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四、君の力

「俺も、役やんの?」
 そう聞き返すと、北斗がおずおずと頷いた。ダメかな? と聞いてくる。それに首を振って答える。
「別に、いいよ。そんで、何やればいい?」
 そう返すと、北斗が安心したように破顔した。怪我をして休んでいる級友の代わりだと言って、小人役を頼まれた。時間も押しているし、何よりも人手が足りない。委員だからといって回避している場合でもなかった。
(それに、何より)
 北斗が相当頑張っていることを、勘直は理解している。役はやりたくないと言っていたのに、声の通りがいいからとナレーションを任されてしまってもいる。台本だけでなく劇の練習においても、北斗は皆を纏めるべく奮起しているのだ。
 もちろん、それは北斗だけではなく。
「氷室の様子、どう?」
 物のついでとそう聞くと、北斗が険しい顔をして見せる。「真弘くん、今日は少し、機嫌悪い」と言って苦笑した。それに勘直も苦笑し返して、仕方ないなと呟いた。
「おーい槻柳、これどこ置けばいいー?」
「あー、今行く! ちょい待って!」
 級友の呼ぶ声に短く答えながら北斗に「悪い、行くわ」と告げた。北斗が小さく頷く。それまで手伝っていた看板作りをやめると、勘直はすぐに声のした方へと向かおうとした。
 そこで、一度立ち止まって。北斗の方に向き直る。
「こっち終わったら行くよ。それまで、氷室の機嫌頼む」
 そう返すと、北斗が苦笑気味に「分かった」と言った。

 文化祭も目前と迫った八月の終わり、三‐一は劇の準備に明け暮れていた。
 役どころの生徒たちは台詞や動き合わせに、その他の小道具や大道具なんかも全て自分たちで用意するから、そちらでも皆働き詰めだ。学校に来ては午前授業を受け、練習や準備に当てられた午後になれば皆自分の仕事に精一杯。そんな毎日。
(だけど、まぁ)
 雰囲気は、悪くない。勘直はそう感じていた。
 役者陣は真弘の激昂を浴びながらも日々上手くなっている。役者一人ひとりに合わせた衣装や武具も出来上がってきたし、客寄せ用の看板も順調に出来つつある。舞台セットやBGMも用意が整ってきたから、このまま行けば無事当日に間に合うことだろう。
(……心配事が、あるとすれば)
 陽介の様子が最近おかしいこと、くらいか。
 クラスの中にいる時は普段通り振舞っているが、帰り道や朝なんかは明らかに勘直を避けているようだった。練習が終わっても真弘や北斗と帰るばかりで勘直に近づこうとしない。珍しいことだった。
(何か、やったっけな)
 それを別段どうと言うつもりはないし、陽介は陽介なりの考えがあるのだと思う。だから直接尋ねたりはしないのだが、引っ掛かりを覚えてはいた。
(その内元に戻るとは思う、けど)
 劇に支障を来すことがなければいいと、今は願うばかりだ。
「槻柳ー、早くー」
「あぁ、今行く」
 今はそう、準備に集中しよう。心の中で呟いた、その時だ。
「槻柳、各務見なかったか!」
 真弘の声が聞こえて振り向く。北斗の言った通りに、機嫌の悪そうな声。
「陽介? 見てないけど」
「そうか。あの野郎、どこ行きやがった……」
 真弘が眉をピクピクさせる。相当ストレスが溜まってる様子だ。
 勘直はそれを宥めるように苦笑すると、「探して来るよ」と言った。
「その代わりといってはなんだけど……」
 先ほど自分を呼んだ級友を見やる。そうしてその後真弘を見返すと、両の手を眼前で合わせて矢継ぎ早に告げた。
「氷室、この立板奥まで運んどいて!」 
 真弘が「死ね」と呟いた。

