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一、夜の底 万丈北斗

 けして、大それた理由があったわけじゃない。ただこの決断は、何かしら役をやるくらいならとか、あるいは人に言えないような細やかな理由があってだとか、色々の可能性を天秤にかけた結果なのだ。そんな理由でいいのかなって、少しだけ心配にはなるけど。
 だけど、意を決して。「槻柳(きりゅう)くん」と呼びかけて、彼が振り返るのを待つ。その一瞬の間に、少しだけだが後悔しかけていた。
「おー、万丈(ばんじょう)。どした」
 槻柳勘直(かんち)。文化祭委員をやっている彼に、北斗(ほくと)が声をかけたのは他でもない。
「あの、お、おれ……」
 台本、やりたいです。そう言うと、勘直が驚いたように目を見張った。

(ちゃんと、言えた……)
 緊張を解くようにもたれかかりながら、図書館の扉を開く。誰もいない図書館の中は少しだけ薄暗い。北斗は部屋の電気をつけてから、委員のためのカウンター席に腰掛けた。
 机に突っ伏して、大きく息を吐く。そうすると今まで強張っていた身体がようやくほぐれていくようだった。言ってしまったなと思いながら、すぐに勘直の顔を思い出す。
(……槻柳くん、驚いてた)
 そうして、彼はすぐに嬉しそうに顔を綻ばせてくれた。劇をやると決まった日から、台本を誰に頼むかが懸念事項だったのだろう。それを、北斗が買って出た。
『頑張れよ、万丈。なんかあったらいつでも相談してくれよ』
 そういう勘直の顔は明るかった。決まったことに安堵しているといった様子。北斗はそれが少しだけ嬉しかった。役に立てるかなと考えて、すぐに首を振る。まずはやってみないと。結果を残さなければ始まらない。
(劇の、演目は)
 確か、白雪姫だった。そう考えてそのストーリーを思い浮かべる。席を立ち、白雪姫の本を探してみる。すぐに見つかった。パラパラと流し見て、ぼんやりとイメージを思い浮かべる。
 劇なんだから、登場人物が多いほうがいいよな。そうすると、七人の小人はいるかな。
 あ、でも、そのままのストーリーだと受けないって誰かが言ってたっけ。少しだけオリジナル要素入れたほうがいいのかな。
 とすると、小人を主役に……。
 そこまで考えて、北斗はカウンター席に戻った。鉛筆と適当な藁半紙を取り出すと、ガリガリと思い浮かべたイメージを書き記していく。頭の中では既に新しい世界が生まれていた。
「あの、すいません」
 その声にハッとして顔を上げる。本を借りに来たらしい生徒がいた。北斗は小さく頭を下げると、手早く貸し出しの手続きを済ませた。夢中になりすぎてたなと思い直す。いつの間にか図書館の中には、疎らながら生徒が集まっている。
(……皆、教室に居づらいのかな)
 北斗はぼんやりとそんなことを考えてから、ふるふると首を振った。今はあくまで昼休みだから、仕事に集中しよう。どうせ、時間はたくさんある。
(続きは帰って、から)
 白雪姫の本を自分名義で借り受けると、北斗は誰かが来るまで本を読んで待機することにした。

