている。もう、帰らなければならない。
 立ち上がろうとした直前に、勘直がふっと呟いた。
「他のやつがどう言おうと、関係ないだろ」
 そっと勘直を一瞥した。
「俺は陽介のこと小さい頃から見てるし、ずっと一緒にいたから、それが当たり前なんだよ。だから今更どうこうすることもない。周りがなんて言おうと、俺たちが仲のいい友達なのは変わんないだろ」
 勘直はそう言いながら陽介を見やる。ニッと笑って、右手を差し出した。その手を取る。ぐっと引っ張ってくれる。ジャングルジムの上に、二人して仁王立ちした。不思議と気分がよかった。
 遠かったはずの空が、少しだけ近くなった気がした。
「――僕、一つだけやりたいことが、ある」
 思いついた言葉をそっと口にすれば、勘直は真っ直ぐにこちらを見つめて聞いてくれる。勘直は陽介を裏切ったりしない。
その信用だけが、今はとても心強い。
「……仕返しをしてやりたい」

 次の日、陽介は昨日のクラスメイトを体育館裏に呼び出した。彼は移動する間もヘラヘラと笑ったままで、陽介のことを馬鹿にしているのが丸分かりだった。逸る気持ちを抑えながら前を歩く。体育館裏までがひどく遠いものに感じられる。
 日の光も届かぬ場所まで来ると、陽介は彼の方を向き直った。陽介よりも十センチ近く背の高い彼は、陽介を見下ろしたまま下卑た笑みを浮かべている。陽介は深呼吸を一度すると、すぐに口火を切った。
「あの黒板、書いたの君?」
 彼の下卑た笑いが、声を押し殺したそれへと変わる。「だったらどうする?」と得意げに言ってみせる。陽介は奥歯を噛み締めて彼を睨め上げていた。恐らく、陽介の考えは間違っていない。彼が、昨日の落書きの犯人。
 昨日のことを思い返す。文字を見た瞬間は、何のことだか分からなかった。だけれどそれが自分に――勘直にも向けられた悪意なのだと気づいた時、不思議と悲しみは湧いてこなかった。むしろ、もっとどす黒い感情……憎悪、とでも言えばいいか。自分のみならず勘直まで悪く言う輩を、陽介は許せそうになかった。
 深呼吸する。相手が「お、やるか?」といってゲラゲラと笑う。笑ってろ。陽介はそう呟いて、そのまま――

   *

「各務、体調どう?」
「――ぇ」
 不意に意識が呼び戻された。みると、そこには小人役の服を着た級友の姿があった。どうやら全然帰ってこない陽介を心配して、様子を見に来てくれたらしい。陽介は軽くはにかんで見せると、「大丈夫だよ」といって立ち上がった。
「すぐにもどるよ。そしたら、もう少しだけ練習しよう」
「了解。氷室が厳しいからって、無理はしないほうがいいぜ」
 彼はそう言い残して駆けていく。ペタペタとスリッパが廊下を打つ音を聞きながら、陽介は保健室の右奥、窓から見える運動場を眺めた。白いカーテンの向こうには、八月の空が見える。軽妙な音を立てる野球部員が、白球を追って走っている。陽炎の揺らめくグラウンドはとても暑そうで、きっと自分はあの暑さにやられたのだろうと思った。
(夏休み中の、貴重な練習日だもんな……)
 予定が合う日を見つけて集まった、大切な練習日だ。あまり悠長なことはしていられない。
 静かに、走り出していた。