   *

 屋上に続く扉を開くと、薄い青が視界に広がった。その先に陽介の背中が見える。鉄柵に乗りかかり、空を見ているいつもの背中。
 小さい頃から変わらないなと、思わず苦笑が漏れた。
「陽介」
 名前を呼ぶ。身体をビクッとさせて、陽介が振り向く。「よぉ」っと短く声をかけると、陽介が曖昧にはにかんで見せた。少しだけ目が泳いでるのが分かった。
「秋の空は、優しくて温かいな」
 そう言いながら陽介の横に並ぶ。顔は見なかった。陽介が暫しこちらを見ていたのは分かったが、やがて彼も視線を空へ移した。
 変なこと言うなぁと。聞きなれた声が漏れる。
「練習、どうだ。王子様台詞多くて大変だろ」
 同じように空を見据えつつ、そう投げかける。陽介の溜息が聞こえた。
「……ボチボチ。氷室が厳しくてさ。万丈が宥めてくれなかったら何度か殺されてるんじゃないかな、おれ」
「あいつの性格だしなぁ。でも、皆上手くやってるだろ」
「まぁ、ね。なんだかんだ言って、氷室も万丈もよく考えてきてくれてるからさ。あの台本、よく出来てるんだよ」
 だから、言われたことはしっかりやらないと。陽介がこれ見よがしに辟易したような声で言うので、勘直も思わず苦笑する。そうして、先ほどの言葉に覚えた違和感を、何気なく口にしてみた。
「……今、さ」
「え?」
「いや、今、すっげー自然におれって言ったなって。いつからだろって思った」
「あぁ……って言っても、結構前からだよ」
「そうだっけ」
 勘直が驚くようにそう返すと、陽介が苦笑気味に頷いた。横目でこちらを一瞥してから、「まぁ、仕方ないか」と呟く。
「勘直の方はどうなの? 今から小人役やるんでしょ」
「あぁ……いや、まだ分かんないけど、さ」
 痛いところをつくなぁと思いつつ、「でもまぁ」と続く。
「皆が頑張ってんだし、俺も頑張らないわけにはいかないなと思ってるよ」
「――……そう、だね」
 陽介がフッと笑ってみせる。随分と自然に笑うようになったなぁと思いながら、先程の問答を思い返す。一人称がいつ変わったのかは覚えていないが、陽介も色々考えがあるのだろうと、改めて感じた。
「……そういえば、勘直どうして――」
「お前らここにいたのか!」
 不意に怒気の篭った声が聞こえて来て振り向く。見れば、機嫌の悪そうな表情の真弘と、それを宥めるようにしている北斗が屋上へと上がってきたところだった。
 真弘はそのままこちらまでやって来たかと思うと、そのまま勘直と陽介の間に割り込んで入った。
「……たく、一息つく暇すらねぇってのに。お前ら二人でサボりとはいい身分だな」
「氷室もなんだかんだ休んでんじゃん」
「うっせぇ」
 そう言う真弘の調子に陽介が笑う。勘直の隣までやって来た北斗も、釣られて苦笑していた。真弘の奔放ぶりにも慣れている様子だ。勘直も、三人に倣って口元を緩める。
 そうして、鉄柵にもたれ掛かりながら空を見上げた。秋間近の空は、やっぱり優しいと勘直は思う。どこか温かくて、ずっと穏やかだ。
「……もうすぐ、だなぁ」
 誰が言ったとも分からぬまま、どこからか漏れたその言葉に感傷を添えた。皆考えることは同じようで、目前に迫った文化祭の日を、その目に映している。
 自分たちの作り上げてきたもの、その完成を、その目に。
「あっという間だったな」
 真弘がそう漏らす。三人とも頷く。六月、劇をやると決めた。そうして北斗が台本を名乗り出て、真弘が監督になった。陽介も主役を買って出てからずっと、練習に励んでいる。勘直も、委員としてクラスをまとめ上げてきた。
 気付けばそうして七月が過ぎ、八月もあと少しで終わる。もうあと一週間もすれば、そこはゴールだ。
 そう思うと、少し寂しくもあった。
「おれ、楽しかったよ」
 不意に、陽介が言った。視線を向ける。穏やかな笑みを浮かべている。
 いい顔するようになったなと、勘直は思った。
「……おれ、自分を変えたかった。泣き虫だったり、弱虫だったりする自分が嫌だった。だから、今回の文化祭、例え何をやることになっても中心にいようって、そう思ってたから」
「お、おれ、も」
 北斗が陽介の言葉に呼応する。「おれも、そう、だった」と、はにかんでみせた。
「考えることは同じか」
 真弘が面白いものを見るように笑う。陽介が少しムッとしつつ、「氷室はどうなんだよ」と返した。真弘はそれに「さぁねぇ」とだけ答える。鉄柵によじ登り、そこに腰掛けてみせた。
「そういうのはお前らの話だけで十分だろうよ」
「氷室性格悪いぞ」
「言ってろ」
 真弘がケラケラと笑った。
「槻柳は?」
「え」
 突然話を振られて、思わず間の抜けた返事をしてしまう。真弘はそれにも楽しそうに笑って見せ、「お前はどうだったわけ?」と付け加えた。
「俺、は……」
 どうだった、だろう。言われて、この三ヶ月を振り返る。楽しかっただろうか。あるいは――
「俺はそう、だな……」
 それでも――。浮かんだ答えは、一つだった。
「……青春してるなって、思ったよ」
 瞬間、柔らかい風が吹いて、甘い匂いが飛んできた。金木犀の花の香り。鼻腔をくすぐる花の香りを感じながら、三人の顔を見やる。
 三人とも、笑いをこらえたような表情をしていた。どうしたのか聞こうとした瞬間、真弘が堪えきれなくなったのかククっと笑った。
「いやぁ、らしい答えだわ」
「どういう意味だよ」
「勘直は相変わらずだなぁ」
 ひどく棒読みで陽介が言う。北斗も苦笑しながらこっちを見ていた。
 勘直は何となく居心地の悪さを感じながら、「しゃあないだろ」と言った。
「真面目に考えたら、そう思ったんだよ」
 勘直の様子を察してか、陽介が「そうだね」と微笑む。真弘も満更でもない様子だった。北斗も、嬉しそうに笑っていた。
「そうだね、すごく、青春してる。おれもそう思うよ」
「だろ? 別に冗談で言ったわけじゃないんだ」
 それは紛れもなく、勘直の本心だ。北斗の台本も、真弘の演出も、そうして、陽介の決意も。どれが欠けてもいけない。その全てが揃った今は、掛け値なしに大切なものだと思えた。
 青春してるって。馬鹿げたことすら本気に思える。
(……始めは、上手くいくか心配ですらあったのに)
 気づけばクラスが一丸となって、その日を待ちわびている。一つになった心はけして嘘なんかじゃない。勘直は、そう感じていた。
「絶対、成功させような」
 勘直が呟く。三人が頷く。
「泣いても笑っても、あと一週間」
 頑張ろう。そう言うと、「おぅ」と小気味良い声が返ってきた。
「さぁて、それじゃあ各務クン、練習に戻ろうか」
 真弘が気の抜けた調子で笑う。陽介も苦笑しながら応える。
「言われなくたって行くっての。ほら、万丈も勘直も。二人とも出番あるんだから、遅れないでよ?」
「う、うん」
 真弘を先頭にして、四人とも階段を目指す。勘直は三人の背中を見つめながらも、もう一度空を見上げた。少しずつ日が傾き始めて、茜の空が綺麗だった。
(……自分がどうありたいかとか、初めから考えてたわけではない、けど)
 こうして仲間といる時間は、少なくともきっと、暗くも、先が見えなくもないはずだ。霧の中なんかじゃ、絶対ない。
(あと、もう少し)
 一週間すれば、終わりを迎える。皆と過ごした今の先に、何があるとしても。もう、終わりはそこまで近づいている。