「万丈、台本やるんだってー?」
「やるからには派手に頼むぜ。楽しい奴、期待してっからな」
 短く声をかけると、そのままクラスメイトたちは部屋を駆け出していった。今日の授業は終わり。短いホームルームを終え、皆各々放課後を過ごす場所へと移っていく。
 部活に入っていない北斗は、基本的には図書館へ寄ってから帰る。でも今日は違う。当番ではないし、やるべきことが他にある。
(早く帰って、続き……)
 忘れてしまわぬ内に。そう考えながら北斗は駆け足で家まで向かう。
 海岸沿いの道を、車に気をつけながら進む。夕日に赤く染まる海がどこか幻想的で、思わず足を止めた。キラキラと輝く景色に目を奪われながらも、思い出したかのようにまた走り出す。いいなと思いながら、綺麗だなと思いながら、それでもそこから目を反らして、北斗は家へと急ぐ。家に着く頃には、息が切れていた。
 「ただいま」と言いながら扉を開ける。返事がないことは知っている。そのまま扉を閉め、暗い部屋の中へ。電気をつけて、鞄を下ろす。日当たりの悪い家の中は、六月だというのに少し肌寒い。
 北斗は腕を摩りながら、洗濯物を片付けるため庭へと向かった。それも、北斗の日課だった。
(母さん、今日も帰り遅いのかな)
 取り込んだ洗濯物をたたみながら、時計を眺める。六時を過ぎていた。今日も夕飯は一人で食べることになりそうだ。
(……まぁ、もう慣れっこだけど)
 北斗の両親は、北斗が小さい頃に離婚した。父親はそれっきり会っていない。母子家庭となった北斗と北斗の母のために、毎月少しずつ仕送りをしてくれているらしいが、詳しくは知らない。北斗の中の父の顔は、もう霞んでしまっている。
 母親は北斗を養うために、毎日朝から晩まで働いている。北斗もまた、母が持ってくる内職を手伝うことはある。だけれど、彼女の言いつけで、北斗はアルバイトをしてはいない。
(学校へ行ってる内は、それを楽しんできなさいって言うけど)
 あんまし、楽しくもないんだよな。北斗はボソッと呟いた。
 時計の音が静かな部屋に響く。そろそろ夕飯を作ろう。北斗はそう思い立って台所へと向かった。調理の片手間で、ぼんやりと学校のことを考える。そうして、そういえばやることがあったのだと思い返す。台本、どうしようかな。つらつらと考えてみる。
 派手にって言ってたから、魔法とか使うといいかな。
 となると、魔女と戦って勝てばいいんだよね。どうして戦う?
 姫が目覚めるのに、解毒剤が必要だから、とか。
 ぐつぐつ煮立つ味噌汁の火を止め、そっと茶碗によそった。冷蔵庫の中の冷えたご飯を取り出し、一緒に食卓に並べた。席に着き、いただきますと小さく呟く。
 キスは、避けたほうがいいのかな。高校生、だしな。
 やっぱり魔女と戦おう。とすると、小人と魔女が戦う話、かな。
 あ、でもそうすると、王子様がいらなくなっちゃうか、どうしよ。
 色々と考えるところはあったが、北斗の考えがまとまらぬまま時間だけが過ぎていく。
(とりあえず、まだ時間はあるんだから……)
 こんな感じでどうだろうと、短く紙に書き留めてみる。明日勘直に見せてみて、また考えていこうと思った。

   *

「これ、万丈が作ったの?」
 紙に書かれたことを一通り読み終え、勘直が顔を上げた。不思議そうな顔つきだった。北斗は少しだけ萎縮しつつ、おずおずと頷く。
 勘直がほーっと感心したような声を上げる。
「すげぇなぁ、万丈こんなことできるんだなぁ。これ、今日クラスの皆に見せてみてもいいかな」
 予想外の申し出に瞬間たじろぐ。それを見た勘直がははっと笑った。
「大丈夫、確認するだけだって。こんな感じでどうって。皆の了承得ないと、作り出せないだろ?」
「それは、そだけど……」
 でもそれは、一晩で作り上げた付け焼刃のものなんだとは言えず。勘直はそのまま紙を担任に渡しに行ってしまった。放課後配ってもらうのだと言う。
 その一日、北斗はそのことが頭から離れなくて、ずっと胃がキリキリ痛んだ。こんなことになるならもっと考えて書けばよかったなとか、矛盾なかったかなとか、心配事は絶えなかった。しかしその時間はやってきた。担任が紙の束を持って入ってきた時、北斗の鬱屈した気持ちは最高潮に達した。短い説明の後に紙が配られていく。恥ずかしさと不安で顔が上げられなかった。
「皆、万丈が草案を作ってくれた。劇はこんな感じになりそうだけど、どうかな?」
 教室内が静まり返る。この一秒がとても長い。ポツリポツリと、声が漏れ出す。なかなかいいと思うとか、も少し練ったらよくなりそうとか。その通りだなぁ、と思っていると、突然ガタッと誰かが席を立つ音が響いた。振り返ると、各務(かがみ)陽介だった。陽介は神妙な面持ちのまま、北斗の席までやってくる。手には件の紙が握られていた。
「これ、王子様はどんな立場なの?」
 陽介の問い。えっと、と口ごもりながら答える。
「小人と一緒に、魔女を倒す役……かな」
「それは、つまり主役ってこと?」
 北斗の中では小人が主役なのだが、実質的には王子も主役といって差し支えないと思えた。なので頷いて応える。それを見た陽介が、満足げに口元を緩めた。
「僕、主役やる。この王子様、やらせて」
「え――」
 北斗の声につられてクラス中に喧騒が広がる。予想外の申し出だった。陽介はじっと周りの反応を待っている。北斗はどうすることも出来ずにわたわたしていた。
 そんな中だった。騒がしかったクラスに張りのある声が響き渡った。
「いいんじゃねーの。他にやりたい奴もいないんだろ」
 声の主へと視線が集まる。机に足をかけるようにして座っている彼は、紙をひらひらと掲げてみせる。部屋中が静かになって、その空気を打ち破るようにもう一度、彼――氷室(ひむろ)真弘(まひろ)が呟いた。
「それと、これ。主役にするんだったら王子のキャラが弱いだろ。そこらへんは練り直したほうがいいんじゃねぇの」
 そう言って彼は北斗を一瞥する。それからは興味をなくしたように舟漕ぎを始めた。
 しんと静まり返った部屋で、北斗は一人「分かった」と呟いた。