   *

『――どうして、あんなことしたんだよ』
 ブランコの前で泣きじゃくっていると、勘直が優しい声音でそう聞いてきた。勘直に言われて何度か深呼吸する。するとだいぶ落ち着いたのか、次第に涙も止まってしまった。勘直が安心したように相好を崩す。陽介もそれにつられて、ぎこちなく笑ってみせた。
『犯人に立ち向かうなんてさ』
 そういう勘直の口調は、呆れ半分感心半分といった調子で。だけれど陽介を責めるような口調ではなくて。柔らかい声に安堵を覚えながら、陽介はそっと訳を告げた。
『勘直が、馬鹿にされるのが、嫌だったから』
『だからって、あんなこと』
『いいんだよ』
 陽介が断定すると、勘直は口を噤む。
『……いいんだ。僕が勝ったんだから』
 体育館裏に呼び出した彼を、陽介は何とか撃退することに成功した。勘直は心配してくれていたようだが、それでもやめるつもりはなかった。陽介だけじゃない、勘直のことまで馬鹿にされたのだ。それが、陽介には許せなかった。
『もう二度とこんなことすんなよって、怒鳴ってやったんだ』
 その時の泣き喚く彼の顔が忘れられない。くすっと笑ってみせると、勘直も観念したように肩を竦めてみせた。
『……ほんと、陽介は時々無茶をする』
 勘直が苦笑する。背中を撫でてくれる。陽介は少しだけ照れくさくなりながらも、深く深く頷いた。
 それでも勘直は、陽介の背中を優しく撫で続けてくれていた。

   *

「はー、終わったー……!」
 アスファルトに大の字で転がり込むと、ひんやりとして少し気持ちよかった。皆から疎らに声が上がる。一日の練習を終え、ようやく一息ついた。皆満身創痍といった様子である。
「お前が倒れなけりゃ、もう少し早く終わったんだぞ」
 そう言いながら、陽介の頭に何かが掠めた。真弘が丸めた台本片手にこちらを覗き込んでいた。少しだけ機嫌の悪い彼を宥めるように、陽介は苦笑を浮かべてみせた。
「ごめん、暫く休んだおかげで治った。ちゃんと全行程終われたから、いいだろ?」
「当たり前だ。俺と北斗で時間考えてんだからな」
「氷室冷たいー」
 そう言うと当たりから笑いがこみ上げた。皆して声を上げて笑う。なぜだか、他愛のないものがひどく可笑しく思えた。
 そうして同時に、ひどく儚く思えた。
 ――やっぱ、楽しいなぁ、こういうの。
 誰かの声が聞こえる。それに陽介は小さく頷いてみせる。疲れはあるが、同時に充足感が、心地よく彼らを包んでくれている。
 だから、暮れ泥んでいる茜空も、窓から聴こえてくる吹奏楽の音も。その一瞬に映る景色の何もかもが、どこか愛おしく思える。
 手を伸ばしてみる。あの日見た空のようだと思った。あの日、勘直が陽介を助けてくれた日。忘れられない、あの空。
(小さい頃から、ずっと一緒にいたから、さ……)
 たくさん助けられてきた。たくさん救ってもらった。返そうにも返せそうにないほどに、たくさんのものを勘直からもらった。だから陽介は、今回決めたのだ。勘直のようになろうと。
 自分を変えようと思った。そうして、勘直と同じようにかっこいい人間になろうと思った。だから主役に名乗り出た。あの頃の、いじめられて勘直の後ろに隠れていただけの自分とは違う。少しでも前に進んでいるのだと、そう証明できるものが欲しかった。
(……空、今日も)
 遠いなぁ。そう呟き、それでも、と付け加えた。
 それでも、きっといつか届くと信じている。いつか、空の果てに。そう信じるから、まだ負けられない。
 心の中でそう誓いを立てると、陽介はそっと身体を起こした。
「……そういえば、槻柳(きりゅう)どこ行った?」
 誰かが呟く。その声に返事はない。どうやら誰も知らない様子で、かく言う陽介も勘直が何処に行ったのか知らなかった。教室に戻っているのだろうか。探してくるとだけ告げて、陽介は人の少ない校舎へと足を踏み入れた。
 生徒はほとんどいない。勘直がいるとすれば、三階の教室だろうか。そんな風に考えながら階段を登ろうとした、その時だった。
「――私とつきあって、槻柳くん」
 頭上の階段、踊り場から聞き覚えのある声が降ってきて、思わず陽介は足を止めた。すぐに物陰に隠れる。聞き耳を立てていると、勘直と誰かが会話をしているところだった。
(今、何て言った……?)

 耳にこびりついたその言葉は、暫く陽介の頭から消え去ってくれなかった。

しおり