 きっと、それが願う形であるように。勘直はそう、空に言葉を投げた。

   *

 文化祭が、始まった。泣いても笑っても、これが高校生活最後の文化祭となる。その思いは皆同じなようで、朝早い教室にも多くが顔を揃えた。朝礼を終え、生徒会による手の込んだ開会式を終えると、すぐに準備にとりかかる。
「いよいよ、今日か」
 劇を行う土間まで機材運びをしていると、隣を行く陽介が呟いた。少しだけ不安な調子だ。だけれど、落ち着いた様子もある。
「一日目の、ちょうどお昼前、だもんな」
 二日間連続で行われる文化祭の内、勘直たちの劇は一日目だ。そのちょうど真ん中。正午の休みを目前に控えた、十一時から行われる。
「お客さん、たくさん来るといいなぁ」
 担いだダンボールを持ち直しながら陽介が漏らす。そうだな、と答えながら、見えてきた土間まで駆け足で向かった。真弘の姿があった。
「おはよ、氷室。万丈は?」
「ん? あぁ、北斗ならまだ来てねぇぞ」
「あれ? そうなんだ?」
 意外だね。そう陽介が肩をすかしながら言うと、タイミングを図ったように北斗の声が聞こえた。真弘が「遅いぞ」と声を上げる。
 やって来た北斗は、頭によく分からないものをつけていた。
「……なんだ、それ」
 真弘の問い。事情を知っている勘直はともかくとして、陽介もまた怪訝そうに眉を顰めている。北斗は少しだけ恥ずかしそうに俯きつつ「客寄せ、やれって」と答えた。
「……槻柳、これは誰の入れ知恵だ」
 真弘が少しだけ嫌そうな表情をしている。こういうの嫌いなのかなと思いながら苦笑した。
「女子たちだよ、もちろん。万丈用に秘密で作ったんだとさ」
「……ほぉ……へぇ」
 真弘がジロジロ見るので、北斗は所在無さげに視線を泳がす。
 北斗の格好は、小人役とは別の、森の生き物をあしらったものだ。具体的に言えば鹿。鹿の角と、茶色いベストのようなもの。そうして頬にはヒゲのようなものを貼られている。北斗がナレーションをやるにあたって、女子たちが考えた策だ。ただ傍に座って読むだけだと映えない。
「小人役とかはまだ見せられないからな。あまり重要な役どころじゃない万丈に、客寄せを頼むってわけだよ」
 そこまで話すと真弘も陽介も納得したようで、愉快そうにくくっと笑った。
「頑張れよ、北斗。似合ってんぞ?」
「……こういうこと、したくないから、台本やるって言ったのに」
 そうは言いつつも諦めているのか、北斗はハァっと溜息をついては、用意しておいたプラカードを手に取る。それを持って歩くと、北斗のそれもだいぶ雰囲気があった。
勘直は満足げに頷くと、「そいじゃ、これ」と真弘にも似たような看板を差し出す。真弘が「は?」と顔を顰めた。
「万丈だけだと可哀想だろ? 氷室も一緒に行ってやって」
「あぁ? 何で俺がんなこと……」
 頼むよ、と念を押すと、真弘も渋々ながらにそれを受け取った。
「たく……てめぇらも主役なんだから、客引きしてこいよ!」
 ブツブツ言いながらも、北斗の名を出すと甘い真弘だ。真弘はそれこそ普通にジャージ姿だが、あれで結構顔の知られているところ。少し位は効果があるだろう。
「てめぇらも主役なんだから、か」
 二人の背中を見送って、陽介がポツリ呟く。
「確かに、図らずもそういう形になっちゃったなぁ」
「……だな」
 急遽小人役を演じることとなった勘直だったが、その役というのがちょうど小人たちのリーダーポジションだった。劇の中で言えば、王子様とともに魔女の城へ出むき、その手下たちの頭を倒す役だ。北斗に言わせればこの劇は王子と小人が主役らしいから、ちょうどそれが勘直と陽介の二人になる。
「勘直は、この後どうするの?」
「んー、そうだな。俺も適当にポスターの一枚でも持って回ろうかなと思ってるけど」
「そうなんだ」
 陽介は納得したように頷く。どことなくぼんやりしているように感じるのは、勘直の気のせいだろうか。
「……陽介、あのさ」
 声に振り向いた陽介が、何かを思い出したように手を打った。
「あー、そうだそうだ。おれ、やらなきゃいけないことあるんだった」
 そう言って、勘直の方を向いて笑う。
「ごめん、勘直。おれちょっと行ってくるよ。準備とか客引きとか、任せるね」
「あ、おい」
 呼び止める勘直の声も気にせず、陽介は走っていってしまった。後には勘直一人が残される。
「……まぁ、いいか」 
 勘直はそう漏らすと、そろそろ始める一組目の劇に目をやった。確か、二年生だったと思う。劇の演目までは知らないけど、勘直たちの出番はこの劇の次の次だ。それまではもう少し、時間がある。
「槻柳、くん」
 どうしたものかと考えていると、聞きなれた声に呼ばれて。振り向いた先に女子が一人立っていた。クラスメイトの、日比野という子だ。
 勘直は曖昧に微笑みながら呼びかけに応える。「どしたの」と聞けば、日比野は少したどたどしい調子で「一緒に、回ろう?」と言った。
 それに、勘直は、