   *

 図書館の扉を開けると、今日はもう電気がついていた。カウンターに同じ図書委員の子を見つけ、そっと会釈する。北斗もその隣まで移動して、委員用の席に腰掛ける。そのままふーっと息を吐いた。ようやく一息つくことができた。
(氷室くんが、何か言ってくるとは思ってなかった……)
 先程のクラスでのやり取りを思い出し、北斗はもう一度大きな溜息をつく。王子のキャラが弱いと言った、彼の顔を思い出す。氷室真弘。クラスでの行事に一切関わってこないと思っていた人物からの指摘に、思わず北斗は項垂れる。すごく、驚いた。
 その状態で件の紙を取り出し、今一度眺めてみる。真弘の言葉を反芻しながら、王子の動きを辿ってみる。
(……言われてみれば、だけど)
 確かに、今のままでは王子の必要性をあまり感じない。陽介の顔を思い浮かべる。主役を彼が買って出た以上、王子にはそれなりに活躍してもらわなくてはならない。
 紙と鉛筆を取り出した。ガリガリと発想を広げていく。少し視点を変えてみることにした。すなわち、陽介は既に配役が決まっているのだから――
(小人たち、は……)
 クラスの皆の顔を思い浮かべた。そうして、役にぴったしの誰かを考える。七人の小人、姫、魔女。その一つ一つ思い浮かべている内に、自然と物語の筋道が見えてきた気がした。
 小人の一人は彼にしよう。魔女はあの人がいい。ナレーションも欲しいかもしれない。そんなことを考えているうちに、見る見る内に物語が出来上がっていく。
「――精が出るねぇ」
 不意に聞き覚えのある声が聞こえ、思わず身体を強ばらせた。恐る恐る顔を上げると、予想通りの人物がそこに立っていた。
「ん、これ頼む」
 ぶっきらぼうにそう言い、真弘が一冊の本を差し出す。一瞬なんだろうと思ったが、ここが図書館であることを思い出す。今は放課後で、北斗は図書委員だ。つまり、真弘は。
(氷室くん、本なんて読むんだ)
 心の中でそう呟きながら真弘の持つ本を受け取った。考えてから、少し失礼だったかなと思い直す。何の本だろう。そう思いながら表紙を見れば――
「あ……」
「早くしてくれよ」
 無愛想な声が聞こえて、北斗は慌てて貸出の手続きを済ませた。真弘は北斗の手からその本を受け取ると、「そんじゃな」と言ってそのまま帰っていった。
 残された北斗は、しばらくの間呆然としていた。真弘の借りた本は、何も特別珍しいものではない。有名な作家の代表作であり、映像化もされている名作。そしてそれは、北斗にとっては一つ、大切な意味を持つ本でもあった。
(……氷室くんも、好きなのかな)
 真弘が借りていった本のタイトルを思い出し、心内で繰り返してみる。一夏の、少年達の冒険物語。真弘も、あの本が好きなのだろうか。
(……今度、話してみよう、かな)
 真弘と。案外、気が合うかもしれない。そんな風に思った。

 次の日北斗は、図書館で書いていた物語を軽く修正し、クラスの皆に見てもらった。結果は、予想以上に好評だった。
「おもしれぇじゃん、早くこれやってみてぇ」
「万丈くん、あたし小人やりたい! こんな可愛い役、男子だけに任せらんないよ」
 口々に好評を告げていくクラスメイトに、北斗も少しだけ誇らしくなった。
 その日は、真弘からも特に指摘はされなかった。