   *

 どうしてあんな見え透いた嘘ついてしまったんだろうなと、改めて溜息が漏れる。勘直にバレてるかなと思うと少し憂鬱だが、そこまで鋭い性格でもないだろうと、自分に言い聞かせておく。
(今は、それよりもこっちのほうが大事だ)
 手にした紙と睨めっこしながら、陽介は鉄柵にもたれかかった。
 気付けば最近来ることの多かった屋上だ。秋晴れの空の下、屋上で時間を潰す生徒は他にいない。それも、当たり前か。文化祭の当日になってまでこんなところにやってくる生徒も、そうそういないだろう。
(だから、いいんだけどね)
 陽介は深呼吸すると、そっと声を張り上げた。
「――その気持ちに、私は真っ直ぐ向き合いたいと思った」
 それは、台本には書かれていない台詞。陽介が勝手に付け加えようとしている台詞だ。
「――胸を張ってその隣に居たいから、私は……」
 そこで、言葉を止める。自分で作っておきながら、少しだけ恥ずかしくなった。本当に、こんなことして大丈夫だろうか。
(……勘直なら、きっと)
 許してくれる。そう信じている。真弘には、だいぶ怒られそうだが。
(……一緒にやれる、最後のイベントなんだから)
 今更、後には引けない。そう思い、もう一度深呼吸した。校舎に取り付けられた時計を見やる。時間は、もう一時間と残っていない。
(絶対、やり遂げるんだ。失敗は許されない)
 呟く。おれは、やるよ。やってみせるんだ。
 この一回を、未来に繋げるために。

   *

「……陽介のやつ、どこ行ったんだ」
 開始時刻の二十分ほど前、勘直たちの前の劇もクライマックスになりつつある。このまま大団円を迎え、そうして十分ばかしのインターバルを置いたら、そこはもう勘直たちの出番だ。だというのに、肝心の王子様が来ない。
「槻柳、そろそろお前も着替えろよ。各務はたぶん大丈夫だから」
「あぁ……分かってる」
 そう返しながらも、心は陽介のことが気が気でない。だがしかし、級友の言葉も一理だ。開演の少し前から客引きをするためにも、服装はそろそろ変えておいた方がいい。
 勘直がそう思い土間の更衣室へ向かうと、外から真弘の怒声が聞こえた。いつも通りの音声。たぶん、陽介が帰ってきたから。
「悪い、遅くなった……遅れてごめん」
 皆に謝るようにしながら、陽介が更衣室へと駆け込んで来た。級友の皆は「おせぇぞー」とか「心配したよー」とか言いながらも、胸を撫で下ろした様子だ。かくいう勘直も、安堵している。
「陽介、早く着替えろ。客引きするから」
 小人役の衣装に身を包みながら言うと、陽介も神妙な面持ちで頷いた。すぐに用意してあった王子の衣装を身に纏う。童話に出てくるような、それらしい格好。胸に蝶ネクタイをつけ、頭には王冠のようなものもかぶさる。赤いマントをひっさげ、全身は白を基調にして青がところどころ映えている。小道具の剣を腰に据えれば、戦う王子様の出来上がり。
「……ちゃんと着て動くの、まだ慣れてないんだよなぁ」
 寸法の確認などのために何度か着てはいるものの、練習中に他のクラスに見られてはいけないからと、あまり出していない衣装たちだ。動きが練習通りにいけるかはちょっと分からないが、それにしたって皆、雰囲気がある。
 陽介だけじゃない。勘直率いる小人たちも、それぞれに合わせて一人一人服の色が違う。他にも魔女なんか、大きな黒帽子を目深にかぶり、黒のローブに身を包む姿はまさにそのものズバリだ。そうして姫もまた、姫役の彼女によく合う薄い色で統一されている。どの衣装もよく出来ていた。
 そうして、それらが少しずつ客寄せに向かえば、皆が皆一様に足を止めてくれるのだ。友達の出演を楽しみにしてくれる子、暇つぶしに立ち寄った子、理由は様々だろうが、キャスト陣の客引きは確かに功を奏し、開始五分前には土間にいっぱいの人が集まった。座れなくて立ち見している人すらいる。
「……思った以上に、たくさん集まったなぁ」
 土間の裏、道具置き場となっている場所に皆で集まりながら、口々にそう言った。クラスの皆が皆、今か今かと浮き足立っているのが分かる。「この中でやるんだって。すごくない?」「あー緊張してきた」「でも成功したらきっとすごい気持いいよね」……所構わずに漏れる声には不安も、そして確かな自信も見え隠れしている。今まで自分たちが培ってきたものに対する、自信が。
「槻柳ー、各務ー」
 直前というところになって、クラスの男子が言い出した。
「お前ら主役なんだしさ、一本締めてくれよ」
 な、と。勘直と陽介が顔を見合わせる間に、皆が「さんせーい」と声を合わせた。そうして視線が集まる。陽介に苦笑して見せると、陽介もそれに応えるようにはにかんだ。
「それじゃ、失礼して」
 中央へ二人で。気付けば円陣になっているクラスメイトの、一人一人を見渡せるように、陽介と背中を合わせて立った。肩組んでーと声をかける。皆がウズウズしているのが分かった。
 後ろの陽介に目配せして、口を開いた。
「三年一組、泣いても笑っても最後の文化祭!」
「絶対、成功させるぞ!!」
 おう! と、力強い返事があって、そのまま皆が動き出す。始まりの時間だ。
「それじゃあ、勘直」
 陽介が右の拳を突き出す。
「……頑張ろう、ね」
大きく頷き、その拳に右拳をぶつけた。

   *

「――誰か、誰か人はおらぬか。ここが魔女の住む地だと聞いてやって来た。誰かおらぬか!」
 冒頭。この劇は、王子が魔女の城を訪れる所からスタートする。王子の呼びかけに魔女が扉を開けた。おどろおどろしい音楽が流れる。
「おやおや……これはこれは、王子様ではありませぬか。このような場所に何用で?」
 魔女がせせら笑い、王子が頷く。王子は観客の方を向きながら腕組みをする。あたりを徘徊するようにして、こう説明した。
「実は……折いって頼みたいことがある。私の住む城の近くに、大きな大きな森があるんだが、そこに、白雪姫、というそれは美しい姫君が住んでいるのだ。私は、彼女を妻として迎えたい。そのために、あなたの力を借りたいのだ」
 魔女の笑み。魔女は自分の城の中に戻ると、先ほどまでかき混ぜていたツボの傍まで歩み寄る。そこに一つ、りんごをつけると、それを手にして再び王子のもとへ。
「そういうことでしたら、これを使いなされ。この毒りんごを……わしがその白雪姫、とやらに渡してきましょう。そこを、王子様が助けてやるのです」
「しかし……それでは姫が」
 困惑する王子に、魔女はこう耳打ちする。
「解毒剤を、用意しておきましょう。白雪姫は……小人と仲がいいと聞きます。小人に、姫を助けに行ってくると伝え、わしのもとへ来てくだされ。さすれば、あなた様にそれを差し上げましょう。それを使い、姫を救い出すのです」
「おぉ、なるほど! 姫を助けた恩人に、私がなると」
「えぇ、えぇ」
 魔女が満足げに首肯する。王子は腰に手を当て、うんと大きく頷いた。
「よし、では私はさっそく姫の待つ森へと向かうとしよう。魔女殿、成功した暁にはたんまりと礼をさせてもらう。よろしく頼んだぞ」
「お任せください」
 魔女がそう言い、そこで二人の会話は途切れる。そのまま王子は魔女の城を去り、魔女は自分の城の中で大きく笑う。
「ふぇっふぇ……バカな王子よ。この機会に、小人ごと姫を始末してくれるわ!」
 高笑いとともに雷鳴が響き、そこで一つ目のシーンが終わる。
 そうして、二つ目のシーン。ここから、勘直や北斗の出番が始まる。
『昔々、あるところに、白雪姫という美しい姫様がおりました』
 姫の登場。楚々とした様子でスカートをつまみ上げ、森の中の花畑までやってくる。
『姫は森の中に住んでおり、そこには仲のいい小人たちが一緒に暮らしています』
 小人役の出番だ。北斗のナレーションに合わせ、舞台に駆け出す。その時初めて客席の全貌を見渡した。想像以上に、盛況している。
『姫は今日も、小人たちと一緒に仲良く遊んでいました』
 この台詞をきかっけとして、小人たちの会話が始まる。
「ねぇ、今日は何をして遊ぶ?」
「昨日は姫様と一緒に花飾りを作りました。姫様は今日は何がしたいですか?」
「うーん、そうねぇ……」
 迷っている一行。それに乗じて、どこからか声が聞こえてくる。
「おやおや……こんなところで人と会うとは珍しい」
 現れたのは魔女だ。魔女はその手にかごを携えている。そこに入れられたのは、りんご。
 小人たちが姫を取り囲むようにして前に出ると、魔女はその様子を見て笑う。
「ふぇっふぇ……そう身構えなさらないで。この森に、りんごを取りに来たのです」
「あら、りんごを?」
「えぇ、えぇ」
 そうして魔女は、かごの中のりんごを掲げてみせる。色のいいりんごだ。小人たちが喉を鳴らし、姫が「まぁ」と嬉しそうな声を上げる。
「綺麗なりんごですこと」
「よければ、お一つ差し上げましょう」
「よろしいのですか」
 魔女は頷き、手にしたりんごを会場中に見えるように突き出した。それをぐるっと動かしてから、姫に歩み寄り、手渡す。
「ありがとうどざいます」
 深々と頭を下げる姫。魔女は再びせせら笑い、「いいんですよ」と漏らす。
「それでは、またどこかで」
 そう言って魔女は去っていく。
 魔女が去った後、姫の手にしたりんごを小人たちが一心に眺める。
「……怪しくは、ないですか?」
「安全なものかな。少し心配」
「でも、とてもおいしそうな色をしているね」
 小人たちが口々に言うのを聞きながら、姫は薄らと微笑む。
「それでも、せっかく頂いたものですから」
 と、さっそくそのりんごを一口――
「! 姫様!?」
「姫様! どうしたのですか!?」
 その瞬間、姫は倒れてしまった。小人たちが慌てふためく。姫を抱き抱えて起こしてみるが、反応はない。何度も呼びかけるが、それでも姫は一向に目を開かない。
「姫様! 目を開けてください!」
「いや! 死なないで姫様!」
 女の小人たちが泣き始める。男たちは大変だ大変だと喚く。それでも姫は目を覚まさない。静かに、眠ったままだ。
 その時――
「――大丈夫か!」
 声とともに王子が姿を現す。先ほどの一件もあり敏感になっている小人たち、すぐに姫を守るように王子の前に立ちはだかる。
「誰? 姫様に何かする気?」
「姫様は僕たちが守る!」
 小人たちの気迫に押され、王子が一瞬声を詰まらせる。そして咳を一度漏らしたかと思うと、両腕を大きく広げながら言った。
「私はこの国の王子。誰かの叫ぶ声を聞いてやってきたんだが……」
「えぇ! 王子様!?」
 小人たちが全員驚くと、王子は満更でもなさそうにまぁまぁと両手を掲げてみせる。小人たちがこぞって口を開く。
「王子様! 姫様が!」
「怪しい人にもらったりんごを食べちゃって!」
「倒れちゃったんです!」
「どうすればいいの、王子様!」
 相次ぐ質問に、王子は当惑しつつ咳払いを一つ。そうして落ちているりんごを手に取ると、小人たちにそれを向けた。
「これが、そのりんごか」
 小人たちの首肯。王子はそれに眉を顰め、小さな声でこう漏らす。「魔女のせいかも知れない」
「魔女? 魔女の仕業なんですか? じゃあ、先ほど来たおばあさんは……」
 女の小人たちが青ざめる。
「しかし、どうして魔女が姫様を……」
「それは分からない。だが、姫君を助けるためには一度、魔女の住む城まで行ってみる必要がありそうだ……私が、行ってこよう!」
「待ってください」
 ここが、勘直の出番だ。小人のリーダーとして、皆を一瞥してから、王子に向けこう告げた。
「僕たちも、行きます。絶対に魔女を倒して、姫様を助けるんだ!」
 小人たちがおー! と声を合わせる。それに狼狽する王子。
「し、しかし、魔女の城は本当に危険だと聞く。君たちを巻き込むわけには……」
「構いません。ここでじっとしているくらいなら、魔女の城にでもどこにでも行ってやります」
「私たちは、姫様がいないと嫌なの」
 固い決意だ。小人たちの思いを聞いた王子は、それに胸を動かされたのか神妙に頷いて見せる。
「……どんな罠が待ち受けていているか分からない。いいんだな?」
「構いません。王子様、僕たちはあなたと一緒に、魔女と戦います」
「……分かった。ならば、行こう」
 王子はそのまま、女の小人たちに姫を任せると言った。そうして男の小人たち四人を引き連れ、魔女の住む城へと向かうこととなった。
 ここで、二つ目のシーンが終了する。