 海岸近く、道路に沿うように続くブロックの上を、北斗は軽い足取りで辿っていた。潮風が柔らかく北斗を包む。いつもより上気した心は冷めるところを知らず、心地よい充足感を届けてくれる。
(……褒められ、た)
 そのことが何よりも嬉しくて、北斗は軽快に家を目指している。早く清書しないと。まだまだ台本と呼べるには程遠いのだ。だけれど、頑張った分だけ皆が喜んでくれる。その事実が、北斗をたまらなくやる気にさせる。
 家につき、いつもの通り洗濯物を片付ける。自分用の夕食を作り、考え事の中もそもそと食べた。手短に皿洗いを終え、家に唯一あるパソコンに向き合った。頑張ろう。そう呟きながら、今日図書館で書いていた紙の束を取り出す。それを参考にしながら、文字を打ち込んでいく。人物の配分にも気を使わなくてはいけない。
 作業は思いの外長引いてしまい、出来上がる頃には一時を回ってしまっていた。明日までの課題があることを思い出す。もうやれそうにないなと、ため息をついた。
 出来上がった台本を印刷しながら、北斗は暫し色々な事を考えていた。
 今まで、クラスの中では目立ってこなかった北斗だ。元々の性分に加えて家庭環境の問題もあり、北斗はいつからか、人と付き合うことに抵抗を感じていた。普段は一人で過ごし、昼休みや放課後には図書館へ行く。図書館は学校内で唯一、北斗の落ち着ける場所だった。
(……母さんは楽しんで来なさいって言うけど、さ)
 北斗にとっての学校は、あまり居心地のよいものではなかった。
 印刷機がテンポ良く紙を吐き出す。ガーガーとけたたましい音をたてながら部屋の静寂を打ち破る。
(……だから、そう)
 それは、今までに考えたことのないことだった。
 刷り終わった紙を順番に並べると、北斗は鞄を携えて自分の部屋へと向かった。
 扉を開け、月明かりの射す部屋に入った。鞄を置く。ジッパーを開き、ファイルに台本をしまいこんだ。そのまま倒れこむようにベットに転がり込む。
 今まで、考えたことがなかった。
 月明かりを見つめながら、北斗はそっと息を漏らす。考えたことがなかったは違うなと、一人思い直す。それは、ずっと忘れたままでいた感覚だった。
 父親がいない。小学校の授業参観にも、運動会にも母親は来られなかった。友達の家族と一緒に食べる弁当は、楽しくもありどこか惨めだった。
 いつからか友達にも遠慮して、北斗は一人で弁当を食べるようになった。その頃からずっとだ。その頃からずっと、北斗は学校を楽しいとは思えなくなっていた。だから、忘れていた。学校が恋しいと思うのも、誰かに会いたいと思うのも。久しく忘れていた感覚だった。
 昼間皆から貰った言葉が木霊する。その一つ一つが微かな温もりを帯びて、北斗のことを優しく包み込んでくれる。それが、こんなにも心地よい。
 月明かりをぼぉっと眺めながら、北斗は静かに息を吸う。こんなにも一人の夜が長いなんて、寂しくなるなんて。今までずっと、知らなかった。
(……だけど、今度こそ)
 混ざれるかな。おれも、輝けるかな。北斗はそう呟いて、目を瞑った。冷たい夜の底へと、身を委ねていく。

 そうして、次に北斗が目を覚ます頃には、もう夜は明けてしまっていた。


 翌朝、身体の節々が痛む中で学校に出向くと、担任の舟木に職員室へ来るよう言われた。呼ばれる理由に心当たりがなかったので、少しばかり緊張しながら向かう。失礼しますと断りを入れて、中に入った。
「おう、来たか」
 朝早くから悪いな。そういって舟木は頭を下げてみせる。北斗はふるふると首を横に振った。そうして、そこにもう一人、クラスメイトがいることに気付いた。真弘だった。
「万丈一人じゃ大変だろうと思ってな」
 そう言うと舟木が真弘の背を叩く。真弘が不承不承といった調子で、北斗の方を見やった。目があう。真弘がさっと目を反らす。
「……監督、やることになった。よろしく頼むわ」
 真弘の声に、思わず言葉を失い、

 ――おれも輝けるかなって。その時ふっと、思ったんだ。

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