   *

(なかなかどうして、いい感じじゃねぇか)
 舞台袖、北斗の傍で舞台を見守っている真弘は、ここまでの流れを見終えて安堵の息を漏らしていた。皆、緊張はあるだろうに上手くやっている。何より、勘直と陽介のやり取りが真に迫っているように思えた。さすがは名コンビ。
「ずっと一緒なだけあるな、あいつらは」
 一人ごちながら思わず笑みを零す。声に反応して振り向いた北斗が、苦笑しながら頷く。そのまま北斗は前を向き直り、手にした原稿から次の一文を読み上げる。劇はようやく三つ目の場面へと移っていく。
『――王子様に連れられて小人たちがやってきたのは、薄暗い森の奥、魔女の住むと言われる大きなお城でした』
 王子とともにやって来た小人たちは、この日のために作り上げた武器を持っている。王子の剣はもちろんのこと、棍棒や、杖や、あるいはサーベルやら。それぞれの印象に合わせ武器は仕立ててある。
 王子が魔女の城、その扉をノックする。先刻と同じ調子で魔女の所在を問う。
「おやおや、これはこれは……またお会いしましたな、王子様」
 魔女が小人たちに聞こえる声でそう言うと、小人たちの間で動揺が走る。
「王子様、貴方は、魔女と……知り合いなのですか?」
 小人の一人が詰め寄るのに、王子は答えない。それを見て魔女が、さぞ愉快と言わんばかりの笑い声を上げる。
「あぁ、そうともさ……なにしろ、その王子様はわしに、毒りんごを作るようにと命じた張本人なんだからねぇ!」
「ええっ!?」
 小人たちは驚き、王子の側からさっと離れる。各々の手にした武器を王子に向け、「よくも騙したな!」と声を荒げる。しかし――王子は何も答えない。
 小人たちは王子が自分たちを騙していたのだと気づいた時、どうするのか。
(ここは、北斗と一番に話し合ったところだ……)
 陽介が王子役を買って出た時、北斗の中では王子の役回りを変えなきゃな、という懸念が湧き上がったという。それは、主役とは言ったものの実のところ王子はひどく汚い役回りだったからだ。卑怯な王子が、姫を助けるという名目の元に仕立て上げた物語。この話は、そういう筋書きをとっていた。
 しかし、だ。そのままでは王子は悪者になってしまう。それをどう是正するのかが、北斗と真弘で話し合って決めた、「この話の核」になる部分だった。それが、この場面。王子は、魔女を一人で倒すことでその罪を贖おうとする。
(そうして、小人や姫もそれを許してくれる……)
 その頑張りを、認めて。そういう話だ。
「……確かに、私は卑怯者の王子だ」
 王子の台詞は会場中に響き渡る。客を一瞥し、小人たちに向き直り、そうして頭を垂れる。それが謝辞を意味するものだと、小人たちは理解する。
 王子の話は続く。
「姫を手に入れようと、このような計画を立てたのも私だ。元々は一人でこの場所まで出向き、解毒薬を手に入れ、戻る手筈だった。だが、その考えは当の昔に消し去ったのだ。君たちと、ここに来ることを決めた時から」
 小人たちの思いに胸を打たれた王子は、自らの過ちを認めた。だから、彼は一人戦うことを選ぶ。
 はず、だった。
「君たちの思いに、私は間違っていたのだと気づいた。そうして、その気持ちに、私は真っ直ぐ向き合いたいと思った。君たちが姫を思うように、私が姫に対して抱いている気持ち。その思いに、正面からぶつかろうと思った」
 聞き入っていた真弘も、思わず眉を顰めた。
「胸を張ってその隣に居たいから、私は、もう逃げたりしない」
 皆が陽介の方を向いていた。役者も、北斗も、そうして真弘も、あるいは、勘直も。
それは、台本にはない台詞だった。台本とは違う台詞。北斗がこちらを見たのが分かった。真弘はそれに目配せして、頷く。
 このまま、やらせてやろうと思った。
「そう、決めたのだ」
 王子――陽介はそう漏らすと、周りを見渡してから勘直の方へと向き直った。
「だから、一緒に、戦って欲しい。私の過ちを正すために、君の力を貸して欲しい」
 そう言って、王子が小人――勘直に向けて右手を伸ばす。控えている皆が息を飲んだのが分かった。かくいう、真弘も。
 同時に真弘は、その時薄らと、確信していた。
 勘直がどう答えるか。それによって、この劇は幾重にも変貌を遂げる。
(……どう、出る?)
 暫しの沈黙。それも、ほんの数秒だったろうか。小人は頷き、王子の手に掌を重ねた。そうして笑顔になる。笑顔になって、それから――

   *

 小さな頃のことを思い出していた。まだ自分が、年端もいかぬ小学生だった頃の話だ。家に帰るといつも、勘直は一人ぼっちだった。
 夜遅くまで帰ってこない父と、近くの保育所で働く母。高校に通う姉は夜に帰ってくるばかりで、家にはいつも誰もいなかった。今となってはもう慣れてしまったけども、あの頃の自分は、自分の部屋に閉じこもっては何するでもなく床に転がってばかりで。そうしてその内に呼び鈴が鳴ると、ガバっと身体を起こして玄関まで駆け出すのだ。
 その先に、陽介がいることを知っているから。

「あそぼー、かんちー」
 勘直の家の事情を知ってか知らずか、陽介は毎日の様に勘直の家までやってきた。そうしてそのまま近くの公園や陽介の家に行って、日が山際にかかる頃まで遊んだ。日が沈み切る前にはいつもお別れをして、一人で帰路につく。
 だけれどいつだったか、陽介が家まで送って行くと言い出した日があったっけ。
 その日、陽介は学校を休んでいた。理由は勘直も知っていた。クラスにいじめっ子がいて、どうしても行けなくて。そういう日、決まって陽介は公園のブランコにいる。そんな時だけは、勘直も学校帰りに公園に行って、陽介の様子を見に行く。一緒に帰ろうと陽介が言ったのは、確かそんな日だった。
 どこかボーッとしている陽介の手を引いてやる。どっちが送ってやっているのかも分からないような状況だったが、今思えば陽介なりに思うところがあったのだろう。二人で一言も喋らずに歩いた日のことを、勘直は今でも覚えている。
 やがて空が紫に染まる頃、二人は勘直の家までたどり着いた。そこで勘直は陽介の方を向き、ここまででいいよ、と言った。陽介は黙って頷き、勘直の手を放した。手に触れた外気が冷たかった。
「それじゃあ、明日は頑張って学校行けよ?」
 そう言って我が家の扉に向き直る。ドアノブに手を触れた瞬間、陽介の声がした。勘直、と。小さな声がそう呼んだ。
「また明日、ね」
 振り向く間もなくそう告げ、陽介は帰っていった。
後には、掴んだドアノブを回せないままでいる勘直だけが残された。
(――また明日、か)
 陽介の言葉を反芻する。そうして、勘直は深呼吸した。扉を思い切り開き、ただいまを告げることもなく自分の部屋へと駆け込んだ。そうして、そのままベッドに転がった。枕がとても冷たかった。枕だけじゃない。カーテンがかかったままの室内は、どこもかしこも冷たかった。誰もいない家で、日の差さぬ部屋の中で、勘直は思わず寒さに震えた。
 そうしてそのまま、一人声を上げずに泣いた。
 あの時――陽介の言葉を聞いた時、勘直は理解してしまった。陽介が勘直の来ることを楽しみにしていること。会えることを楽しみにしていること。そうして、自分自身もそう願っているのだということを。
(この家は、寒すぎるんだ)
 耐えらんないよ。そう呟き、勘直は布団に包まった。涙は止まってくれなかった。
 ずっと、兄弟のように育ってきた。勘直は陽介の手を引いて、陽介はそれについてくるだけで。そんな風に育ってきたから、いつも寂しくなかった。いつも傍には陽介がいてくれた。
 だけど、今はどうだ。
 陽介は学校に行けず、自分はそんな陽介を助けることもできない。明日は学校に来いなんて気安く言い放っても、陽介の苦痛が消えるわけじゃない。消せるわけじゃない。
 何もしてやれない、そう気づいてしまった。
 助けられているのは自分の方なのだと、気づいてしまった。
(……ごめん、陽介)
 ごめん。誰もいない部屋の中で、勘直の声だけが静かに響いた。
「……助けてやれなくて、ごめん」

 ――小さな頃を思い出した。自分に力がなくて、陽介を助けることができなかった、あの頃。
 自分の無力を呪ったあの頃。
 今はもう、あの時とは違う。陽介はクラスの皆と仲良くやっているし、二人はずっと同じように育った。それなりに楽しい毎日を、二人は手に入れた。
 だけど、そう。
 陽介が劇の主役をやると言った時、少し焦った。陽介はずっと変わらないままだと思っていた。ずっと一緒に成長して、このままで大人になっていくものだって、勝手に思っていた。
だけれど、違うのだ。そんなことはないのだ。
 二人はやがて、別々の道を進む。
 いつまでも変わらないままではいられない。
 勘直も、今では一つだけささやかな目標を見つけた。陽介の話を聞いてから今日までに、一つだけ大切な目標を決めた。それはまだ誰にも話していない、誰も知らない勘直だけの秘密だ。そうして、それを陽介に言うつもりも、今はまだない。それでいいと思った。秘密のまま、進んでいこうと思った。
 もう二人は、あの頃みたいな「仲のいい兄弟」ではなくなってしまったけれど。
 
 互いに助け合えるくらい、大きくなった。

   *

 逡巡は、それこそ観客にすら分からないくらいの間だっただろう。真弘も、小人が笑った瞬間、勘直が何を言おうとしているか理解するまで、自分が息を止めていたことに気づかなかったくらいだ。それほどまでに自然に、勘直は言葉を紡ぎ出した。
「……分かりました。私は、貴方と共に戦いましょう。貴方の、強い思いに誓って」
 王子が、泣きそうな笑顔を作って頷く。それが、皮切りだった。
王子はそのまま、軌道修正を図るように魔女に宣戦布告した。こちらが勝ったら解毒薬を用意しろと突きつけ、魔女の反応を待つ。
 呆気にとられていたらしい魔女役も、それからは台本にある通りだ。王子の気まぐれに付き合わされた形となったことに激怒し、自分の配下を差し向ける。そこから三人の小人と、魔女の配下との戦いが始まる。各々の武器を振るい、激しい戦いを繰り広げていく。手下の中で一番強い頭も、勘直と、そうして王子の二人によって倒された。閃光の散るような激しい戦いだった。
 真弘は、それを見送ってから土間の裏、小道具などの置かれた控え場所まで下がった。級友たちは土間の端から劇の行く末を見守っている。今この場所には、真弘しかいない。
「……ったく」
 無茶なこと、しやがって。真弘は呟き、その場に座り込んだ。右の手で視界を覆い、大きく息を吐く。気が付けば、手にはびっしょりと汗をかいていた。身体がドッと疲れた気さえする。
「……心臓に悪いなぁ、おい」
 それでも。真弘はそっと右手を伸ばし、口元を緩めた。何故か笑いが込み上げてきた。安心感とともに、それで良かったのだと、自然に思えた。
 外からは、大きな歓声が聞こえていた。きっと王子と、それから小人が魔女を倒したのだろう。台本とは別の形で……二人の、力で。
(……あいつ、最初から、決めてやがったな)
 陽介のあの行動を間近で見送り、真弘はそう思った。確証はない。ただ、根拠があるとすれば、先日の屋上の、あの言葉。陽介が言った、『自分を変えたかった』という言葉がそれなのだろうと思えた。自分を変えたいと、強くなりたいとして、あいつはどうありたいと願うだろうか。
 きっと、その答えは明確なのだろうと思う。けして伝わることのない一人を除いて、少なくとも真弘には思い当たるところがあった。
(……そろそろ、行かないとな)
 劇は直に大団円となる。そうしたら、最後にクラス全員でダンスを踊るのだ。そういう段取りになっている。
「……後で、怒鳴ってやんねぇとな」
 真弘はもう一度深呼吸すると、立ち上がり先ほどの位置まで戻った。
 北斗がこちらを向いて、穏やかに笑った。

   *

「――ありがとうございました!」
 勘直と陽介の声に連れて、皆が声を揃えて「ありがとうございました!」と言った。同時に頭を下げ、惜しみなく送られてくる拍手を一心に浴びた。暫く顔を上げられなかった。暫く、この音を聞いていたいと思った。
 それでも。ゆっくりと顔を上げる。周りを見渡し、一緒にやりきったクラスメイトたちの顔を、一人ひとり。音響を、小道具を、そうして小人を、魔女を、あるいは姫を。北斗や真弘、そうして最後に、陽介の方を見た。陽介は、真剣な表情で前を見ていた。未だやまない拍手と歓声を、その身で感じていた。
 勘直はその姿を見ながら、思わず苦笑を漏らした。いい顔をするようになった。本当に、陽介は。
「……お疲れ様、な」
 視線を同じように前へ向けながら呟く。陽介がこちらを見たのが分かった。そうして、「うん」と満足気な声が聞こえた。満足気に、頷く姿が映った。


 最後の文化祭は、こうして終わった。
 三年一組の劇「白雪姫」。
 たくさんの人から祝いと歓声を受けた劇は、大成功の内に幕を下ろした。

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